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反響喰いの未覚醒者

第1話 第1話

第1話

第1話

「該当なし」——電子パネルに表示されたその三文字を、もう何度見たか数えるのをやめた。

実技演習場の白いコンクリート壁に囲まれた空間で、俺は拳を握ったまま立ち尽くしていた。天井の蛍光灯が青白い光を落とし、自分の影だけが床に短く伸びている。額に貼り付けられた計測パッドが無機質な電子音を鳴らし、今期七回目の不合格を確定させる。ピ、という短い音。それだけだ。ファンファーレも警告音もない。俺の結果にはいつも、この素っ気ない単音しか与えられない。

「柊、退場して。次、桐生」

教官の声に感情はない。苛立ちも同情もなく、ただ時間割を消化する事務的な響き。それが一番きつい。怒られるほうがまだましだ。怒りには「期待」が混じるから。教官はすでに手元のタブレットに目を落としていて、俺が演習場を出るのを確認すらしなかった。

演習場の端に退がると、桐生が俺の横を通り過ぎざまに目を逸らした。去年の春、あいつは俺に「お前もすぐ覚醒するって」と言っていた。昼休みに缶コーヒーを奢ってくれて、「焦んなよ」と笑っていた。今はもう、目を合わせることすらしない。すれ違う瞬間、桐生の肩が微かに内側に入ったのが見えた。避けているのだ。無意識に、触れてはいけないものから距離を取るように。

桐生の掌から淡い青白い光が立ち上がる。空気を振動させる音響操作系の異能。低い唸りが演習場に満ち、壁面の防音パネルがびりびりと震えた。教官が頷き、計測パネルに数値が刻まれていく。出力値、持続時間、制御精度——俺には永遠に縁のない項目。周囲の生徒たちが小さく歓声を上げる。「すげえ、前回より出力上がってんな」「桐生はAクラス確定だろ」。そのざわめきの中に、俺の名前が出ることはない。

鳳鶴館高等部二年、柊一颯。座学の成績は学年二十位以内。体力測定も平均以上。だが実技演習の欄だけが、入学以来ずっと空白のままだ。

異能者養成機関を兼ねたこの学園では、在学中に能力が覚醒しなければ存在理由がない。一年の頃は「大器晩成型かもな」と言ってくれる奴もいた。二年の秋になった今、誰もそんなことは言わない。同情が無関心に変わり、無関心が透明な排除になるまで、驚くほど時間はかからなかった。廊下で誰かとぶつかりそうになっても「あ、ごめん」すら聞こえない。最初からそこに誰もいなかったかのように、相手はまっすぐ歩いていく。

教室に戻るまでの廊下で、誰ともすれ違わなかった。正確には、すれ違ったかもしれないが、俺のことを視界に入れる人間がいなかった。その二つは結果として同じだ。

放課後、俺はいつものように旧図書棟に向かった。

本棟から渡り廊下を二つ越えた先にある、築四十年の古い建物。蔵書のほとんどが電子化されて以降、ここに来る生徒はほぼいない。埃っぽい空気と、紙の匂い。窓から差す西日が、積み上げられた戦術記録の背表紙を琥珀色に染めている。古びた木の書架が整然と並び、その隙間を縫うように細い光の筋が床を横切っていた。どこかで水道管が軋む音がする。この建物にも、老いた骨格のようなものがあるのだと思う。

俺はいつもの席——窓際の、脚が少しがたつく椅子に腰を下ろした。座るたびに木が軋んで小さく鳴る。その音が、この空間で唯一俺の存在を認識してくれるもののようで、少しだけ安心した。

今日引っ張り出したのは、三十年前の防衛任務記録。異能者同士の実戦における班連携の分析資料だった。吸収系、放出系、感知系の三名構成が当時の基本陣形で、それぞれの役割分担が細かく記されている。黄ばんだ頁をめくるたびに、紙の繊維が乾いた音を立てた。写真資料には実戦後の現場が記録されていて、壁面の損傷パターンから異能の種類を特定する手法が解説されていた。放出系は放射状の亀裂、吸収系は球形の陥没、感知系は痕跡そのものを残さない——。ノートに要点を書き写しながら、俺は気づいた。こんなことをしているのは、この学園で俺だけだろう。

