第3話
第3話
白い光の中に、音があった。
音というより振動だ。自分の体の内側から湧き上がる、低く、深く、途方もなく大きな波。心臓の鼓動とは違う。もっと根源的な——細胞の一つひとつが同じリズムで震えているような感覚。気持ちいいとも苦しいとも判断がつかない。ただ、止められないということだけが確かだった。
意識が落ちたはずだった。鷹城の力場に押し潰され、膝が折れ、視界が白く塗り潰された。そこまでは覚えている。だがその白が消えない。暗転ではなく、白い空白の中に浮かんでいる。自分の体がどこにあるのかわからない。手も足も感覚がない。あるのは振動だけだ。
胸の奥の軋みが、鼓動のように脈打っている。一回ごとに大きくなる。圧縮されたばねがさらに縮み、もう戻れない臨界点に近づいていく感覚。
——まずい。
本能が叫んでいる。これが解放されたら、何かが取り返しのつかないことになる。止めなければ。だが体が言うことを聞かない。指一本動かせない。意識があるのに、自分の体から完全に切り離されている。
白が、弾けた。
闘技場のモニターカメラの映像は、あとから何度も再生されることになる。
御堂瑛人の体を中心に、空気が球状に歪んだ。陽炎なんてものじゃない。光そのものが屈折し、瑛人の輪郭が消えた。球体の表面を走る波紋は、水面に石を投げたときの同心円と同じかたち——だが規模が違った。直径が一メートル、二メートル、五メートルと、心臓の鼓動に合わせて膨張していく。
最初に壊れたのは、アリーナの床だった。
衝撃吸収素材は能力者同士の戦闘に耐える設計で、Aランクの全力攻撃でも表面にひびが入る程度のはずだった。それが、御堂瑛人を中心とする半径十メートルの範囲で、粉になった。砕けたのではない。素材を構成する分子の結合そのものが共振によって破壊され、固体が一瞬で微粒子に分解された。粉塵が柱のように舞い上がり、天窓からの光を遮って闘技場が薄暗くなる。
俺はそれを、自分の体の外から見ているような奇妙な感覚で知覚していた。
意識はある。目も開いている。だが自分の意志で何かをしている感覚がまるでない。胸の奥の振動が勝手に膨張し、勝手に世界を揺らしている。俺はその振動の発生源に閉じ込められた傍観者だった。
共振の球体が観客席に届く前に、闘技場の強化壁が反応した。Aランクの全力戦闘を想定した六重の防御障壁が、アリーナを囲むように自動で展開される。半透明の力場が六層に重なり、淡い青白い光を放つ。
一層目が、紙のように裂けた。
共振の波面が障壁に触れた瞬間、力場を構成するエネルギーの配列そのものが乱され、構造が内側から崩壊した。破片は光の粒子になって霧散する。観客席の最前列で三好が立ち上がり、スマホを取り落とした。画面が砕ける小さな音は、誰にも聞こえなかった。
二層目。三層目。四層目。一秒に一枚のペースで、強化壁が消滅していく。障壁が割れるたびに衝撃波が走り、観客席の椅子がガタガタと鳴った。五層目が裂けたとき、最前列の生徒たちが悲鳴を上げて逃げ始めた。
教官席で、三人の教官が同時に立ち上がっていた。闘技場の主任教官・黒崎が生徒の避難を指示する怒号。副主任の八重樫が追加の障壁を手動で展開しようとしている。だがその手が止まった。術式を編んだ瞬間、共振の余波で力場が指先で弾け飛んだのだ。八重樫の顔から血の気が引いた。Bランク上位の教官が、障壁ひとつ張れない。
六層目——最後の強化壁に、共振が到達する。
鷹城蓮司が動いた。
俺の朦朧とした視界の中で、鷹城がアリーナの中央に踏み留まっているのが見えた。他の誰もが逃げるか動けなくなっている中で、鷹城だけが正面から共振の波面に向き合っていた。両手を前に突き出し、力場操作の全力展開。Aランク上位の出力で、六層目の障壁を内側から補強している。
その障壁に亀裂が入った。
蜘蛛の巣状のひびが力場の表面を走り、中央から光が漏れる。鷹城の腕が震えていた。歯を食いしばり、足を踏ん張り、全身の力を込めて壁を維持している。だが共振は止まらない。俺の胸の奥の脈動が一回打つたびに、亀裂が広がっていく。
「——っ」
