第2話
第2話
新宿駅の雑踏は、人間の体温で蒸れている。
改札を抜け、地下通路を東へ。蓮はブリーフィングで渡された経路を脳内で反復しながら歩いた。スーツに着替えたのは潜入のためだ。血臭のコートではさすがに目立つ。七瀬が用意した偽造招待状がジャケットの内ポケットに入っている。VIP顧客の代理人という設定。名前も経歴も架空だが、裏社会の身元照会を通過できる程度には精巧に作られていた。
地下街の端、テナント撤退で閉鎖された区画。「工事中」のパーティションの裏に、それはあった。防火扉に偽装された鋼鉄の入口。蓮が招待状のQRコードをかざすと、扉の横に埋め込まれたスキャナーが緑色に点灯し、ロックが解除される重い金属音が響いた。
階段を降りる。地下一階。通路の壁は打ちっぱなしのコンクリートから、黒い大理石調のパネルに変わった。照明は暗い琥珀色。高級クラブのような空気を演出している。足元には深紅のカーペットが敷かれ、靴底が沈む感触がかえって不気味だった。どこかから低い重低音が響いている。音楽ではない。地下深くで何かが稼働している振動だ。スーツ姿の男たちが数人、同じ方向に歩いていた。誰もが無言で、互いの顔を見ない。ここでは匿名性が最大の商品だった。
地下二階。受付カウンターに女が二人立っていた。ドレスの上からでも分かる筋肉の付き方。異能者だ。蓮は招待状を差し出した。女の一人がスキャナーで読み取り、端末を確認する。
「三番バルコニーへどうぞ。本日のカードは二十二時開始です」
声に感情がない。訓練された応対。蓮は頷き、案内された通路を進んだ。この時点で施設構造の七割は把握できた。地下一階が受付とラウンジ。地下二階が観客席と賭博管理。そして地下三階が——闘技場本体。ブリーフィングの情報通りだ。だが図面にない通路が二本ある。排気ダクトの配置から推測すると、東側に管理区画、西側に選手の待機区画。最深部への侵入経路は西側のダクトが使える。
三番バルコニーは闘技場を見下ろす半個室だった。革張りのソファ、ウイスキーのボトル、モニター。蓮は席に着き、眼下に広がる光景を視認した。
円形の闘技場。直径およそ十五メートル。床面は鉄板で、所々に暗褐色の染みがこびりついている。血だ。古いものから新しいものまで、幾重にも重なった染み。何百、あるいは何千の試合分。周囲を囲む観客席は三百人規模で、すでに八割が埋まっていた。スーツの男。ドレスの女。軍服に似た制服を着た外国人。誰もが上質な酒を手に、これから始まる殺し合いを待っている。
蓮はウイスキーに口をつけず、視線を動かした。対面のVIP席——ひときわ照明が暗く、防弾ガラスで仕切られた区画に、三人の人影があった。一人は大柄な男。残りの二人は判別できない。だが大柄な男の右手首に、蓮は紋様を認めた。黄昏の太陽を模した刺青。灰燼課のデータベースにある〈黄昏盟〉幹部の識別マーク。
やはり、ここは末端の穴蔵じゃない。
場内アナウンスが流れた。第一試合。二人の異能者がリングに上がる。一人は全身に鱗のような皮膚硬化を持つ大男。もう一人は細身の女で、指先から電弧を放っている。開始のブザーが鳴った瞬間、鱗の男が突進し、女の電弧が男の胸を焼いた。肉の焦げる匂いが三番バルコニーまで届いた。観客席から歓声が上がる。
蓮は男の動きを三秒で解析した。鱗の硬度はモース硬度で六程度。〈崩律〉で書き換えれば紙同然になる。女の電弧は推定三万ボルト。空気の絶縁破壊距離から逆算すると、有効射程は四メートル。どちらも蓮の相手にはならない。問題は数だ。この施設に常駐する異能者が何人いるか。選手だけでなく、警備にも異能者が配置されているはずだ。
鱗の男が女の腕を掴み、投げ飛ばした。女の体がリングの鉄板に叩きつけられ、跳ねた。動かない。審判役の男が近づき、手首の脈を確認する。生きている。だが左腕が不自然な角度に曲がっていた。観客席からブーイングが混じった歓声。もっと壊せ、もっと血を見せろという意思表示だ。