能力がない俺がこんなものを読んでどうするのか。自分でもわかっている。ただ、ここにいる時間だけは「未覚醒」という烙印が少し薄くなる気がした。文字を追っている間は、誰かの戦いの記録の中に自分を重ねることができる。情けない話だ。

窓の外で空が暗くなり始めていた。西日が灰色の雲に呑まれ、やがてガラスに雨粒が当たり始める。最初はぱらぱらと遠慮がちに、それからすぐに密度を増して、窓全体を水の膜が覆った。書架の影が揺らぎ、琥珀色だった光が鈍い鉛色に変わる。

「……帰るか」

誰に言うでもなく呟いて、鞄を肩にかけた。開いたままの記録をそっと閉じ、元の棚に戻す。背表紙の位置を指先で整える。明日もまた、ここに来るだろうから。

旧図書棟を出ると、雨は本降りになっていた。折り畳み傘を広げて校門を出る。学園から最寄り駅までの十五分、大通りを歩けば屋根のある商店街を通れるが、俺はいつも裏道を使う。人が少ないからだ。覚醒済みの同級生と鉢合わせて気まずい沈黙を共有するくらいなら、雨に濡れるほうがましだった。

路地裏に入って二分ほど歩いた時、足が止まった。

雨に濡れたコンクリート壁に、何かが焼きついている。

最初は落書きかと思った。だが目が慣れるにつれて、それが人の形をしていることに気づいた。両腕を広げた姿勢のまま壁面に刻印された影。焦げた輪郭は黒く、中心部はコンクリートが融けてガラス質に変わっていた。熱量系の異能——それも、尋常じゃない出力。指先で触れることもできないのに、壁の表面から微かな熱が残っているような気がした。空気そのものが焦げている。

壁の反対側にも同じような痕跡があった。こちらは影が歪んでいて、何かを防ごうとしたような体勢に見える。足元のアスファルトには罅が蜘蛛の巣状に走り、水たまりの中に赤黒い色が混じっていた。

血だ。雨で薄まっているが、まだ完全には流れきっていない。

胃の底が冷たくなる。これは異能者同士の——殺し合いの痕跡だ。

旧図書棟で読んだ記録の写真と同じだった。いや、写真よりもずっと生々しい。焦げた壁の匂いが鼻をついた。甘くて、苦くて、それから——肉が焼けた匂いが、かすかに混じっていた。呼吸が浅くなる。膝の裏が冷えて、地面が少し傾いたような感覚がした。写真で見る分析対象と、目の前で雨に打たれている現実とでは、まるで違う。記録の中では冷静に損傷パターンを分類していたはずの俺の頭が、今は何も整理できずにいた。

指が震えていた。ポケットからスマホを取り出す。警察じゃない、学園の緊急通報窓口。番号を呼び出そうとした瞬間、画面が一度暗転した。

通知が一件。

差出人は表示されていない。件名もない。本文だけが、雨に濡れた画面の上で白く光っていた。

『君の"遅れ"には理由がある。知りたければ、明日の放課後、C棟地下へ』

心臓が跳ねた。

スマホを持つ手が震えているのは、もう寒さのせいだけじゃなかった。C棟地下——旧図書棟の記録で読んだことがある。十年前に封鎖された実験区画。公式には「老朽化による立入禁止」とされているが、記録の行間からは別の理由が透けて見えていた。異常覚醒の被験者が出たとか、制御不能の暴走が起きたとか、断片的な記述が不自然に途切れている箇所がいくつもあった。

誰が送ってきた。なぜ俺の番号を知っている。「遅れの理由」とは何だ。

罠だと思った。常識で考えれば、無視するのが正解だ。壁の焼け跡を通報して、メッセージのことは学園に報告して、いつも通りの「該当なし」の日常に戻ればいい。

——だが。

俺は画面を見つめたまま、メッセージを閉じることができなかった。

雨音が路地裏に反響している。壁に焼きついた人型の影が、街灯の光に照らされてぼんやりと浮かび上がっていた。

『君の"遅れ"には理由がある』

その一文が、頭の中で何度も繰り返される。

十七年間、ずっと空白だった実技演習の欄。「該当なし」の三文字。透明にされていく日々。——その全部に、理由があるとしたら。

傘を握る手に力が入った。

雨はまだ止まない。明日の放課後まで、あと十八時間。

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