鷹城の口から声にならない呻きが漏れた。力場が限界を超え、障壁が内側から破裂するように砕け散った。Aランク上位の防御を、正面から粉砕した。破片の光が鷹城の体を包み、その体が数メートル後方に吹き飛ばされてアリーナの壁に叩きつけられた。
観客席で教官が何か叫んでいる。測定室のモニターが明滅し、数値表示が点滅を繰り返した末にエラーコードを吐き出して画面が真っ赤に染まった。測定限界を超えた場合にのみ表示される、あの色。三人の測定技師が顔を見合わせ、誰も声を出せなかった。
共振の球体がまだ膨張している。六層の障壁を失った闘技場の構造体そのものが軋み始める。天窓のガラスに亀裂が走り、観客席の手すりが金属疲労を起こしたように歪んだ。このまま止まらなければ、闘技場ごと崩壊する。
止めろ。
自分に叫んだ。声にはならない。体は動かない。だが意識はある。この振動は俺の中から出ている。なら、俺が止めなければ誰にも止められない。
白い空白の中で、俺は自分の胸の奥に手を伸ばした。物理的な腕じゃない、意識の手。脈打つ振動の核に触れようとする。熱い。触れた瞬間、指先が焼けるような衝撃が走った。拒絶されている。自分自身の力に、拒絶されている。
構うものか。
核を掴んだ。全身が軋んだ。白い光の中で歯を食いしばり、暴れる振動を両手で押さえ込む。水の入ったコップを揺らさないように——あの薄暗い訓練場で、何百回も繰り返した、あの感覚。対象を選ぶ。拡散させない。俺の振動は、俺が決める。
膨張が、止まった。
共振の球体が揺らいだ。表面を走る波紋が乱れ、球体の輪郭がぼやけていく。直径が縮小し始める。二十メートル、十五メートル、十メートル——闘技場の軋みが止まり、天窓の亀裂の進行が停止した。
だが止めるのが精一杯だった。制御なんてできていない。ただ暴走の速度をゼロにしただけで、胸の奥の振動は依然として脈打っている。押さえ込んでいる意識の手が、一瞬ごとに力を失っていく。
——限界だ。
掴んでいた核が指の間からすり抜けた。
最後に見たのは、闘技場の天窓から差し込む白い光と、アリーナの壁際で動かない鷹城の体と、観客席で教官に抱えられるようにして避難していく生徒たちの背中だった。
視界が落ちた。今度こそ、本当に暗転した。
……最初に戻ってきたのは、匂いだった。
消毒液。清潔だけど温度のない、病院特有の空気。次に音。心拍モニターの規則的な電子音と、空調の低い唸り。まぶたが重い。鉛を載せられているみたいだ。何度か瞬きを繰り返して、ようやく天井の白さに目が慣れた。
医務室——じゃない。天井が高すぎる。蛍光灯ではなく間接照明で、壁の色も学校の医務室より暗い。見覚えのない場所だ。
体を起こそうとして、全身が悲鳴を上げた。筋肉という筋肉がばらばらに引き裂かれたような痛み。腕にも脚にも包帯が巻かれていて、右肩は固定具で動かないようになっている。左手の甲に点滴の針。
「目が覚めたか」
声がした方を向くと、ベッドの横のパイプ椅子に男が座っていた。白衣ではない。黒いスーツに黒いネクタイ。年齢は四十代半ばくらいで、短く刈り込んだ髪に白いものが混じっている。教官ではない。見たことのない顔だ。
「……ここは」
「周波数管理局の第三医療棟。学校からは離れている」声に感情の抑揚がほとんどない。「闘技場で意識を失って丸一日。今は翌日の午後二時だ」
丸一日。記憶がゆっくりと輪郭を取り戻す。ランク戦。鷹城。胸の奥の軋み。白い光。強化壁が紙のように裂けた光景。鷹城の体が吹き飛ばされた瞬間。
「鷹城は——」
「命に別状はない。だが肋骨三本と左腕を折った。全治二ヶ月」
息が詰まった。俺がやったのか。Aランク上位の人間の骨を折るほどの力が、俺の中から出たのか。
黒服の男がタブレット端末を取り出し、画面をこちらに向けた。棒グラフと折れ線が並ぶ測定データ。俺の名前が書かれている。
「闘技場の全測定器が同時にオーバーフローした。ランク戦六十年の歴史で初めてのことだ。測定可能な最大値を振り切ったため、お前の能力出力は数値化できなかった」
男がタブレットの画面をスクロールする。測定結果のページ。通常なら数値とランクのアルファベットが並ぶ欄に、赤い文字が四つだけ表示されていた。
「——ランク:測定不能」
男が読み上げたその四文字が、消毒液の匂いが漂う静かな病室の中を、いつまでも漂っていた。