蓮は顔色一つ変えずに観察を続けた。第二試合、第三試合。異能者同士の殺し合いが続く。試合ごとに観客の興奮は増し、賭け金の額が跳ね上がっていくのがモニターの数字で見て取れた。蓮はその間に施設の警備パターンを記録した。巡回は十二分周期。地下三階への階段は二箇所。東側は警備が厚く、西側は搬入口を兼ねているため人の出入りが多い。紛れ込むなら西だ。
第五試合が終わった時点で、蓮は席を立った。化粧室に向かうふりをして通路に出る。西側の搬入口まで、通路を三本。途中の監視カメラは四台。死角を縫って歩けば、映らずに移動できる。蓮はブリーフィングで得た施設図面と、実際に歩いて確認した構造の差分を照合しながら、最深部への経路を確定させた。搬入口の鍵は電子錠。型番から推測すると、〈崩律〉で回路の導通を書き換えれば三秒で開く。
問題はタイミングだ。今夜は偵察に徹する。構造を完全に把握し、警備の異能者の数と質を見極め、最適な突入経路を確定させる。それが任務だ。七瀬もそう指示した。蓮はそのつもりだった。
——そのつもりだった。
化粧室から戻り、三番バルコニーに座り直した直後だった。場内の照明が一斉に落ちた。闘技場だけがスポットライトに照らされ、地下全体が暗い穴になる。空気が変わった。観客席の興奮が、一段階上の周波数に切り替わる。待っていたのだ。全員が、この瞬間を。
『お待たせいたしました——本日のメインイベントです』
アナウンスの声が、先ほどまでの事務的なトーンから、劇場の司会者のそれに変わっていた。
闘技場の鉄板の床が、中央から割れた。油圧式のリフトが地下三階から何かをせり上げてくる。金属がきしむ音。鎖の擦れる音。そして——歓声。
リフトの上に、檻があった。
鉄格子の檻。幅二メートル、奥行き二メートルの箱。その中に、人影が蹲っていた。小さい。子供だ。いや——少女だ。年齢は十四、五に見える。痩せた体に白い拘束衣。手首と足首に鎖が巻かれ、首には黒い金属の輪がはめられている。髪は伸び放題で、顔の半分を隠していた。拘束衣の裾から覗く素足は裸足で、鉄板の冷たさに触れているはずなのに、少女は微動だにしなかった。
蓮の視線が止まった。
少女の手首の鎖が、蛍光灯の光を反射している。だがその反射の仕方がおかしい。鎖が——動いていた。少女の意思とは無関係に、あるいは連動して、鎖の一本一本が蛇のようにゆっくりと蠢いている。異能だ。鎖そのものが彼女の異能の発現体。
『無敗の女王。通算戦績、三十二戦三十二勝——〈鎖姫〉の登場です』
歓声が爆発した。拳を突き上げる者、口笛を鳴らす者、賭け端末を狂ったように叩く者。三百人の人間が、檻の中の少女を見て熱狂している。少女は蹲ったまま動かない。歓声が届いていないかのように。あるいは、聞こえていても、もう反応する機能を失っているかのように。
蓮は少女の目を見た。
髪の隙間から覗く瞳は——何も映していなかった。闘技場の光も、観客の熱狂も、自分を取り囲む鎖の蠢きも。全てが等しく無意味であるかのような、完全な空洞。
蓮は自分の目を知っている。鏡で見たことがある。灰燼課の三年間の調整で削り取られた感情の残骸。何も感じない目。何も求めない目。
あの少女の目は、蓮の目と同じだった。
——偵察は終わりだ。
蓮の指が、無意識にジャケットの袖口に触れていた。布地の繊維構造を感じ取る。〈崩律〉が起動を待っている。任務計画では今夜は偵察のみ。だが蓮の処理回路の中で、何かが書き換わりつつあった。論理ではない。計画変更の合理的根拠もない。ただ、あの空洞の目が、蓮の一時保存領域に残った七瀬の言葉と重なった。
『お前はいつか壊れるぞ』
壊れる。壊れるとは何だ。最初から何も組み上がっていない人間が、壊れるとは。
檻の扉が開かれ、少女が闘技場に押し出された。鎖が床の鉄板に擦れて、甲高い金属音を立てた。少女はよろめきながらも倒れなかった。裸足の足裏が鉄板を踏みしめ、背筋がわずかに伸びる。戦うことだけを刻み込まれた体が、意思とは無関係に臨戦態勢を取っていた。対戦相手がリングに上がる。筋肉の塊のような男。異能は——腕が膨張し、岩のような質感に変わっていく。硬質化系。少女の三倍はある体格差。観客が沸く。
蓮はウイスキーのグラスを置いた。
氷が鳴った。それだけの音が、やけに鮮明に聞こえた。