第1話
第1話「黄ばんだ第二次和議書」
黄ばんだ紙の上で、百二十年前の筆跡が静かに息をしていた。
凪は書庫の奥、誰も来ない棚の隙間に背を預け、膝の上に広げた古文書を指でなぞっていた。赤嶺国との第二次和議書——両国が互いの捕虜を返還し、国境の河川利用を分け合うことで合意した、わずか三年で破棄された条約の原本。条文は両国語で併記されている。凪の指は赤嶺語のほうを追っていた。
「此ノ盟約ヲ以テ、両国ノ民ハ再ビ鋤ヲ執ルベシ——」
声に出して読むと、乾いた紙の匂いの向こうに、百二十年前の誰かの祈りが立ち上がるようだった。この条約を起草した者は、戦を終わらせようとしていた。結局は失敗した。だが書き残された言葉だけが、こうして埃の中で生き延びている。
書庫の空気は冷たく、春の朝日は高窓から細い筋になって差し込むだけだった。光の帯が空気中の塵を照らし、ゆっくりと漂う微粒子が金色に輝いていた。棚に並ぶ背表紙はどれも色褪せ、革の綴じ紐が朽ちかけているものもある。この一角だけが、城のどこよりも時の流れが穏やかだった。城の中庭からは兵たちの駆け足と、馬の嘶きが微かに聞こえてくる。明日の閲兵式の準備だろう。凪はその音から逃れるように、もう一枚、頁をめくった。
条約の余白に、凪は小さく赤嶺語の単語を書き写していた。「盟」「鋤」「民」——剣ではなく、筆で綴られた言葉たち。兵法書の余白にも同じことをしている。赤嶺語の文字は自国の楷書とは筆の運びが違う。横に流れるように走り、最後にすっと跳ね上がる。その形が好きだった。敵国の言葉を美しいと思うこと自体が、この城では許されない感覚だと知っていた。父が知れば、また眉を寄せるだろう。
その父の声が、書庫の入口に落ちた。
「凪」
一語で空気が変わった。厳虎将軍は戸口に立っているだけで、書庫の冷気を威圧で塗り替えた。鉄灰色の髪を後ろで束ね、朝から鎧の下衣を纏っている。胸当ての留め金が廊下の光を受けて鈍く光り、革帯に吊るされた短剣の柄が、無言のうちに武人の日常を示していた。その眼は戦場で三万の敵を前にしても揺るがなかったと語り継がれている眼だった。
凪は咄嗟に古文書の上に手を置いた。赤嶺語の書き写しを隠す仕草だったが、父がそれに気づいたかどうかはわからない。厳虎は凪の手元ではなく、顔だけを見ていた。
「明日の閲兵式で、お前は初陣の意志を将兵の前で示す。言葉は用意してある。暗記しろ」
厳虎は巻物を凪の足元に放り、踵を返した。それだけだった。問いかけも、確認もない。将軍が命じ、嫡男が従う。それがこの家の道理だった。
凪は巻物を拾い上げた。紐を解くと、父の側近が書いたであろう達筆が並んでいる。「我、厳虎が嫡男・凪、ここに初陣の誓いを立てる——敵を討ち、武功を立て、将軍家の名に恥じぬ戦いを」
指先が、微かに震えた。
凪は巻物を閉じ、懐に入れた。古文書のほうを丁寧に元の棚に戻し、書庫を出た。中庭を抜け、裏手の井戸端まで来たところで足を止めた。
鈴がいた。幼馴染の侍女は井戸の縁に腰掛け、洗い物の合間に空を見上げていた。桶の中で白い布が水に揺れ、鈴の袖は肘まで捲り上げられて赤く冷えている。凪の足音に振り向き、その顔を見て、すぐに表情を引き締めた。
「また書庫にいたのですね。顔色が悪い」
「閲兵式の口上を暗記しろと言われた」
凪は鈴の隣に腰を下ろした。井戸水の冷たい匂いが鼻を掠めた。中庭の喧騒はここまでは届かない。石造りの井戸の縁はひんやりとして、正午が近いのに日陰のままだった。
「鈴」
「はい」
「俺は人を斬れない」
鈴は黙った。凪もそれ以上は言わなかった。二人の間に春の風が抜け、井戸の桶が軋んだ。
鈴は凪の横顔を見ていた。この幼馴染が剣の稽古で木刀を握るたびに顔を歪めるのを、幼い頃から知っている。父の武功譚を聞かされた夜、布団の中で目を開けたまま朝を迎えていたことも。
「斬れないのではなく、斬りたくないのでしょう」
「同じことだ」
「違います」
鈴の声は静かだが、芯があった。
