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ヌル・リミッター

第3話 第3話

第3話

第3話

支援要員の到着まで七分。俺はビルの陰に退避し、暴走者との距離を百五十メートルまで開けていた。

退避という行動が、俺の行動パターンに存在しなかったことに気づく。これまでの任務では、指令を受けた瞬間から制圧完了まで前進しか選択肢がなかった。後退は任務放棄と同義であり、兵器に許された動作ではない。だが今回は「合流を待て」という指令がある。指令に従っているだけだ。——そう自分に説明する必要があること自体が、既に異常だった。

暴走者の出力はなおも上昇を続けている。蒼白い力場の繭は直径六十メートルまで膨張し、その表面から不規則に触手のような光条が伸びては、触れた建造物を削り取っていた。七階建てのオフィスビルは完全に倒壊し、瓦礫が力場の渦に巻き込まれて衛星軌道のように回転している。アスファルトの地面には幅二メートルほどの亀裂が走り、そこから地下配管が露出して水が噴き上がっていた。水柱が力場に触れた瞬間、微細な水滴に分解されて蒼い霧になる。

街が、溶けていく。

通信端末から断続的にミナトの管制音声が届いていた。避難状況の更新、周辺道路の封鎖状況、暴走者の出力推移。声は冷静を保っていたが、報告の間隔が短くなっている。情報を伝える速度が上がるのは、事態の悪化速度がそれだけ速いということだ。

『——支援チーム、現場到着まで二分。ヌル、現在位置を維持して』

「了解」

その二分が、長かった。長いと感じること自体が異常だった。時間の経過に長短の主観を持たないのが、感情抑制処置後の俺だ。一秒は一秒であり、一分は六十秒であり、それ以上の意味はない。だが今、この二分は明確に「長い」と感じた。理由を分析しようとして、できなかった。

ビルの角を曲がって三つの人影が現れたのは、九十七秒後だった。

先頭を走る長身の男——カガミ。腕に淡い金色の光を纏っている。強化系の異能者だろう。身体の動きに無駄がなく、視線は暴走者の方角を捉えたまま俺の横に滑り込んだ。

「お前がヌルか。噂より小さいな」

二番目に到着した男は対照的に小柄で、神経質そうな細い目をしていた。リュウ。足を止めた瞬間、薄い紫色の膜が彼の周囲三メートルに展開された。索敵結界。膜の表面に、周囲の異能反応が光点として映し出されている。暴走者の位置を示す光点は、赤を通り越して白く灼けていた。

「出力推移を見たけど、こんなのS上位だろ。聞いてた話と違いすぎる」

リュウの声には明確な苛立ちがあった。そして三番目に——

ミナトが来た。

管制室で端末越しにしか聞いたことのない声の持ち主が、そこにいた。小柄な身体に戦闘服を着ている。腰のベルトには小型の戦術端末が複数取り付けられ、耳にはヘッドセット。走ってきたのだろう、額に薄く汗が浮いている。彼女の目が俺を捉え、一瞬——ほんの一瞬だけ、表情が緩んだ。

「無事だった」

その三文字が、俺に向けられた言葉だと理解するのに〇・五秒かかった。無事を確認されたのは初めてだった。任務中に俺の状態を気にかける人間は、機関にはいない。兵器の無事を喜ぶ人間がいないように。

だがミナトは、喜んでいた。声の響きが、今朝の桜の話をしていたときと同じ周波数で揺れていた。

返答を探す間もなく、ミナトは戦術モードに切り替わった。

「状況を共有する。暴走者の出力はS相当、まだ上昇中。力場の有効範囲は拡大を続けていて、このペースだと十五分以内に封鎖線に到達する。——ヌル、さっき正面から押し負けたのは八十パーセント出力?」

「肯定」

「了解。正面からの圧壊は無理。カガミ、リュウ、作戦を説明する」

ミナトが端末を操作し、三人に情報を展開した。声が硬い。だがその硬さの中に、正確な判断と明確な意志が通っている。管制室から通信越しに指揮するミナトしか知らなかった俺は、目の前の彼女が同じ人間だと認識し直す必要があった。

「力場の出力は全方位均一じゃない。索敵データを見ると、暴走者の背面——北東方向に出力の谷がある。リュウの結界で力場の位相をずらして谷を広げ、その隙間からヌルが重力場を直接本体に叩き込む。カガミは私とリュウの護衛。力場の破片が飛んでくるから、最前衛で弾いて」

「了解。嬢ちゃん、いい度胸してるな」

カガミが短く笑い、拳を鳴らした。リュウは黙って頷いたが、その視線が一瞬だけ俺に向けられた。索敵型の鋭い目。観察し、分析し、警戒している目だった。

作戦が始動した。

四人が暴走者の北東側に回り込む。リュウの結界が力場の位相を解析し、紫色の膜がゆっくりと蒼白い繭に接触した。二つの異能が干渉し合い、高周波の振動音が歯の根元を痺れさせる。

