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不戦の嫡男

第2話 第2話「厳虎の正面決戦」

第2話

第2話「厳虎の正面決戦」

厳虎の出陣は、急報からわずか二刻後だった。

城の大手門前に騎馬隊が整列し、歩兵が続く。西方面の騎馬三万が最大の脅威である以上、将軍自らが本隊を率いて迎え撃つ——その判断に異を唱える者はいなかった。厳虎の戦は常に正面決戦であり、寡兵で敵の中核を叩き砕く猛攻こそが、将軍の名を大陸に轟かせた所以だった。

凪は大手門の脇に立ち、出陣の列を見ていた。鉄の匂いが風に乗って流れてくる。甲冑の擦れる音、槍の穂先が朝日に白く光る列、馬蹄が石畳を叩く重い律動。千二百の兵が門を潜っていく。城に残されるのは、三百の守備兵だけだった。

厳虎が馬上から凪を見下ろした。将軍の鎧は実戦用の重装で、朝の光を吸い込むように黒い。兜はまだ被っていないが、鉄灰色の髪が風に靡くその姿だけで、周囲の空気が張り詰めた。

「東の砦を守れ」

厳虎の声は、千の兵馬の喧騒を裂いて凪の耳に届いた。

「死んでも退くな」

それだけだった。将軍は馬首を西に向け、振り返ることなく門を出た。凪への訓示でも激励でもない。城の一角を任せる、それだけの命令。南方面には別の将が向かう。東は——嫡男に預ける、最も軽い戦線。そういう計算だった。

凪は父の背を見送りながら、懐の巻物に手を触れた。読み上げられることのなかった初陣の口上。その紙の感触だけが、昨日と今日を繋ぐ細い糸だった。

鈴が背後に立っていた。いつからいたのか、足音はなかった。

「東の砦へ、向かわれるのですね」

凪は頷いた。砦までは早馬で半日。守備兵は——凪は頭の中で数えた。砦の常駐兵二百に、城から連れていける兵を合わせても、五百がせいぜいだった。

五百で、三千を迎える。

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東の砦は、国境の丘陵地帯に築かれた石造りの防塞だった。三方を崖に囲まれ、正面のみが開けた地形に建つ。攻めるには正面から押し上げるしかないという意味では堅固だが、兵が少なければ城壁の守りが薄くなる。そして今、その城壁を守る兵は五百しかいなかった。

凪が砦に到着したのは、その日の夕刻だった。砦の副将二人が門前で出迎えた。

筆頭副将の荒木は、四十路を越えた歴戦の武人だった。厳虎の下で十年以上戦い、腕と顎に古い刀傷がある。もう一人の副将・陣内は荒木よりやや若く、兵站と城壁の維持を任されている実務寄りの男だった。二人とも凪に頭を下げたが、その目には敬意がなかった。

「若殿には本丸でお休みいただきたい。砦の指揮は我々が執る」

荒木の言葉は丁寧だったが、意味は明白だった。邪魔をするな、ということだ。

凪は何も言わなかった。言い返す言葉を持っていなかった。実戦の経験がない。兵を率いたこともない。荒木の判断は、客観的に正しかった。

砦の兵たちの視線も同じだった。将軍の嫡男が来たという緊張は一瞬で、凪が若く、武張ったところのない書生風の青年だとわかると、兵たちの目から光が消えた。腰抜けの若殿——その噂は城の兵舎から砦まで、風より早く届いていた。

翌朝、斥候が戻った。

荒木と陣内、そして数人の小隊長が砦の作戦房に集まった。凪も末席にいたが、誰も凪のほうを見なかった。

斥候の報告は短く、重かった。赤嶺先鋒三千。騎馬五百を含む。指揮官は赤嶺の中堅将校で、先の国境紛争で二つの砦を落とした実績がある。進軍速度から見て、到達まであと三日。

