第3話
第3話
第七分校に来て三日が経った。驚くほど早く、日常は形を成す。
朝六時に起きる。電車に四十分揺られる。駅から十五分歩く。校舎に着いて、淀んだ空気の教室に座る。窓際の席は直射日光だけが取り柄で、埃っぽい光の筋が机の傷を浮かび上がらせている。抑揚のない授業を聞き、昼にパンを食い、午後の実技で測定盤にゼロを叩き出し、放課後に屋上で体を追い込む。帰って飯を食って寝る。その繰り返し。何も変わらない。測定盤の数値も、体の奥の空洞も。
変わったことがあるとすれば、水瀬が昼休みに話しかけてくるようになったことくらいだ。
「神崎くん、今日も屋上ですか」
「ああ」
「無理しすぎないでくださいね。昨日、足引きずってたの気づいてますから」
探知系の観察眼は伊達じゃないらしい。俺は曖昧に頷いて、購買の列に並んだ。水瀬はそれ以上踏み込んでこなかった。距離感の取り方が上手い——というより、踏み込まれたくない側の気持ちがわかるのだろう。ここにいる全員が、何かしらの傷を抱えている。
大河とも小夜とも、まだまともに言葉を交わしていない。大河は俺を見ると軽く顎を引くだけで通り過ぎるし、小夜に至っては視界に入っているのかすら怪しい。前髪の奥の目がどこを向いているのか、読み取れたことがない。
それでいい。馴れ合いに来たわけじゃない。
四日目の帰り道、駅前のコンビニに寄った。おにぎりを二つとスポーツドリンクをレジに置いて、スマートフォンを取り出す。電車の時刻を確認するつもりだった。
画面を開いた瞬間、SNSの速報通知が目に飛び込んできた。
——氷室朔夜、史上最年少でA-2ランカー正式認定。序列庁第一訓練校エース、初任務で異能犯罪組織の拠点制圧に貢献。
記事には写真が添えられていた。朔夜が第一訓練校の制服姿で、序列庁の高官と並んで立っている。あの自信に満ちた、だが決して傲慢ではない笑顔。カメラのフラッシュを正面から受け止めて、微塵も揺らがない目。俺が一番よく知っている顔だ。隣で何百回と見てきた。
コメント欄が流れていく。「未来のS級」「朔夜くん推し」「第一訓練校の誇り」——千を超える祝福。その一つ一つが、コンビニの蛍光灯の下で妙に眩しかった。
「お客様、四百二十円です」
レジの店員の声で我に返った。画面を伏せ、電子マネーをかざす。ピ、という味気ない音。会計を済ませて外に出ると、四月の夜風が首筋を撫でた。生温くて、少しだけ湿っている。桜はもう散りかけていて、歩道の端に薄桃色の花弁が溜まっていた。
スマートフォンが震えた。
朔夜からのメッセージだった。
——蓮。返事なくて心配してる。元気にしてる? 新しいとこ、どんな感じ?
一拍おいて、もう一通。
——無理に返さなくていいよ。ただ、蓮のこと気にしてるから。
親指が画面の上で止まった。
何を返す。「おめでとう」か。「すごいな」か。「俺は元気だよ」か。どの言葉もはめてみると歪で、パズルのピースが微妙に合わないような苛立ちが胸を圧す。嫉妬だと認めるのは簡単だ。だが、それだけじゃない。朔夜は本気で心配している。気遣いのメッセージに嘘はない。わかっているからこそ、余計に指が動かない。
ここは掃き溜めだよ、とは言えない。測定盤はゼロのままだ、とも。お前が光の中を歩いている間に、俺は錆びたフェンスの屋上を走ってる——そんな惨めな報告を誰がしたいものか。
既読をつけないまま、スマートフォンをポケットに押し込んだ。
電車に乗る。窓の外を街灯が流れていく。車内は空いていて、向かいの席に座った老人が居眠りをしている。静かだった。静かすぎて、頭の中の声がうるさい。オレンジ色の街灯が一定の間隔で窓を横切るたび、朔夜の写真の残像がフラッシュバックした。あの笑顔。あの目。あの場所に、かつて俺もいるはずだった。
帰宅してからも落ち着かなかった。夕食を掻き込み、自室に入り、制服を脱いでトレーニングウェアに着替えた。ベッドに座る。天井を見る。体の奥に意識を沈める——何もない。いつも通りの空洞。腹の底に溜まった苛立ちが、出口を求めて暴れている。
二十一時を過ぎていたが、構わず家を出た。
