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素材屋の声、最凶の狼を聴く

第1話 第1話

第1話

第1話

湿った石壁に、松明の炎が揺れていた。

 カイトは腰を屈め、足元の岩肌に指先を這わせる。苔の層の下に、かすかな脈動があった。耳ではない。指先でもない。もっと奥の、言葉にならない場所で——鉱石が、息をしている。

 ——ここだ。

 採掘用の小槌を取り出し、岩肌の継ぎ目に刃先を当てた。三度、正確に叩く。乾いた音が最浅層の通路に反響し、こぶし大の蒼鉄鉱がごろりと転がり出た。淡い青の光沢。純度は悪くない。掌に乗せると、結晶の内側から伝わる微細な振動が心地よかった。健やかな鉱石だけが持つ、澄んだ周波。この一つを取り出すために、壁の声を二十歩分聴き比べた甲斐があった。

 革袋に収め、立ち上がる。背負い籠にはすでに薬草の束と鉱石がいくつか詰まっていた。十年も通えば、最浅層の地形は自分の掌の皺より馴染んでいる。どの壁にどんな鉱脈が走り、どの角を曲がれば日照草が群生しているか。目を閉じていても歩ける。

 だからこそ——あの音に、すぐ気づいた。

 右手の天井。石灰岩の層が、軋んでいる。耳に届く音ではない。素材たちが発する、声にならない悲鳴だ。鉱石の結晶構造が圧力で歪み、限界を訴えている。

 カイトは無言で三歩後退した。

 直後、天井の一角が崩れ落ちた。粉塵が舞い、拳大の岩片が通路を塞ぐ。もし立ち止まっていれば、頭蓋を砕かれていただろう。

 粉塵が薄れるのを待ち、崩落箇所を冷静に観察する。通路は半分塞がったが、左壁沿いに体を横にすれば抜けられる。籠の中身を確認し、破損がないことを確かめてから、カイトは帰路についた。

 十年間、無傷。戦闘スキルは持たない。魔物と戦う力もない。それでも生きてこられたのは、この——素材の声を聴く力のおかげだった。

 誰にも話したことはない。話したところで、信じる者はいないだろう。

 *

 ギルド支部の窓口は、昼過ぎでも閑散としていた。冒険者たちの大半は午前中に依頼を受けてダンジョンに潜っている時間帯だ。受付カウンターの向こうに座る査定員の女が、カイトの差し出した革袋を一瞥し、中身を木皿にあけた。

「蒼鉄鉱が四つ、日照草の束が三、白苔の塊が——これ、虫食いね」

「表層だけです。芯は生きてます」

 査定員は白苔を指先で転がし、鼻を鳴らした。

「Fランク納品、蒼鉄鉱は一個二百ルト。日照草は束で三百。白苔は——状態が微妙だから百五十でいいわね」

 カイトは黙って頷いた。蒼鉄鉱の市場価格は一個五百ルト前後だ。Fランク補正で六割に叩かれるのは、十年前から変わらない。文句を言ったところで査定基準は覆らないし、他に卸す先もない。

「合計千七百五十ルト。確認して」

 木皿に並べられた硬貨を数え、革の財布にしまう。今月の家賃が八千ルト。あと四日分の採取で、ぎりぎり届くかどうか。

「……ありがとうございます」

「ご苦労さま。次の方——」

 素材を手放す瞬間が、いつも少しだけ痛い。声が聞こえる鉱石や薬草には、それぞれ個性がある。蒼鉄鉱の澄んだ震えも、日照草のあたたかな囁きも、カウンターを越えた瞬間にただの商品になる。感傷だとわかっている。それでも。

 窓口を離れ、ギルド支部のロビーを横切る。壁際の長椅子に腰を下ろし、財布の中身をもう一度確かめた。この調子なら、月末に余裕はない。だが餓えるほどでもない。十年間ずっとそうだった。贅沢はできないが、死にはしない。それがFランク素材屋の暮らしだ。

 ロビーの喧騒が耳に流れ込んでくる。Bランクパーティが第四層の討伐報告をしている声。新人冒険者が依頼板の前で言い争う声。酒場から漏れる笑い声。その全てが、カイトとは無縁の世界だった。

 目の前を、完全武装の冒険者が通り過ぎる。全身を覆う魔鋼の鎧、背に負った大剣、腰のポーションホルダー。その装備一式だけで、カイトの年収を超えるだろう。冒険者はカイトに一瞥もくれなかった。ここでは当然のことだ。素材屋は冒険者ですらない。ダンジョンに巣食う、ただの拾い屋だ。

