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共振破壊のガラス細工

第2話 第2話

第2話

第2話

ランク戦当日の朝は、嫌になるほど晴れていた。

 雲ひとつない青空が第一闘技場の天窓から降り注ぎ、楕円形のアリーナを白く照らしている。観客席はすでに八割が埋まっていた。学期ごとのランク戦は娯楽を兼ねた公式行事で、上位ランクの派手な試合を目当てに他学年まで押し寄せる。売店ではドリンクが飛ぶように売れ、歓声と笑い声がドーム状の天井に反響して、まるでスポーツイベントの会場みたいだった。

 控室のベンチに座り、両手を膝の上で組んでいた。指先がわずかに震えている。緊張じゃない——いや、緊張だ。昨日も一昨日も訓練場であの同心円の波紋を再現しようとして、結局一度も成功しなかった。あの一瞬の手応えは、夢だったんじゃないかとさえ思う。

 控室のモニターに場内アナウンスが映る。第三試合、Bランク同士の対戦が終わったらしい。次が俺だ。

『第四試合。Aランク、鷹城蓮司——対、Eランク、御堂瑛人』

 場内アナウンスが名前を読み上げた瞬間、観客席からどよめきが起きた。笑いだ。対戦表が発表されたときと同じ種類の、同情と嘲りが入り混じった空気。モニター越しにも伝わってくる。

「御堂くん、時間です」

 係員に促されて立ち上がる。膝が少し笑っていたが、歩けないほどじゃない。通路を進むと、反対側から歩いてくる人影が見えた。

 鷹城蓮司。

 百八十センチを超える長身に、無造作な黒髪。制服の上からでもわかる鍛えられた体躯。だが一番目を引くのは、その目だ。何の感情も映していない。俺を見ていない。俺の存在自体が視界に入っていないような、透明な無関心。Aランクにとって、Eランクとの対戦は試合ですらないのだろう。

 すれ違うとき、風圧すら感じなかった。それなのに、鷹城の周囲だけ空気の密度が違う気がした。肌がぴりぴりと粟立つ。本能が格の差を告げている。

 アリーナに出た瞬間、光と歓声が壁のようにぶつかってきた。観客席の最前列に三好の顔が見える。にやにや笑いながらスマホを構えていた。録画する気だ。俺の惨めな負けを記録して、クラスで回すつもりだろう。

 審判の教官が中央に立ち、ルールを読み上げる。場外、意識喪失、降参で決着。重傷を負わせた場合は反則。制限時間十分。

「両者、構え」

 鷹城が右手を軽く上げた。それだけの動作で、空気が変わった。アリーナの床を這うように、不可視の力場が広がっていくのがわかる。俺の振動感知が捉えている——空間そのものが鷹城の意志で歪んでいる。息を吸うだけで胸が圧迫されるような重さ。これがAランクの力場操作か。

「始め」

 審判の声が消える前に、体が浮いた。

 比喩じゃない。文字通り、俺の足が床から離れた。鷹城が右手を振った、たったそれだけの動作で、俺の体は力場に捕まれて三メートル上空に放り上げられていた。天井の照明が目の前を横切り、観客席が逆さまに見えた一瞬のあと、背中からアリーナの床に叩きつけられた。

 肺の中の空気が全部潰れた。

「がっ——」

 視界が白く弾ける。背中から衝撃が全身に伝播して、指先まで痺れた。だが折れてはいない。闘技場の床は衝撃吸収素材で、致命傷にはならない設計だ。死なない程度に痛い。それが一番たちが悪い。

 観客席で笑いが起きた。予想通りの展開に安心したような、お祭り騒ぎの気楽な笑い。

「立てよ、ガラス細工! 三十秒持つか賭けてんだからさ!」

 三好の声が響く。その周囲でスマホの画面が光っている。何人が録画しているんだ。十人か、二十人か。

 手のひらを床につき、腕に力を入れた。立ち上がる。膝が震えている。鷹城は三歩も動いていない。右手をポケットに入れたまま、左手だけを軽く持ち上げた姿勢。余裕ですらない、ただの作業だ。

「……来い」

 俺の声は自分でも聞こえないくらい小さかった。だが鷹城の目がわずかに動いた。初めて俺を「見た」かもしれない。

 左手が振られる。力場が横殴りに叩きつけられ、今度は俺の体がアリーナの端まで吹き飛ばされた。壁際の衝撃緩和材に背中からめり込み、口の中に鉄の味が広がる。舌を切ったらしい。