第七分校まで走った。四十分の電車通学の距離を、夜の街路を縫って走り切る。途中でコンビニの前を通り過ぎ、信号を二つ無視し、住宅街の坂道で太腿が悲鳴を上げた。校舎のフェンスを乗り越え、非常階段から屋上に出る。施錠されていない扉が、こんなときだけありがたい。
夜の屋上は昼間とは別の場所だった。街灯の光が遠く、頭上には薄い雲の切れ間に星が見える。遠くの幹線道路を走るトラックのエンジン音が微かに聞こえるだけで、あとは静寂だ。冷えた空気が汗ばんだ肌に染みる。
走った。屋上の外周を、ひたすら。体が限界を訴えるまで——いや、限界を超えてから本番だ。足がもつれる。膝が笑う。それでも止まらない。止まったら、あのメッセージに返信できない自分を直視しなければならない。
腕立て。百回。腕が震え始めてから、さらに五十回。腹筋。祖父直伝の体術の型。右の正拳、左の掌底、回し蹴り。手甲の革が拳に食い込み、擦り切れた皮膚がじんじんと熱い。
一時間。二時間。時間の感覚が溶けていく。
ついに体が言うことを聞かなくなった。膝から崩れ、コンクリートの上に仰向けに倒れた。荒い息が白く上がる。四月の夜でも、これだけ体を使えば体温は跳ね上がる。胸が上下するたびに、視界で星が揺れた。
朔夜のメッセージが脳裏に蘇る。
——蓮のこと気にしてるから。
「……ああ」
声が掠れていた。喉の奥が乾ききっている。
「わかってる」
お前が本気で心配してくれてることくらい、わかってる。でも今の俺には、お前の隣に立てるものが何一つない。おめでとうと言う資格すら、自分で認められない。
拳を握った。コンクリートの冷たさが背中から伝わってくる。じわじわと体温を奪っていく冷気が、逆に心地よかった。熱くなりすぎた体と頭を、無機質な屋上の床が黙って冷ましてくれている。
「まだ来ていないだけだ」
三日前と同じ言葉。けれど今夜は、祈りのような響きが抜けて、代わりに低い怒りが混じっていた。自分自身への——この空っぽの器に対する、剥き出しの苛立ち。
「俺の力は、まだ——」
起き上がった。膝が痛んだが、もう一度立った。もう一度拳を構えた。暗い屋上に、拳が空を切る音だけが響く。何度も、何度も。
翌朝。寝不足の頭を抱えながら、いつもの通学路を歩いていた。駅から第七分校までの十五分。住宅街を抜け、空き地の脇を通り、古びた歩道橋を渡る。
歩道橋の階段を上ったところで、足が止まった。
何かが、おかしい。
視覚ではない。音でもない。もっと曖昧な——空気の質感とでも言うべきものが、ほんの一瞬だけ歪んだ。歩道橋の手すりに触れていた左手の指先が、微かに痺れるような感覚を拾っている。
手すりを見た。何も変わらない。錆びた緑色の金属パイプ。塗装が剥げて下地が見えている箇所がいくつか。朝の通勤客が俺を追い越していく。誰も立ち止まっていない。誰も気づいていない。
だが、ここに何かがあった。いや——何かが「あった」。過去形。つい最近まで、この場所で異能が行使された痕跡。残留した力の気配が、朝露のように薄く漂っている。
馬鹿な。俺は無能力者だ。測定盤の数値はゼロ。異能の残留痕を感知できるのは、探知系の能力者——水瀬のような人間だけのはずだ。
なのに、確かに感じた。理屈ではなく、体が知っている。この歪みは自然のものじゃない。
指先の痺れは数秒で消えた。振り返っても、歩道橋には通勤客の流れがあるだけだ。何事もなかったかのように。
俺は鞄の紐を握り直し、歩き出した。足取りは自然に、けれど心臓が速い。昨夜の無茶な運動のせいだと言い聞かせても、脈の質が違う。筋肉の疲労とは別の何かが、血管の内側を押し広げるように巡っている。今の感覚が何だったのか、まだ言葉にできない。ただ一つ、空っぽだったはずの器の底で、何かが微かに——本当に微かに——脈打った気がした。
第七分校の正門が見えてくる。壁の落書きは今日も消されていない。
——ここは掃き溜め。
その文字を横目に通り過ぎる瞬間、ポケットの中でスマートフォンが震えた。朔夜からではない。水瀬からだった。
——神崎くん、今日の放課後、少し話したいことがあります。
昨日の屋上のことだろうか。それとも——。
指先に残る痺れの記憶を握り込むように、俺は校門をくぐった。