第2話
第2話
翌朝、異形警報の痕跡は街から綺麗に消えていた。
商店街のアスファルトに残っていたはずの爪痕は修復班が夜のうちに埋め、八百屋の割れたガラスも新品に入れ替わっている。昨夜の第二種警報は、B級討伐班が二十分で鎮圧。死傷者ゼロ。朝のニュースはそれを三十秒で伝え、すぐに天気予報に切り替わった。
いつも通りだ。異形が出て、上位ランクが片付けて、朝が来る。
「兄ちゃん、先行くねー」
玄関で陽太がスニーカーを突っ掛ける。中学は高校より始業が早い。
「気をつけろよ。昨日の警報、三丁目だっただろ」
「もう終わったじゃん。ニュースでやってたし」
「それでも寄り道すんなって言ってる」
陽太は「はいはい」と生返事で飛び出していった。ドアが閉まる音が、やけに軽い。
俺は洗い物を流しに置き、鞄を掴んだ。夜勤から戻った母さんは寝室で眠っている。起こさないようにそっと玄関を出た。
柚月と合流したのは、いつもの交差点だった。
「昨日の警報、けっこう近かったね」
「三丁目の路地裏らしい。中型の影系異形だって」
「影系かぁ……物理攻撃効きにくいやつだよね」
柚月が眉を寄せる。異能概論の教科書的知識だ。影系異形は実体が希薄で、通常の打撃や銃火器では効果が薄い。異能による干渉——特に光属性や高エネルギー系の攻撃が有効とされている。
「討伐班が来りゃ関係ないだろ」
「……まあね」
柚月は何か言いかけて、やめた。俺たちE級にとって異形討伐は他人事だ。それを口にするのは、もう互いの暗黙の了解だった。
学校に着き、昨日と同じ訓練場で計測器にゼロを刻み、桐島に鼻で笑われ、教官に素通りされた。ペア実技では柚月の増幅と俺の振動を重ねてみたが、計測器が示したのは「0.02」。誤差の範囲。記録する価値すらない数値を、教官は無言でタブレットに打ち込んだ。
放課後。柚月は委員会の用事で残ると言った。
「陽太くんのお迎え、今日は翔真が行くんでしょ?」
「迎えってほどじゃないけど。帰り道が被るだけだ」
「うん、じゃあまた明日」
俺は校門を出て、陽太の中学の最寄りまで歩いた。下校時刻は午後四時半。商店街を抜けて旧市街の住宅地に入る通学路。桜並木が続く道を十五分。陽太はいつも部活終わりにこの道を通る。
合流地点の公園が見えた時——空気が変わった。
異形警報ではない。サイレンは鳴っていない。だが、肌が泡立つような違和感が全身を刺す。鳥が鳴いていない。風が止まっている。公園の木々が、四月の午後にしては暗すぎる影を地面に落としている。
影が、動いた。
木の根元から染み出すように、黒い何かが地面を這う。影そのものが質量を持ったように盛り上がり、輪郭を形成していく。体高二メートル近い四足歩行の獣型。頭部に相当する部分に、赤い光点が二つ。眼だ。
影喰い。昨夜と同系統の影系異形。
——まだ残っていたのか。
思考が凍る前に、視界が捉えた。公園の反対側、歩道橋の下。見覚えのある制服、見覚えのあるリュック。
陽太がいた。
十メートルと離れていない。陽太はイヤホンをしていて、気づいていない。スマホを見ながら歩いている。影喰いの赤い眼が、陽太の方を向いた。
「陽太ッ!」
叫んでいた。考えるより先に足が動いていた。鞄を投げ捨て、全力で走る。陽太がイヤホンを外してこちらを見る。「え?」と間抜けな声が聞こえた。
「逃げろ! 異形だ!」
陽太の視線が俺の背後——ではなく、足元を見た。影が伸びている。陽太の足元に向かって、影喰いの本体から黒い触手のような影が滑り寄っている。
陽太が硬直した。一般人の正常な反応だ。異能を持たない人間が異形を目の前にしたとき、体は動かない。訓練を受けていなければ当然。
俺は走りながらスマホを取り出し、異形通報のアプリを起動した。GPS連動で位置情報が飛ぶ。通報から討伐班到着まで、平均八分。
八分。
長すぎる。
陽太に追いつき、その腕を掴んで後ろに引いた。弟の体を背中にかばい、影喰いと正対する。
目の前に、影の獣がいる。赤い眼がこちらを見ている。黒い体表は煙のように揺らいでいて、実体があるのかないのか分からない。ただ、そこから放たれる威圧感は本物だった。空気が冷たい。息が白くなるほど周囲の温度が下がっている。