 立ち上がった。

 三度目。鷹城の手が閃くと、見えない巨人の掌に叩き落とされるように俺は床に沈んだ。衝撃で視界が揺れ、耳の奥でキーンという高音が鳴った。

 立ち上がった。

 四度目は上空に打ち上げられてから横方向に弾かれた。体が回転して方向感覚を失い、着地というより墜落だった。右肩から落ちて、肩の関節が悲鳴を上げる。

 立ち上がった。

 五度目。六度目。何度叩きつけられたか数えられなくなった頃、観客席が静かになり始めていることに気づいた。笑い声が減っている。最前列の三好がスマホを下ろしていた。画面は録画のまま止まっている。

「……なんで立つんだよ」

 誰かが呟いた。

 理由なんか聞かれても困る。足が震えている。腕も震えている。口の中の血の味は舌の傷からじゃない、唇の裏も切れている。右肩は上がらない。だけど膝がまだ動くなら立つ。それだけだ。理由があって立っているわけじゃない。座り込んだら、もう二度と立てない気がするから立っている。

 鷹城の表情が変わっていた。透明な無関心が消え、代わりに——苛立ち、ではない。困惑に近い何か。その目に、初めて感情の色が見えた。

「……降参しろ」

 鷹城が口を開いた。試合が始まってから初めての言葉だった。低く、抑制された声。命令というより、忠告のような響き。

「これ以上やっても結果は変わらない」

 わかってる。数値の差は五十倍。俺の微弱振動じゃ鷹城の力場に傷ひとつつけられない。勝てる要素がゼロだってことくらい、誰より俺自身がわかってる。

 それでも。

「——断る」

 右手をかざした。もう左腕は上がらない。指先に意識を集中する。微弱振動。コップの水すら満足に揺らせない、最底辺の能力。だけど三日前、あの薄暗い訓練場で、一瞬だけ水だけに届いた波紋があった。あの一瞬は本物だ。

 振動を送る。鷹城の力場に向かって。

 何も起きない。当たり前だ。蚊が象にぶつかるようなもので、力場はびくともしない。鷹城が右手を引いた。次の一撃が来る。

 だけど指先を下ろさなかった。振動を送り続ける。周波数を変え、波形を変え、しつこく何度も。届かなくても、試すことをやめたら本当に終わる。

 鷹城の力場が俺を正面から捉えた。今までで一番重い圧。体が床に押しつけられ、膝が折れた。胸を万力で締められるような圧迫感。息ができない。視界の端が暗くなり始める。

 ——そのとき。

 胸の奥で、何かが軋んだ。

 骨でも臓器でもない、もっと深い場所。自分の体の中にこんな場所があったのかと思うような、意識の底にある何か。鷹城の力場に押し潰されそうになる圧力の中で、それは圧縮されたばねのように内側から膨れ上がった。

 指先から放たれる振動の質が、唐突に変わった。

 自分でもわからない。制御なんかしていない。ただ胸の奥の軋みが指先に伝わり、そこから放たれた波が——鷹城の力場に触れた瞬間、空気が目に見えて歪んだ。

 最前列の観客が立ち上がった。審判の教官が目を見開いた。鷹城の表情から困惑が消え、明確な驚愕に変わった。

 俺の周囲半径二メートルの空気が、陽炎のように揺れている。蛍光灯の光が屈折し、俺の輪郭が歪んで見えているはずだ。自分では見えない。だが肌で感じる——振動だ。微弱振動なんかじゃない。空間を構成する何かそのものを震わせている、名前のない力。

 鷹城の足が、半歩だけ後ろに下がった。Aランク上位の人間が、Eランクの力に押されて後退した。たった半歩。だがその半歩の意味を、この闘技場の全員が理解していた。

 意識が遠のいていく。体が限界を超えている。膝が崩れ、床に手をついた。だが手のひらが触れた床が、同心円状にひび割れた。衝撃吸収素材が耐えられない振動。

「——止めろ! 試合中止!」

 審判の叫び声が、水の底で聞くように遠い。

 最後に見えたのは、鷹城蓮司の顔だった。Aランク上位、学年最強の一角。その目に浮かんでいたのは、怒りでも軽蔑でもなく——恐怖だった。

 俺を見て、怯えていた。

 胸の奥の軋みが、脈打つように大きくなる。視界が白く塗り潰されていく中で、母さんの言葉がなぜか鮮明に響いた。

『弱い能力なんてない』

 その意味が、わかりかけた気がした。

 意識が、落ちた。

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