第2話
第2話
女の目が、暗闘の痕跡を読んでいた。
えぐれた壁。融けたアスファルト。煤のように消えた異形の残滓。路地裏の惨状を順に確認する視線は、警察官が現場検証をするそれに似ている。だが、もっと手慣れていた。こういう光景を何度も見てきた人間の目だ。
「立てますか」
感情の乏しい声だった。手を差し伸べるでもなく、ただ事実確認として訊いている。
「……あんた、何者だ」
声が掠れた。喉がからからだった。唾を飲み込もうとして、鉄錆の味がまだ残っていることに気づく。
「鎮守庁実働第三班、神崎凛。あなたの周辺に蝕禍の反応が検知されたため急行した」
鎮守庁。蝕禍。知らない単語が立て続けに飛んできて、処理が追いつかない。膝に手をついて立ち上がろうとしたが、右腕に力が入らず、左手だけで体を支える羽目になった。右腕は肘から先の感覚が鈍く、他人の腕をくっつけられたみたいだ。
「蝕禍——さっきの、あれのことか」
「ええ。あなたが消滅させた個体は、上位蝕禍に分類される。通常、実働隊員が三名以上で対処する案件です」
三名以上。あの化け物を倒すのに、プロが三人必要だと。それを俺が——素人の営業マンが、右腕一振りで。
神崎凛が端末を取り出し、何かの操作をした。画面の光が彼女の横顔を青白く照らす。
「半径十二メートルに残留する崩壊痕の分析から、あなたの異能出力は暫定でAクラス以上と推定されます。詳細な計測が必要なため、同行をお願いしたい」
「同行って——」
「保護です」
その一言が、やけに重く響いた。保護。俺が保護される側なのか。それとも、俺から誰かを保護するという意味なのか。
サイレンの音が近づいていた。赤い光がビルの壁に反射して、路地の入り口をちらちらと染める。神崎が視線をそちらに向けた。
「警察には鎮守庁から説明が入ります。あなたが現場に関わった記録は残りません。ただし」
彼女が初めて、真正面から俺の目を見た。
「今夜ここで起きたことは、誰にも話さないでください。家族にも、同僚にも」
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黒いセダンが裏路地の端に停まっていた。ナンバープレートの書体が普通と違う。公用車、だろうか。後部座席に押し込まれて、隣に神崎が乗り込む。運転席には別の隊員がいたが、一言も発しなかった。
車が走り出す。都心の夜景が窓の外を流れていく。いつもの帰り道と同じビル群、同じネオン、同じコンビニの看板。なのに、まるで別の世界の風景を見ているようだった。ガラス一枚隔てた向こう側に、さっきまで自分がいた日常がある。
右腕が微かに疼いた。痺れとは違う、皮膚の下で何かが蠢くような感覚。思わず左手で右前腕を押さえる。
「触らない方がいい」
神崎の声。前を向いたまま、こちらを見ずに言った。
「覚醒直後の異能は不安定です。刺激を与えると暴発する可能性がある」
暴発。さっき路地でやったことが、この車内で起きたら。背筋が凍った。慌てて手を離す。自分の右腕が爆弾に思えて、膝の上にそっと置いた。できるだけ何にも触れないように。
「あの——俺は、どうなるんだ」
「鎮守庁本部で能力の測定と身元確認を行います。それまでは保護対象として扱われます」
「保護が終わったら、帰れるのか。会社に——」
言いかけて、自分の言葉の虚しさに気づいた。会社。明日のアポ。差し替えた資料。松田屋の新任部長の名刺。滝沢課長のチャット。そんなものが、右腕一つで化け物を消滅させた人間の日常として成立するのか。
神崎は答えなかった。その沈黙が、答えだった。
車が首都高に入った。深夜の高速道路は空いていて、オレンジ色の照明が一定のリズムで車内を照らしては消える。その明滅の中で、さっきの光景がフラッシュバックした。
異形の空洞の顔。四本の腕。足元に転がっていた革靴。
