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ヌル・リミッター

第2話 第2話

第2話

第2話

地上に出たのは三ヶ月ぶりだった。

輸送車の後部ハッチが開いた瞬間、夜気が肌を叩いた。四月の空気には湿り気があり、地下の乾燥した二十二度とはまったく異なる温度を持っている。雨上がりだったのか、アスファルトが濡れていて、排気ガスと土の混じった匂いが鼻腔を突いた。その奥に、かすかに桜の残り香が混じっていた。地下にいる間に、季節はひとつ進んでいたらしい。街路灯の光が目に刺さり、瞳孔が収縮するのに一・二秒かかった。地下に慣れすぎた目には、夜ですら明るい。

赤坂の大通りは既に封鎖されていた。警察車両が道を塞ぎ、赤色灯が回転している。だがその奥——三百メートル先のビル群から漏れる光は、回転灯の赤とは違う。白い。蒼白く脈動する異能の光だ。空気がびりびりと振動して、アスファルトの表面に微細なひび割れが走っているのが見えた。

通信端末を耳に押し込む。回線が繋がり、ノイズの向こうからミナトの声が届いた。

『ヌル、現場の概要を送る。暴走者は推定十七歳男性、異能区分は力場放射。覚醒から約四十分、出力は上昇を続けている。警察の封鎖線は半径五百メートル、避難は八割完了。残り二割は地下駐車場と高層階に取り残された民間人』

「了解。交戦規定は」

『制圧優先、排除は最終手段。できれば生かして確保。……機関の事前評価ではBランク相当の出力だったんだけど、現場の数値がおかしい。気をつけて』

Bランク。それならば単独制圧に三分もかからない。だがミナトの声には、朝の通信にはなかった硬さがあった。感情抑制下の俺でも聞き分けられるほどの緊張。つまり、数値の乖離は無視できない水準ということだ。

封鎖線を越え、現場に向かって走る。足裏からの振動が大きくなる。二百メートル地点で、最初の異変を確認した。

ビルの外壁が、内側から膨張していた。

コンクリートと鉄筋で構成された七階建てのオフィスビル。その三階部分が、風船のように外側へ膨らんでいる。物理法則を無視した光景だった。建材が軋む音が低く唸り、ガラスの破片がスローモーションのように空中に散っている——否、散っているのではない。蒼白い力場に捕らえられて、滞空している。

『出力値、さらに上昇。現在B+……いや、A-に到達。ヌル、これ事前情報と全然違う』

ミナトの声に焦りが滲む。俺は歩調を変えずに現場中心部へ近づいた。感情がないことの利点がこれだ。恐怖がなければ、足は止まらない。

暴走者を視認した。

交差点の中央。蒼白い光の繭に包まれた少年が、膝を抱えてうずくまっていた。その身体から放射される力場が、周囲五十メートルの空間を歪めている。地面は波打ち、電柱は飴のように曲がり、放置された車両が紙細工のように潰れていた。少年の口から、断続的な叫び声が漏れている。言葉ではない。意味を成さない、純粋な苦痛の音だった。

暴走型。能力の制御を失い、自分自身の出力に呑まれている状態。本人にとっても地獄だろう。もっとも、俺に地獄の定義がわかるわけではないが。

右手を掲げた。重力操作を起動する。俺の異能は重力場の局所的な増減を可能にする——制御下の最大出力で、およそ三十トンの物体を地面に押しつけられる。Bランクの力場放射であれば、重力で圧縮して無力化できる。

力場を暴走者に向けて展開した。重力が収束し、蒼白い光の繭を押し潰しにかかる。だが——

弾かれた。

俺の重力場が、暴走者の力場に接触した瞬間、干渉波が発生して相殺された。足元のアスファルトが蜘蛛の巣状に砕け、衝撃波が俺の身体を二メートル後退させた。靴底が地面を削る感触。制御下の最大出力が、正面から押し返された。

『出力、A到達——まだ上がってる。ヌル、これBランクじゃない。最初から違った。事前情報が間違ってる』

ミナトの声がさらに鋭くなった。だが俺の思考は別のところに引っかかっていた。事前情報が「間違っていた」のか、それとも——意図的に低く見積もられていたのか。考えても仕方のないことだ。今は目の前の暴走を止めることだけに集中する。

