第2話
第2話
目を開けたとき、最初に見えたのは第七層の地図だった。
机の上に広げたまま眠ってしまったらしい。朝の光が窓から差し込み、古びた羊皮紙の輪郭を白く浮かべている。寝台から身を起こすと、背中が軋んだ。昨夜は寝返りひとつ打てなかったようだ。体が強張っている理由は、寝相だけではないだろう。
洗面台の冷水で顔を叩き、いつもの装備を身につける。小槌、革手袋、松明、採掘籠。手に馴染んだ重さが、かろうじて日常の形をつなぎとめてくれる。
だが今日はダンジョンに向かわなかった。
足が向いたのは、ギルド支部だった。掲示板に貼り出されたあの通達を、もう一度読むためではない。カイトの取引先は実質一つしかない。この支部の素材買取窓口だ。制度施行は来月一日——だが、それまでの間にも方針は動く。昨日の通達を受けて、各ギルドがどう対応するか。それを確かめなければならなかった。
朝一番のギルド支部は、いつもと様子が違っていた。窓口の前に列ができている。素材屋ではない。冒険者だ。ランクの再査定に関する問い合わせが殺到しているらしく、受付の声が苛立ちを滲ませていた。
カイトは列を避け、素材買取の窓口に向かった。査定員の女が——昨日と同じ人物が、カウンターの向こうに座っている。カイトの顔を見た瞬間、その表情がわずかに曇った。
「ああ、カイト。ちょうどよかった。あなたに伝えることがあるの」
声の温度で、内容は察しがついた。それでもカイトは黙って待った。
査定員は手元の書類に目を落とし、事務的な口調で読み上げた。
「ギルド連合通達に基づき、当支部は来月一日付でFランク登録者との素材買取契約を停止します。つきましては——」
「来月一日からですか」
「いいえ」
査定員は一瞬、目を伏せた。
「支部長判断で、本日付での即時停止よ。通達の趣旨を先取りして対応するって。……正直、私も今朝聞いたばかりなの」
空気が、薄くなった気がした。耳鳴りではない。ギルドのロビーに満ちていた喧騒が、急に遠くなっただけだ。
「理由を聞いても、いいですか」
「連合評価の算定が遡及適用される可能性があるの。施行日以前の取引履歴も評価対象になるかもしれないって。だからどのギルドも——早いところはもう昨日の夜から動いてる」
つまり、Fランクとの取引記録自体が負債になる。過去に遡って。十年分の取引が、ギルドにとっての汚点に変わる。
「他の支部も同じですか」
「少なくとも、この街の主要三支部は足並みを揃えるはず。……カイト、あなたのことは覚えてる。十年間、一度も品質でもめたことがない納品者なんて、ランクに関係なく滅多にいない。でも、私にはどうにも——」
「わかってます」
カイトは頭を下げた。恨み言は出なかった。査定員に権限がないことは知っている。彼女は十年間、カイトの素材を正当に——少なくとも制度の範囲内では正当に査定してくれた。その事実まで否定する必要はない。
「ありがとうございました」
背を向けたとき、査定員が小さく息を吐く音が聞こえた。それ以上の言葉はなかった。
*
ロビーを横切る足取りは、不思議と乱れなかった。頭の中は空白だったが、体は覚えている。十年間、この場所を歩いてきた足が、勝手に出口へ向かう。
外に出ると、朝の陽射しが眩しかった。石畳の上を行き交う人々。荷馬車。露店の呼び声。昨日と何も変わらない街の風景が、今日は妙に薄く見えた。自分だけが透明になったような錯覚。
足は自然と裏路地に逸れた。人通りの少ない道を選び、石壁に背をつけて立ち止まる。財布を取り出した。千七百五十ルト。昨日の売上が、最後の収入になった。
家賃が八千ルト。食費を切り詰めても月に三千はかかる。手持ちの全財産を数えると、五千ルトに届かない。来月の家賃は払えない。
壁に凭れたまま、目を閉じた。石壁の奥から、微かな振動が伝わってくる。街の地下を走る水路の流れ。その下に眠る地層の呼吸。声は聞こえる。いつでも、どこでも。この力だけが自分を生かしてきた。
だが、その力で採った素材を買う者がいなくなった。
——どうする。
