第3話
第3話
鎖が、嗤った。
少なくとも蓮にはそう見えた。少女の手首に巻かれた鎖の束が一斉にほどけ、六本の蛇のように宙に広がった瞬間——闘技場の空気が、音ごと凍りついた。
対戦相手の岩腕の男が突進する。床の鉄板が軋み、重量級の体が驚くほどの初速で距離を詰めた。振りかぶった右腕は完全に岩石化しており、直撃すれば人体など容易く砕ける。観客席から地鳴りのような歓声。体格差三倍。異能の相性も、見た目には男が圧倒的に有利だ。
少女は動かなかった。
男の拳が届く寸前——鎖が動いた。
六本のうち二本が床の鉄板を貫通し、男の足元から噴き出した。足首に巻きつき、引く。バランスを崩した男の顎に、三本目の鎖が下から突き上げるように叩き込まれた。岩化していない生身の顎。衝撃で男の上体が跳ね、空中で無防備になった胴体を四本目と五本目が締め上げた。両腕を胴体に縛りつけるように。
ここまで、二秒。
蓮は三番バルコニーから身を乗り出していた。少女の鎖の軌道を解析する。六本同時制御。それぞれが独立した判断で動いている。いや、違う。根本は一つの意思で統率されているが、末端の反応が状況に適応して変化している。自律分散型の制御系。蓮が今まで見た鎖使いの異能とは、根本的に次元が違った。
男が咆哮した。岩化した両腕を膨張させ、力任せに鎖を引きちぎろうとする。鎖が軋む。だが——切れない。蓮の目が細まった。鎖の断面を見る。通常の鉄鎖ではない。少女の異能が生成した鎖は、分子構造そのものが異能によって強化されている。男がどれだけ膨張させても、鎖の引張強度がそれを上回る。蓮の〈崩律〉で書き換えない限り、あの鎖を断ち切れる異能者はそういない。
残った六本目の鎖が、ゆっくりと持ち上がった。蛇が鎌首をもたげるように、男の顔の前で揺れる。止めの一撃。観客席が沸騰した。拳を振り上げ、殺せと叫ぶ者。スマートフォンで撮影する者。賭けの配当を計算する者。三百人の人間が一人の少女に殺意を代行させ、それを娯楽として消費している。
少女の右手が、わずかに動いた。指を握る。それだけの動作で、六本目の鎖が男の首に巻きついた。締め上げはしない。巻きついた状態で静止する。男の顔が紫色に変わり、泡を吹いて意識を手放した。鎖が緩み、男の体が鉄板の床に崩れ落ちる。鈍い音。
三十三戦三十三勝。
歓声。悲鳴に近い歓声。観客席の全員が立ち上がり、足を踏み鳴らし、グラスを掲げた。闘技場を照らすスポットライトが少女を捉え、白い拘束衣に影を作った。
少女は動かなかった。歓声に応じず、倒れた男を見下ろしもしない。六本の鎖が重力に従ってだらりと垂れ下がり、鉄板の上に金属音を立てて落ちた。少女はただ立っていた。裸足の足が鉄板の冷たさを感じているのかどうかも分からない。顔の半分を隠す髪の奥から覗く目は、先ほどと変わらない空洞のままだった。
勝っても、何も変わらない。三十三回勝っても、あの檻に戻るだけだ。
蓮にはそれが分かった。論理でも推測でもなく、もっと原始的な回路で。蓮自身が四十七件の闘技場を壊した後、始発電車でおにぎりを食べる空虚と、あの少女の空洞は同じものだった。処理すべき対象を処理した後に残る無。達成感も解放感もない。次の入力を待つだけの待機状態。
管理者と思しき男がリングの端から歩み出た。白衣を着た細身の男で、右手に小型のリモコンを持っている。少女に近づき、何かを耳元で囁いた。少女の体がびくりと震えた。それまで微動だにしなかった体が、管理者の一言で——恐怖で震えた。
管理者がリモコンのボタンに指をかけた。
少女の首の黒い金属の輪——電気ショック式の制御首輪。少女はすぐさま項垂れ、両手を前に差し出した。従順の姿勢。鎖が自発的に少女自身の手首に巻きつき、拘束状態に戻った。管理者は満足そうに頷き、少女の背を押して檻のリフトに乗せた。リフトが降下していく。少女の姿が鉄板の床の下に消えるまで、蓮はそれを見ていた。
あの首輪が全てだ。異能を無効化する装置ではない。痛みと恐怖で支配する装置。三十三戦無敗の異能者を、あんな小さなリモコン一つで制御している。管理者は少女の異能が自分に向かないと確信している。壊し方を知っているからだ。異能ではなく、心を。
蓮の思考が切り替わった。
当初の任務計画は施設の殲滅だった。構造を把握し、最適な突入経路を確定させ、全戦闘員を無力化する。いつもの手順。だが蓮の処理回路が、異なる出力を返していた。殲滅ではない。ただ壊すだけでは足りない。あの少女は殲滅の巻き添えで死ぬ可能性がある。地下三階のリフト機構が闘技場と直結している以上、上階から崩せば最深部が生き埋めになる。それは、許容できない。
