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反響喰いの未覚醒者

第2話 第2話

第2話

第2話

一晩中、眠れなかった。

ベッドの中でスマホを何度も開いては閉じた。あのメッセージは消えていない。差出人不明、件名なし、本文だけが画面に残っている。通知履歴を遡っても送信元のアドレスは空欄で、学園のセキュリティシステムを通過した形跡すらなかった。技術的にありえない。学園支給端末の通信は全て暗号化フィルタを経由する仕組みで、外部からの匿名メッセージが直接届くことは、仕様上あってはならない。

朝になって、路地裏の焼け跡のことだけを学園の窓口に通報した。メッセージのことは言わなかった。言えば没収される。調査が入る。そして俺は何も知れないまま、また「該当なし」の日常に戻される。

——それだけは、嫌だった。

午前の座学は何一つ頭に入らなかった。異能理論の講義で教壇に立つ白髪の教官が、覚醒メカニズムの統計分布について淡々と語っている。「覚醒は通常十四歳から十七歳の間に発現し、十八歳を超えて未覚醒のケースは全体の〇・三パーセント未満です」。その数字が教室の空気を一瞬だけ揺らした。誰も俺を見なかった。見る必要がないからだ。〇・三パーセントの該当者が教室に座っていることを、全員が知っていて、全員が忘れたふりをしている。

昼休みも旧図書棟で過ごした。昨日の続き——C棟地下に関する記録を探すためだ。

書架の奥、分類番号が飛んでいる区画に、施設管理の古い台帳が残っていた。埃を払って頁をめくる。C棟地下実験区画、竣工年は学園創設三年目。用途欄には「高出力異能の制御実験および覚醒促進研究」と記されている。その後の記録は大半が黒塗りだったが、十年前の日付で「無期限封鎖」のスタンプが押されていた。封鎖理由の欄は切り取られている。紙ごと、物理的に。

罠の確率は高い。わかっている。壁に焼きついた人型の影、差出人不明のメッセージ、封鎖区画への誘導。どう考えても正常な状況じゃない。だが——「遅れの理由」。その言葉が喉の奥に刺さった棘のように取れない。十七年間の空白に理由があるなら、たとえ罠でも確かめずにはいられない。

六限目の終了を告げるチャイムが鳴った。

鞄は教室のロッカーに置いた。持っていくのはスマホと、旧図書棟から持ち出した施設の見取り図だけ。制服のポケットに手を入れると指先が冷たく、自分の心拍が指の腹を通して伝わってきた。

C棟は本棟の北側、渡り廊下を三つ越えた先にある。現役で使われているのは一階と二階の講義室だけで、三階以上は資材置き場、地下は封鎖。放課後の渡り廊下には帰宅する生徒の流れがあったが、C棟に近づくにつれて人影は消えていく。北棟特有の日当たりの悪さと、空調の効きが弱い廊下の冷気が、足を踏み入れるたびに温度を一段ずつ下げていくようだった。

地下への階段は、一階の資材搬入口の奥にあった。「立入禁止」のプレートが錆びたチェーンごとぶら下がっている。見取り図では、この先に旧実験区画へ続く防火扉があるはずだ。

チェーンに手をかけた。錆びているのに、留め金だけが妙に滑らかだった。最近、誰かが開けている。

階段を降りる。スマホのライトを点けた。コンクリートの壁に反射した白い光が、狭い階段室を切り裂くように照らす。十二段。踊り場。さらに十二段。空気が変わった。地上の埃っぽさとは違う、密閉された空間特有の重たい湿気。鼻の奥に金属の匂いがする。

防火扉は半開きだった。

その向こうは、見取り図から想像していたより遥かに広かった。天井の高い長方形の空間、四方の壁にはびっしりと術式紋が刻まれている。紋様は所々欠けたり焦げたりしていたが、それでもかすかに青白い燐光を放っていた。異能防壁——この部屋全体が、一つの巨大な封じ込め装置になっている。床にも天井にも同じ紋様が走り、外部への異能漏洩を完全に遮断する構造だった。

「来ると思っていた」

声は、部屋の最奥から聞こえた。

暗がりの中に人影が浮かぶ。スマホのライトを向けた。光の輪の中に、一人の女が立っていた。

長い黒髪。学園の制服ではない、襟の高い黒いコートを隙なく着ている。年齢は二十代半ばか、あるいはもっと若いのか判然としない。整った顔立ちに表情という表情がなく、その無表情さがかえって異様な存在感を放っていた。瞳の色が妙に淡い。虹彩の輪郭が曖昧で、光の加減によっては白に近い灰色に見えた。

「誰だ」

声が掠れた。喉が乾いている。

「名乗る前に一つ聞いてもいい?」女は微動だにしない。「あのメッセージを見て、通報するか来るかで十八時間迷ったんでしょう。迷った理由は何?」

答える義理はない。だが口が勝手に動いた。

「……理由が、あるかもしれないと思ったからだ」

「何の理由?」

「俺の能力が覚醒しない理由」

女の唇がわずかに動いた。笑みとは呼べない、認識の更新のような微細な変化。

「氷見冴夜。私が送ったの、あのメッセージ」

「学園の端末に外部からメッセージは送れない。セキュリティフィルタを——」

「通過したんじゃない。迂回したの。この学園の防壁にはいくつか穴がある。十年前からずっと、修繕されていない穴が」

十年前。地下が封鎖された年だ。

「あんたは何者だ。学園の人間じゃないだろう」

「虚軸。聞いたことは?」

聞いたことはなかった。だが旧図書棟の戦術記録の中に、名前を伏せられた敵性組織への言及が何度かあった。学園の異能者養成体制に対抗する勢力の存在を示唆する、曖昧な記述。