 不意に、ロビーがざわめいた。

 視線を上げると、ギルド職員が掲示板の中央に大判の羊皮紙を貼り出しているところだった。周囲の冒険者たちが足を止め、紙面に目を走らせている。カイトも立ち上がり、人垣の隙間から文面を覗いた。

 ——ギルド連合通達。全支部共通、ランク査定制度の導入について。

 文面を追う目が、ある一節で止まった。

『本制度の施行に伴い、各ギルドの総合評価は所属冒険者および取引対象者のランク分布により算定される。低ランク取引比率が基準値を超過した場合、当該ギルドの連合評価は減点対象となる——』

 カイトは二度、三度と読み返した。意味を取り違えていないか確認するように。

 低ランク取引比率。Fランク。減点。

 つまり——Fランクの素材屋と取引を続ければ、ギルド自体の評価が下がる。

 紙面から目を離し、周囲を見た。冒険者たちは口々に制度の影響を議論している。だが誰もカイトを見ていない。この通達が誰の生活を根こそぎ奪うのか、気づいている者はいないようだった。

 胸の奥で、何かが冷たく沈んだ。

 背中を向けて立ち去ろうとしたとき、議論の中から断片が耳に刺さった。

「——まあ、Fランクなんて実質キャリーだろ。ギルドのお荷物がいなくなるなら、むしろ健全化じゃないか」

 笑い声が続いた。悪意ですらない、当然の事実を述べただけという軽さだった。カイトは足を止めなかった。止めたところで返す言葉がない。お荷物。拾い屋。十年分の朝がその二語に圧縮されて、喉の奥で潰れた。

 十年間。毎日ダンジョンに潜り、素材を採り、窓口に並び、安値で買い叩かれながらも、それでも——この場所に自分の居場所があると思っていた。小さな、しかし確かな居場所が。

 掲示板の羊皮紙が、松明の光を受けて揺れている。施行日は来月の一日。あと二十日もない。

 *

 帰り道、夕暮れの石畳を踏みながら、カイトは財布を握りしめていた。千七百五十ルト。明日からこの収入すら保証されない。

 制度が施行されれば、どのギルドもFランクとの取引を切るだろう。評価に響くとわかっていて、わざわざ素材屋一人を庇う義理はない。

 裏路地に入り、安宿の階段を上がる。六畳一間の部屋は黴の匂いがした。窓から差し込む夕陽が、壁に立てかけた採掘道具を赤く染めている。小槌。革手袋。籠。松明の予備。十年間の相棒たち。

 椅子に腰を下ろし、机の上に広げたままの地図に目を落とす。ダンジョンの断面図。最浅層から第三層までは自分の書き込みで埋まっている。鉱脈の位置、薬草の群生地、崩落の危険がある天井、季節ごとに水位が変わる地底湖。十年分の記録が細かな文字と線で地図を覆い尽くしている。その先は白紙だ。行ったことがない。行く必要がなかった。

 だが——机の隅に、もう一枚の地図がある。

 古びた羊皮紙。三年前に闇市で手に入れた、第七層の概略図。禁忌指定区域。Cランク以上でなければ立ち入りを許可されない深層。だが許可制であって、物理的に封鎖されているわけではない。

 第七層の素材は、最浅層の十倍以上の値がつく。仮に取引先が見つかれば——闇市でもいい——一回の採取で一ヶ月は暮らせる計算になる。

 カイトは地図の端を指でなぞった。声が聞こえるのは素材だけではない。ダンジョンそのものが、階層ごとに異なる音色を持っている。最浅層は穏やかな低音。第三層あたりから響きが変わると、古い冒険者の手記に書いてあった。

 第七層は、どんな声がするのだろう。

 窓の外で、街の灯りがひとつ、またひとつと灯り始めた。カイトは地図を畳まず、机の上に広げたまま寝台に横になった。天井の染みを見つめる目が、ゆっくりと細くなる。

 十年間、安全な場所だけを歩いてきた。戦えないから。力がないから。それを臆病と呼ぶ者もいるだろう。自分でもそう思う。

 だが——居場所を奪われて、黙って消えるのか。

 寝台の上で、拳を握った。指先に、昼間の蒼鉄鉱の残響がまだ微かに残っていた。澄んだ、冷たい震え。

 第七層の地図が、暗がりの中で白く浮かんでいる。

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