選択肢を数えた。冒険者に転向する道はない。戦闘スキルを持たない人間が深層に潜れば、即座に死ぬ。他の職業に就くか。鍛冶屋の下働き、酒場の皿洗い。十年間ダンジョンの声を聴いてきた指先で、皿を洗う。想像して、喉の奥が苦くなった。
目を開けた。裏路地の突き当たりに、見覚えのある看板が見えた。古びた木の板に、月と秤の紋章。闇市の入り口だ。表のギルドを通さず、素材や情報を取引する灰色の市場。Fランクの素材屋が足を踏み入れる場所ではない——はずだった。
*
闇市は狭い地下通路に店が並ぶ形で広がっていた。松明ではなく、魔石の淡い光が天井から落ちている。空気は乾いていて、かすかに金属の匂いがした。
カイトは帽子を目深に被り、通路を歩いた。両脇の露台に並ぶ品々に目を走らせる。——深層鉱石、魔獣素材、未鑑定の遺物。どれもギルドの正規ルートでは見かけない品だ。そして値札。
足が止まった。
第七層産の蒼黒鉄鉱。値札は一個三千ルト。最浅層の蒼鉄鉱が二百ルトだったことを思えば、十五倍。その隣に並ぶ深淵苔は束で五千ルト。カイトが一日かけて稼ぐ金額を、たった一束が超えている。
さらに奥の露台には、見たことのない結晶が陳列されていた。薄紫の光を放つ六角柱。値札は——二万ルト。カイトの目が見開かれた。
「触るなよ、坊主」
露台の奥から、禿頭の男が低い声を出した。目つきが鋭い。値踏みするような視線がカイトの装備を舐め回す。
「……見ているだけです。これは第七層の?」
「第七層中層。魔霊石ってやつだ。魔導具の核に使う。供給が少ねえから値が張る」
カイトは結晶を見つめた。声が聞こえる。——いや、叫んでいた。この結晶は採取時に傷がついている。内部構造に微細な亀裂が走っていて、本来の純度を発揮できていない。完品なら二万ルトどころではないだろう。
「品質はどうなんですか、これ」
禿頭の男が片眉を上げた。
「何がわかるんだ、Fランクの小僧に」
その通りだった。カイトは口を閉ざし、小さく頭を下げてその場を離れた。だが胸の内側で、歯車がゆっくりと噛み合い始めていた。
第七層の素材なら、生活は立て直せる。闇市には買い手がいる。問題は——採取できるかどうかだ。Cランク以上の許可区域。魔物の強度は最浅層と比較にならない。戦闘力を持たない自分が、生きて帰れる保証はどこにもない。
通路を戻りながら、指先が震えていた。恐怖ではない。先ほどの魔霊石の声が、まだ残響のように指の腹に貼りついている。傷ついた結晶の、助けを求めるような軋み。あの声を正しく聴ける者がこの闇市に何人いるだろう。品質を見抜き、最適な採取角度で取り出せる者が。
地上に出ると、午後の陽が傾き始めていた。安宿への帰り道、カイトの足取りは朝とは違っていた。重さが消えたわけではない。むしろ、腹の底に錘を飲み込んだような覚悟の重さが加わっていた。
部屋に戻り、机に向かう。第七層の地図を改めて広げた。昨夜は眺めるだけだった羊皮紙の上を、今度は指でなぞるのではなく、ペンで線を引き始めた。
最浅層から第七層までの最短ルート。既知の魔物生息域を避ける迂回路。素材が眠りやすい地質の特徴。三年前に闇市で買ったこの地図は大雑把だが、素材感知の範囲を考慮すれば、現地で修正はできる。
ペンが止まった。地図の一角に、破線で囲まれた区域がある。「立入厳禁——構造不安定」と古い字で注記されていた。だが破線の内側に描かれた地質記号を、カイトの目は見逃さなかった。魔霊石の母岩層を示す記号だ。
窓の外が暗くなっていた。いつの間にか、街灯が灯っている。カイトは地図の上にペンを置き、椅子の背に体を預けた。
十年間、最浅層の壁の声だけを聴いて生きてきた。その声が——今、もっと深い場所から呼んでいる。
明日の朝、支度をしよう。
採掘籠の中身を入れ替え、松明の予備を倍にし、水と携帯食を三日分詰める。戦えない体で、禁忌の階層に降りる。正気の沙汰ではない。だがカイトの指先は、もう震えていなかった。代わりに、魔霊石の声の残響が——あの傷ついた結晶の軋みが、まるで道標のように、暗い深層へと手招いていた。