「三千」

荒木が呟いた。その声に、初めて動揺が滲んだ。

「籠城でどれだけ持つ」

陣内が首を振った。「正面の城壁は三百で守れる。だが三千が交代で攻め続ければ、二日で兵が擦り切れる。水と糧食は二十日分あるが、城壁が破られればそれまでだ」

「援軍は」

「将軍は西方面で騎馬三万と対峙しておられる。南方面も手一杯だ。東に回す兵はない」

沈黙が落ちた。五百対三千。籠城しても持たない。野戦を挑めば蹴散らされる。援軍はない。

荒木が拳を卓に叩きつけた。

「退くか。民を連れて後方の城まで下がれば——」

「将軍の命は『死んでも退くな』です」

凪の声だった。作戦房の全員が凪を見た。初めて、この場で嫡男が口を開いた。

荒木の目が細まった。「若殿。戦場を知らぬ方が口を挟むことではない」

「父上の命を伝えただけです」

凪の声は平坦だった。震えてはいなかった。ただ事実を述べただけだという顔をしていた。荒木は舌打ちを噛み殺し、陣内と目を見交わした。

議論はそこから堂々巡りになった。退けない、守り切れない、打って出られない。副将たちの声が次第に熱を帯び、やがて苛立ちに変わり、最後には沈黙に落ちた。結論が出ないまま、小隊長たちが一人、また一人と作戦房を出ていく。荒木と陣内も立ち上がり、それぞれの持ち場へ戻っていった。

残されたのは凪一人だった。

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作戦房の卓の上に、砦の周辺地図が広げられたままになっていた。

凪はその前に座り、地図を見つめた。副将たちが書き込んだ赤い印——敵の予想進路、砦の防衛線、斥候の配置。どれも正面からの攻防を前提にした印だった。

凪の目は、それらの印ではなく、地図の余白に描かれた地形に向かっていた。等高線。河川。道。

東の砦の北側を流れる白嶺川は、山間部から平野に出る手前で大きく蛇行している。その蛇行の先に、一本の橋が描かれていた。赤嶺側から砦に至る街道が、この橋で白嶺川を渡る。凪の指がその橋の上で止まった。

斥候の報告を思い出す。赤嶺先鋒三千、進軍速度から三日。三千の兵が三日間行軍するために必要な糧食と水。それを運ぶ輜重隊は本隊の後方にいるはずだ。そして輜重隊が砦に辿り着くには、この橋を渡るしかない。

凪は地図の上流に目を移した。白嶺川の水源は北の山岳地帯にある。雪解けの季節だった。今、川の水量は一年で最も多い。

指が、橋の上流の狭隘部で止まった。

両岸が切り立った崖に挟まれた、幅二十間ほどの隘路。ここを堰き止めれば——凪の頭の中で、書庫で読んだ古い治水書の記述が蘇った。赤嶺語で書かれた、百年前の灌漑技術の書。水の力で地形を変える術。

凪は卓の上の筆を取り、地図の余白に書き始めた。数字と線と、水流の矢印。五百の兵では三千に勝てない。だが五百の兵で、川の流れを変えることはできるかもしれない。

戦わずに、勝つ。

その思考が形を成すにつれて、凪の手の震えは止まっていた。剣を握る手は震える。だが筆を握る手は、不思議なほど確かだった。

燭台の炎が揺れた。作戦房の扉が軋み、夜風が吹き込んだ。

「まだ起きておられたか」

声の主は玄伯だった。老将は砦の片隅に居室を与えられていたはずだが、なぜここにいるのか。杖を突き、腰は曲がっているが、目だけは暗がりの中でも鋭い光を宿していた。

「眠れぬ夜に地図を睨む。お前の父も若い頃、同じことをしていた。もっとも、あれは敵をどう殺すかを考えていたがな」

玄伯は凪の隣に腰を下ろし、地図を覗き込んだ。凪が書き込んだ数字と線を、老将の目がゆっくりとなぞった。

その目が、わずかに見開かれた。

「——上流を、堰くか」

凪は頷いた。言葉にするのが怖かった。声に出した瞬間、荒木と同じように一蹴されるのではないかという恐れがあった。

だが玄伯は笑わなかった。地図の上の隘路を指で叩き、しばらく黙考した。

「三日、と斥候は言ったな」

「はい」

「二日で堰を作れるか」

凪の心臓が跳ねた。それは否定ではなかった。問いだった。実現可能性を問う、軍人の問いだった。

「わかりません。ただ——」

「ただ?」

「正面から戦えば、確実に負けます」

玄伯は長い息を吐いた。それから、杖の先で地図の橋を突いた。

「面白い。理に適うかどうか、明日もう少し詰めよう。老骨の暇つぶしにはなる」

老将は立ち上がり、作戦房を出ていった。杖の音が廊下に遠ざかる。

凪は一人残された地図の前で、自分の掌を見た。墨で汚れた指先。昨日まで書庫で和議書を写していた、同じ指だった。

遠く、砦の物見台から夜番の声が響いた。異常なし、と。だが東の闇の向こうには、三千の軍靴がこちらへ向かっている。あと三日。凪の指が、地図の上の隘路をもう一度なぞった。

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