「兄ちゃん——」
「黙ってろ。動くな」
反射的にやった。掌を影喰いに向け、腹の底のあの振動を絞り出す。空気を揺らす。E級の、計測器が反応しない、微弱な空気振動。
——届かない。
分かっていた。風すら起こせない振動が、影系異形に通じるはずがない。影喰いは俺の異能になど気づいてもいないように、ゆっくりと前脚を持ち上げた。
逃げるか。陽太を抱えて走れば——いや、影喰いの移動速度は人間の脚力を上回る。背を向けた瞬間に追いつかれる。教科書に書いてあった。「影系異形から逃走する場合、異能による足止めが不可欠」と。
E級に足止めはできない。
それでも、退けなかった。
「兄ちゃん、逃げよ——」
「八分だ」
「え?」
「討伐班が来る。八分持たせりゃいい」
嘘だ。八分なんて持つわけがない。丸腰のE級と一般人。影喰いが本気で襲えば十秒で終わる。
それでも。
陽太の前から退くという選択肢が、俺の中に存在しなかった。
影喰いが跳んだ。
闇が弾けるような速度。黒い体躯が地面を蹴り、真っ直ぐこちらに突進してくる。赤い眼が視界いっぱいに広がる。
俺は陽太を突き飛ばした。
「——っ!」
右に転がした弟と入れ替わるように、正面に立つ。両腕を交差させてガードの姿勢を取る。異能もない、武器もない、ただの肉体で異形の突進を受ける。訓練で習った護身術の構え。E級にはこれしかないと教官が嘲るように教えた技術。
衝撃が来た。
腕で防げたのは最初の一瞬だけだった。影喰いの前脚——影で構成されたはずの爪が、物理的な重量と鋭さを持って制服の袖を裂き、腕の肉を抉った。激痛が走る。体が後方に吹き飛ばされ、アスファルトに叩きつけられた。
視界が明滅する。背中の衝撃で息が詰まる。口の中に鉄の味が広がった。
立て。
起き上がろうとする。膝が笑っているが、歯を食いしばって立つ。血が左腕を伝って地面に滴る。
影喰いがゆっくりと向き直る。赤い眼が俺を見て——それから、背後の陽太を見た。
この異形は理解している。俺が脅威ではないことを。E級の壁など、ないも同然だと。
「こっちだ」
叫んだ。声が裏返る。掌を向け、持てる全ての異能を叩きつける。空気が揺れる——揺れているはずだ。計測器が反応しないだけで、確かに何かが出ているはずだ。
影喰いは反応しない。俺を素通りして、陽太に向かおうとする。
「——ふざけんな」
走った。影喰いの横腹に体当たりする。異能じゃない、ただの体重移動。影の体表は冷たく、触れた瞬間に指先の感覚が消える。凍傷に似た痛み。
影喰いが鬱陶しそうに体を振り、俺を弾いた。再び地面に転がる。今度は受け身すら取れない。肩から落ちて、鈍い音が鳴った。
だが——一秒稼いだ。陽太が少し後退できた。それでいい。
立つ。よろめく。掌を向ける。
影喰いが、今度は完全に俺を排除しにきた。
黒い前脚が振り上げられる。影で構成された爪が、俺の胸の高さで止まった——いや、止まっていない。加速している。
避けられない。分かった。腕を上げる時間もない。
爪が胸を貫いた。
痛みは一瞬遅れてきた。胸の中央を冷たい何かが突き抜ける感覚。影の爪は物理的に肉を裂いているのではなく、もっと内側の——異能の核に近い何かを直接抉っている。
息ができない。膝が崩れる。
視界が赤く染まり、それから——
白く、弾けた。
音が消えた。痛みが消えた。世界が真っ白な光に塗りつぶされた。
胸の奥で、何かが軋んでいる。いや、軋んでいるんじゃない。
——震えている。
あの微かな振動。十七年間ずっと底に沈んでいた、計測器が拾えなかった波。それが今、胸を貫かれた衝撃をきっかけに、殻を破ろうとしていた。
陽太の声が遠くから聞こえる。何を叫んでいるのか分からない。
白い視界の中で、振動だけが加速していく。心臓の鼓動と重なり、共鳴し、増幅される。体の芯から指先へ、足先へ、全身の細胞が一斉に振動し始める。
掌が熱い。いや——振動している。空気じゃない。今度は、掌そのものが。
計測器なんて必要ない。
この振動は、ゼロじゃない。