許容できない。
その結論を出した自分の回路を、蓮は冷静に観察した。何だ、これは。任務計画の変更に合理的根拠がない。灰燼課の指令は施設の殲滅であり、内部の人間の保護は含まれていない。少女は闘技場の戦闘員だ。被害者であると同時に加害者でもある。保護する理由がない。なのに、蓮の回路は「殲滅」ではなく「救出」を選択しようとしている。
壊れる前兆——七瀬の言葉が、もう一度反復した。
蓮は席を立った。
三番バルコニーを出て、西側の通路へ。化粧室に向かう客のふりは、もう必要ない。足音を消し、監視カメラの死角を縫って搬入口に向かう。暗い通路の壁に手を触れ、〈崩律〉で微弱な振動を読み取った。壁の向こう側にいる人間の数と位置が分かる。物質を通した振動解析。応用の一つだ。
搬入口の手前に二人。電子錠の型番は事前に確認済み。蓮は通路の角で立ち止まり、壁の摩擦係数を指先で書き換えた。搬入口前の床が鏡面のように滑らかになる。足音を聞きつけて振り向いた警備員が一歩踏み出した瞬間、足が滑り、バランスを崩した。もう一人が反応するより速く、蓮が間合いを詰めて二人の頸動脈を同時に圧迫した。崩れる体を壁に寄りかからせ、眠っているように見える姿勢に整える。所要時間、四秒。
電子錠に触れる。回路の導通パターンを書き換え、ロックが解除される。鋼鉄の扉が開き、地下三階への階段が姿を現した。暗い。非常灯の緑色の光だけが、コンクリートの段差を照らしている。空気が変わった。上階のラウンジの作られた高級感はなく、配管がむき出しの天井と、消毒液の匂い。ここが施設の内臓だ。
階段を降りる。途中で一人。見回りの戦闘員が、蓮に気づいて腰の拳銃に手を伸ばした。蓮は男の拳銃のスライド部分に触れ、金属の硬度をゼロに書き換えた。拳銃が手の中で飴のように歪み、使い物にならなくなる。男が目を見開いた瞬間に、蓮の膝が鳩尾に入っていた。声を出す間もなく崩れ落ちる。
地下三階。広い通路の両側に鉄の扉が並んでいる。選手の待機室——いや、独房と呼ぶべきだ。扉には外側からのみ開閉できる錠前がついており、内部を覗く小窓すらない。密閉された箱。人間を収納するための。
蓮は一つ一つの扉の前を通り過ぎながら、奥へ進んだ。リフトの機構音が近づいてくる。最深部の大型独房——メインイベントの出場者が収容される区画。蓮の足が止まった。通路の突き当たりに、他より一回り大きい鉄扉がある。扉の横に制御パネル。鎖の擦れる音が、扉の向こうから微かに聞こえた。
蓮は扉に触れた。鋼鉄の分子結合を把握する。厚さ十二センチ。通常なら切断工具でも時間がかかる。だが〈崩律〉の前では、どんな物質も等しく脆い。蓮が指先に意識を集中した瞬間——
背後の通路から足音。複数。五人以上。巡回パターンに割り込む増員。蓮が搬入口の警備員を倒したことが、もう察知されたのだ。
時間がない。
蓮は扉の錠前を掴んだ。焼入れ鋼の硬度を石膏以下に書き換え、握り潰す。金属の塊が砂のように崩れた。蝶番の結合強度もゼロにする。十二センチの鋼鉄の扉が、自重に耐えられず前方に倒れた。地面に激突する轟音が、地下三階全体に響き渡った。
薄暗い独房の奥に、檻があった。
あの檻だ。リフトに乗せられて闘技場に上がる、二メートル四方の鉄格子の箱。その中に少女が蹲っていた。白い拘束衣。手首と足首に巻かれた鎖。そして首の黒い輪。
少女がゆっくりと顔を上げた。髪の隙間から覗く目が蓮を捉えた。空洞の目に、かすかな光が揺れた。恐怖だ。ここに来る人間は、いつも少女に苦痛を与える側だった。だから人が来れば怯える。条件反射。壊され続けた心が刻んだ、生存のためのプログラム。
蓮は檻の鉄格子に右手を伸ばした。
背後の足音が近づいてくる。怒号が反響する。「侵入者だ」「地下三階封鎖しろ」——蓮はそれらを処理対象として一時保存し、目の前の鉄格子だけに集中した。
触れる。鉄の分子構造を把握する。書き換える。
〈崩律〉。
檻の鉄格子が硝子のように砕け散った。破片が薄暗い独房の空気に舞い、非常灯の緑色の光を反射してきらきらと落ちていく。
扉が、開いた。
蓮は少女を見下ろした。少女は蓮を見上げた。二つの空洞が向き合った。片方には恐怖が揺れ、もう片方には——自分でも名前を知らない何かが、静かに灯り始めていた。
背後で戦闘員たちの足音が止まった。通路を塞ぐように展開している気配。蓮は振り向かないまま、少女に手を差し伸べた。
「立てるか」
声が出た。自分の声が、いつもより低いことに蓮は気づいた。