「何が目的だ」

「君に事実を教えに来た」

冴夜が一歩前に出た。コートの裾が床の術式紋を擦り、紋様がかすかに明滅する。

「柊一颯。鳳鶴館二年。異能覚醒歴なし。実技演習は全回『該当なし』判定。学園は君を未覚醒の落伍者として分類している」

「……知ってる。俺のことだ」

「違う」

冴夜の声が、質量を持ったように空気を押した。

「君は未覚醒じゃない。君の能力はとっくに覚醒している。ずっと、最初から」

心臓が一拍飛んだ。意味を理解するのに数秒かかった。

「……何を言ってる」

「計測パネルが反応しないのは、君に能力がないからじゃない。君の能力が計測系の術式そのものに干渉して、結果を打ち消しているから。能力の不在じゃない——過剰。あまりに強すぎて、自分自身で自分を封じ込めている。自己封印」

頭の中が白くなった。理解が追いつかない。追いつかないのに、体のどこか深い部分が——胸の奥の、言葉にならない場所が、震え始めていた。嘘だと思いたい。嘘であってほしい。だが同時に、この十七年間の空白を説明しうる唯一の仮説が目の前に突きつけられた衝撃が、冷水のように脊髄を駆け下りている。

「証拠は」

自分でも驚くほど乾いた声が出た。

「あるよ」

冴夜が右手を持ち上げた。手袋を外す。白い指先に、黒い霧のようなものが凝集していく。

「この部屋の異能防壁は十年前の規格だけど、まだ機能している。外には漏れない」

周囲の術式紋が青白い光を強めた。空気の温度が下がる。いや——違う。温度じゃない。空気そのものの密度が変わっている。呼吸が重くなる。

「私が術式を放つ。殺意のある本物を。そうすれば君の中の封印が反応する。死の危機に瀕した時、自己防衛として発動する——それが、君の力の性質だから」

「待て。おい、待て——」

冴夜の瞳から色が消えた。灰色だった虹彩が、完全な白に変わる。

「教えてあげる。君が何者なのか」

黒い霧が冴夜の手を離れた。

音はなかった。

それは音速を超えていたのか、あるいは音という概念を持たない類の術式だったのか。黒い奔流が空間を裂き、俺に向かって直進する。視界の全てが黒に塗り潰される一瞬、思考ではなく本能が叫んだ。

——死ぬ。

その瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。

錆びた鉄の扉を内側からこじ開けるような、骨が折れるような、けれど痛みとは違う——圧力。十七年間ずっと閉じ込められていた何かが、檻の壁を殴りつけている。

黒い術式が俺に到達する寸前、世界が反転した。

見えた。俺を殺そうとする術式の構造が、まるで設計図のように。黒い霧の中を走る異能の回路、その流れの方向、出力の波形、全てが瞬時に理解できた。そして俺の内側から溢れ出した透明な波動が、その回路に手を伸ばし——

呑み込んだ。

冴夜の術式が消えた。黒い霧が掻き消え、何事もなかったかのように空間が静まる。だが異変はそれだけでは終わらなかった。足元の術式紋が砕けていく。壁の防壁が、天井の防壁が、俺を中心に波紋のように連鎖的に消失していく。十年間この区画を封じ続けてきた異能防壁が、根こそぎ——

頭上で、甲高い警報音が鳴り始めた。

耳鳴りがする。視界が歪む。床に膝をついた感触があった。掌の下のコンクリートが冷たい。自分の呼吸だけが聞こえる。荒く、浅く、壊れた排気管のように。

冴夜を見上げた。

女は無傷だった。コートの裾すら乱れていない。あの無表情の中に、今度だけはっきりと読み取れるものがあった。

満足。

「——素晴らしい」

冴夜の声が、警報音の隙間に滑り込んでくる。

「名前がある。君の力には。記録にも残っている。十年前に、この場所で——」

階段の方から、複数の足音が聞こえた。術式紋を失ったこの部屋は、もう学園の感知網から隠れられない。

冴夜は背後の闇に溶けるように後退した。身体の輪郭が薄れていく。空間転移か、あるいは認識を逸らす類の術式か。最後に、声だけが残った。

「また会える。次は君から来る」

足音が近づいてくる。怒号。「地下で覚醒反応、出力規格外——誰だ!」

俺は床に崩れ落ちたまま、自分の両手を見つめていた。震えが止まらない。恐怖。それから——認めたくないほどの、高揚。

十七年間、ずっと空白だったものが今、どくどくと脈打っている。

体の奥を駆け巡る見知らぬ熱が、確かにそこにあった。名前はまだ知らない。だがそれは最初から俺の中にあったのだと——冴夜の言葉が真実だったのだと、細胞の一つ一つが知っている。

「動くな! 両手を頭の後ろに回せ!」

学園職員の声が反響する。ライトの光が顔を直撃した。目を細めながらも、俺の口元には——笑みとも歪みともつかないものが、浮かんでいた。

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