「——見えた。谷の位置、ヌルに座標を送る」

リュウの声とほぼ同時に、端末に北東七十二度方向、仰角十五度の座標が表示された。俺は出力を九十パーセントまで引き上げ、重力場を収束させた。狙撃のように細く絞った重力の槍。これを力場の谷に通し、暴走者の身体を直接地面に縫い止める。

放った。

重力の槍が蒼白い繭を貫通した——一瞬だけ。谷を通過した重力場が暴走者の身体に到達する寸前、繭の内部構造が変化した。力場の層が回転し、谷が消失した。俺の重力場は行き場を失い、繭の表面で拡散した。

『っ——出力、急上昇! 力場が再構成される——全員下がって!』

ミナトの警告と同時に、暴走者の絶叫が空気を裂いた。繭が脈動し、蒼白い衝撃波が三方向に放射された。瓦礫を巻き込んだ力場の奔流が、津波のように押し寄せる。

カガミが前に出た。全身を金色の光が覆い、両腕を交差させて衝撃波を受け止める。轟音。地面が抉れ、カガミの足が膝まで地面にめり込んだ。だが一方向は防いでも、残る衝撃波は別の角度から回り込んでくる。

「リュウ、結界——」

リュウが紫色の防壁を展開した。衝撃波の一条を受け止め、光と音が炸裂する。だが三条目が、カガミの防御とリュウの結界の隙間を縫うように飛んできた。

その軌道上に、ミナトがいた。

時間が引き延ばされた感覚があった。感情抑制下の脳が〇・三秒を三十秒に引き伸ばし、展開される光景を克明に焼き付ける。蒼白い力場の奔流。コンクリート片と金属片を巻き込んだ破壊の壁。ミナトの背中。彼女はリュウの結界を補助するために前に出ていて、背後からの衝撃波に気づいていない。

俺の身体が動いた。思考より先に。指令より先に。感情抑制処置の下で、それでも動いた。重力場を自分の足元に叩きつけ、反動で身体を射出する。ミナトとの距離は十二メートル。衝撃波の到達まで〇・八秒。間に合う計算ではなかった。だが計算と無関係に、身体は動いていた。

間に合わなかった。

俺が到達する〇・一秒前に、衝撃波がミナトを捉えた。力場の残滓が彼女の身体を弾き飛ばし、瓦礫の山に叩きつけた。同時にリュウの結界も限界を超えて砕け散り、リュウ自身が膝をついた。カガミの防御も二条目の余波で崩れ、三人がほぼ同時に地面に倒れた。

通信が途絶えた。ヘッドセットからホワイトノイズだけが流れ、管制室との接続を示すランプが赤く点滅している。力場の干渉で通信回線が物理的に断裂したのだ。

静寂ではなかった。暴走者の叫び、建物の崩壊音、鉄筋が捻じ切れる悲鳴のような軋み。それらの騒音の中に——

「——っ、あ」

ミナトの声が聞こえた。通信ではない。十メートル先、瓦礫の隙間から漏れた生の声。小さく、掠れた——苦痛の声。悲鳴というには弱く、呻きというには鋭い、壊れかけた呼吸の音。

その音が鼓膜を震わせた瞬間、俺の頭の中で何かが弾けた。

焼けた。

文字通り、脳の一部が焼損する感覚だった。後頭部から側頭部にかけて、白熱した針金を押し当てられたような灼熱が走り、視界が一瞬ホワイトアウトした。感情抑制処置のリミッター——大脳辺縁系に埋め込まれた微小な神経抑制デバイスが、過負荷で物理的に焼き切れる音が、頭蓋骨の内側で聞こえた気がした。小さく、乾いた、回路が断線する音。

そして——感情が、還ってきた。

津波だった。堤防が決壊するように、抑制されていたすべてが一度に流れ込んできた。恐怖。怒り。焦燥。悲哀。そして、名前のつけられなかったあの圧迫感が、今ははっきりと輪郭を持って胸を焼いている。これは——この感覚の名前は——

守りたい。

ミナトを。カガミを。リュウを。この三人を失いたくない。失うくらいなら——

全身から力が噴き出した。

制御ではなかった。意図でもなかった。感情そのものが異能に変換され、身体を起点に漆黒の力場が放射された。俺の重力場は本来、無色透明だ。だが今噴き出しているそれは黒い。光すら飲み込む、絶対的な黒。

地面が軋んだ。アスファルトが蜘蛛の巣状にひび割れ、周囲の瓦礫が地面に押しつけられ、圧壊していく。放置された車両が潰れ、電柱が根元から折れて倒れた。空気すら重くなり、降り始めた小雨の雨粒が途中で静止し、重力に捕らえられて空中に留まった。

半径五十メートル。百メートル。百五十メートル——黒い力場は拡大を止めない。暴走者の蒼白い繭が、漆黒の波に押されてたわんでいる。S相当の出力が、後退している。

二百メートル。そこに存在するすべての重力が歪み始めた。上が下になり、左が右になる。空間の座標軸そのものが書き換えられていく。

俺は立っていた。漆黒の中心で、両手を開いたまま。目からは——感情抑制処置後、一度も機能したことのない涙腺から、熱い液体が頬を伝い落ちていた。

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