出力を八十パーセントまで引き上げた。通常任務では六十パーセント以上を使うことは稀だ。空気が重くなり、俺を中心に半径五メートルの地面が数センチ沈下する。周囲の電柱に取り付けられた防犯カメラが、重力の余波を受けてひしゃげた。この出力で重力場を展開すれば、乗用車程度なら一瞬で地面にめり込む。

再度、重力場を放った。今度は点ではなく面で押し込む。上空から巨大な掌で押さえつけるイメージ。蒼白い繭が歪み、暴走者の叫びが一段高くなった。効いている——が、潰しきれない。繭は変形しながらも内側から押し返し続け、俺の重力場と拮抗状態に入った。

八十パーセントで拮抗。つまり暴走者の出力は、Aランク上位に相当する。Bランク相当という事前情報からの乖離は三段階以上だ。これは誤差ではない。

そのとき、暴走者の少年が顔を上げた。涙と鼻水で滲んだ顔。焦点の合わない目。だがその瞳の奥に、一瞬だけ明確な感情が走った。——恐怖。自分の力に怯えている目だ。

何かが、胸の奥で揺れた。

あの目を、俺は知っている。知っているはずがないのに、既視感が身体の深いところから浮き上がってくる。自分の力を制御できない恐怖。周囲を壊してしまう恐怖。その感覚を「知っている」と、感情のないはずの脳が主張していた。記憶ではなく、骨の髄に刻まれた残響のようなものが、感情抑制の壁の向こう側で微かに震えていた。

刹那、暴走者の出力が跳ねた。

繭が炸裂するように膨張し、蒼白い力場の波が全方位に放射された。俺は咄嗟に自分の周囲の重力を上げて防壁を張ったが、衝撃は防壁を半分貫通し、身体を十メートル以上吹き飛ばした。背中からビルの外壁に叩きつけられ、コンクリートが蜘蛛の巣状にひび割れる。肺から空気が絞り出され、一瞬視界が白くなった。口の中に鉄の味が広がる。奥歯を噛み締めた衝撃で、舌の端を切ったらしい。

立ち上がる。背部に打撲。肋骨にひび。行動に支障なし。だが目の前の光景は、一変していた。

暴走者を中心に半径百メートルの建物が崩壊を始めている。力場が空間そのものを歪め、ビルの構造体が捻じれながら倒壊していく。鉄骨が飴のように曲がり、コンクリートの破片が蒼白い光の渦に巻き込まれて回転する。崩落した建材が地面を叩くたびに、腹の底を突き上げる重い振動が伝わってくる。暴走の第二段階。もはや少年自身にも止められない臨界状態だ。

『——出力S到達。繰り返す、Sに到達した。ヌル、現行の交戦規定では対処不能。増援を要請する』

ミナトの声は震えていなかった。それが逆に、事態の深刻さを伝えていた。感情を押し殺して職務に徹している声だ。管制主任の震えた声よりも、この冷静さの方が正確に危険度を示している。

『機関から追加指令。支援要員三名を現場に急行させる。ヌルは後退して合流を待て』

俺は目の前の崩壊する街並みを見据えたまま、応答した。

「支援要員の構成は」

一拍の沈黙。通信回線の向こうで、キーボードを叩く音と、管制室のざわめきが微かに聞こえた。それから、ミナトが答えた。

『カガミ、前衛戦闘型。リュウ、索敵・結界型。そして——』

通信の向こうで、小さく息を呑む音が聞こえた。

『——私。ミナト。現場戦術指揮の資格があるのが、今動ける中で私しかいないの』

Sランクの暴走が続く現場に。崩壊するビルの瓦礫が舞う戦域に。ミナトが来る。

胸の奥が、軋んだ。朝の柔らかい圧迫でも、出撃前の鋭い圧迫でもない。もっと原始的な——臓腑を直接掴まれるような、息が詰まる感覚だった。感情抑制処置を受けた脳が、それでも必死に伝えようとしている何か。名前のない衝動が喉元までせり上がり、声帯を震わせようとして、寸前で止まった。

名前のつけられないそれを押し込め、俺は通信に一言だけ返した。

「——了解」

言葉は規定通りだった。声も平坦だった。だが左手が、自分の意思とは無関係に握り締められていた。爪が掌に食い込む痛みだけが、確かな現実として手のひらに残った。

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