「斬れないのは弱さです。斬りたくないのは——」
言葉を探すように、鈴は視線を落とした。水に浸した布から雫が一つ落ち、桶の水面に小さな波紋を広げた。
「——私にはわかりません。でも、弱さとは違う」
凪は薄く笑った。笑みはすぐに消えた。
「父上の部下たちは俺を腰抜けと呼ぶ。間違ってはいない。閲兵式で初陣を誓えば、次の戦で前線に出される。そこで俺は人を斬らなければならない。斬れなければ死ぬ。斬れば——」
凪は自分の掌を見た。兵法書の墨が指先に残っている。
「——斬れば、俺は父上と同じになる」
鈴は何も言わなかった。将軍家の侍女が将軍を否定する言葉を口にすることはできない。だが凪には、鈴の沈黙の意味がわかっていた。否定しないのではない。否定できないのだ。それは鈴なりの誠実さだった。
隠居した老将・玄伯が庭先で茶を啜っているのが見えた。父の元副官で、今は城の片隅で悠々と暮らしている老人だ。凪が書物好きであることを唯一咎めなかった人間でもある。玄伯は二人のほうを一瞥し、何も言わずに茶を啜り続けた。
その夜、凪は自室で巻物を広げ、初陣の口上を何度も読み返した。声に出すことはできなかった。文字を目で追うたびに、喉の奥が詰まった。「敵を討ち」——その敵にも名前がある。家族がいる。書庫で読んだ和議書を起草した誰かのように、鋤を執りたいと願っている者がいるはずだった。代わりに、書庫から持ち出した和議書の写しを傍らに置き、赤嶺語の単語を一つずつ紙に書き写した。眠れぬ夜を、異国の言葉が埋めていった。
朝が来た。
閲兵式の朝は、快晴だった。城の広場には千五百の将兵が整列し、軍旗が春風に翻っている。凪は正装に身を固め、演壇の脇に立っていた。懐には父に渡された巻物。口の中が乾いている。
正装の襟が喉を締めつけるようだった。甲冑ではなく礼服だが、肩当ての重みが異物のように凪の身体にのしかかっていた。整列した将兵の視線が、演壇の脇に立つ嫡男に注がれているのがわかる。期待ではない。品定めだ。将軍の血を継ぐ者が、その名に値するかどうかを見極めようとする、千五百対の目。
厳虎が演壇に上がり、将兵を見渡した。鉄のような沈黙が広場を覆う。将軍の威は、声を発する前からすべてを制していた。
「将兵に告ぐ——」
厳虎が口を開いた、その瞬間だった。
広場の東門を、泥にまみれた騎馬が駆け抜けてきた。馬は白い泡を吹き、騎手は鞍にしがみつくようにして叫んだ。
「急報——国境より急報!」
整列が乱れた。将兵の間にざわめきが走る。厳虎は眉一つ動かさず、騎手を手招いた。騎手は演壇の下に転がり落ちるようにして馬を降り、膝をついた。泥と汗にまみれた顔は蒼白で、唇が罅割れている。夜通し馬を飛ばしてきたのだろう。
「赤嶺——赤嶺軍が、三方より同時に国境を越えました。西方面は騎馬三万、南方面は歩兵二万、東方面は——」
騎手の声が震えた。
「——先鋒三千が、東の砦へ向かっております」
広場が凍りついた。三方同時侵攻。それは小競り合いではない。国家の存亡を賭けた大戦の始まりだった。
厳虎の顔に、しかし動揺はなかった。むしろその目に、待ち望んでいたものを見つけた獣のような光が宿った。将軍は演壇から広場を見下ろし、雷のような声を放った。
「全軍に告ぐ。閲兵式は中止。これより戦時編成に移行する」
広場が一瞬で戦場の空気に変わった。将兵が走り、伝令が飛び、馬が嘶く。その喧騒の中で、凪は立ち尽くしていた。
懐の巻物——初陣の口上は、もう読み上げる場を失っていた。
だが凪の胸を貫いたのは安堵ではなかった。東の砦、先鋒三千。その言葉が、閲兵式の口上よりもずっと重い鉛となって、腹の底に沈んでいった。
厳虎が凪のほうを見た。父と目が合ったのは、今朝書庫で巻物を渡された時以来だった。だが今、その眼にあるのは命令でも失望でもない。値踏みだった。
将軍は、嫡男をどこに使うかを考えている。
凪の背筋を、春の朝にはありえない冷気が這い上がった。戦の匂いが、もう遠くなかった。