あの革靴の持ち主には、家族がいたかもしれない。今頃、帰りが遅いと心配しているかもしれない。もう帰ってこないとも知らずに。
胃の底からせり上がるものがあった。窓を開けようとして、チャイルドロックがかかっていることに気づく。
「……すまない、ちょっと」
「車を停めて」
神崎が運転手に指示した。セダンが路肩に寄る。ドアが開いた瞬間、身を乗り出して嘔吐した。コンビニの幕の内弁当。四百八十円の残骸が高速道路の端に散らばる。何度もえずいて、胃が空になっても痙攣が止まらなかった。
神崎がペットボトルの水を差し出した。受け取る手が震えている。口を濯いで、深く息を吸った。排気ガスとアスファルトの匂い。路地裏の鉄錆の味よりは、よほどましだった。
「初めて蝕禍を見た一般人は、大抵そうなります」
慰めではなく、統計的な事実を述べている口調だった。だが、わずかに声の硬さが緩んだ気がしたのは、気のせいだろうか。
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車が停まったのは、千代田区の一角にあるビルの地下駐車場だった。地上から見れば何の変哲もないオフィスビルだろう。だがエレベーターで降りた先は、明らかに通常の建築基準を逸脱した空間だった。
地下三階。灰色の壁に囲まれた長い廊下。蛍光灯ではなく、天井に埋め込まれた白い照明が均一な光を落としている。空気は清浄だが冷たく、病院と軍事施設を掛け合わせたような無機質さだった。すれ違う人間は全員、神崎と同じ黒いコートか、白衣を着ている。誰もが足早で、俺を一瞥しては目を逸らした。
見慣れないものを見る目。あるいは——触れてはいけないものを避ける目。
「ここは」
「鎮守庁関東管区本部。蝕禍対応を管轄する政府直属機関です。表向きには存在しない」
表向きには存在しない。そんな組織が、都心の地下に堂々と構えている。今朝まで知りもしなかった世界の裏側に、俺は今、足を踏み入れている。
廊下を進んだ先の小部屋に通された。パイプ椅子とテーブルだけの、取調室のような空間。壁の一面が鏡になっている。マジックミラーだろうか。誰かが向こう側から見ている。
神崎がテーブルの向かいに座った。端末を操作しながら、淡々と質問を重ねていく。
「佐倉遼太郎。三十二歳。丸紅食品株式会社営業部所属。未婚。東京都杉並区在住。これまでに異能の自覚、あるいは異常な身体感覚を経験したことは」
「ない。……今夜が初めてだ」
「血縁者に異能者は」
「知らない。両親は——普通の人間だ。少なくとも俺が知る限り」
神崎のペンが止まった。端末の画面を見つめ、眉をわずかに寄せる。何かが引っかかったような表情。だが、それ以上は追及せず、次の質問に移った。
「右腕の異変が起きた瞬間の感覚を、できるだけ正確に」
正確に。あの感覚を言葉にできるのか。骨の髄を焼く熱。細胞が書き換えられる違和感。触れただけで、あの化け物の上半身が消えた。触れただけで。
「……熱かった。腕の中で何かが脈打って、指先に向かって走った。痛みとは違う。もっと——根っこから変わるような感覚だ。そのあとは覚えていない。気づいたら、あいつの上半身がなくなっていた」
「触れただけで消滅。崩壊型の異能か、それとも——」
神崎が独り言のように呟き、端末に何かを打ち込んだ。
沈黙が落ちた。蛍光灯の微かな唸り。空調が空気を循環させる低い音。その静けさの中で、俺はようやく状況を飲み込みつつあった。
化け物は実在する。それを狩る人間がいる。そして俺の右腕には、化け物を消し飛ばす力が宿った。
三十二年間の空洞に、いきなり劇薬を流し込まれたような感覚だった。何者でもなかった自分に、望んでもいない「何か」が押しつけられている。
「神崎さん」
「凛でいい。ここでは階級で呼びます。呼称は追って」
「——凛さん。俺は、帰れるのか」
二度目の問い。車内では沈黙で返された言葉を、もう一度ぶつける。今度は逃げないでくれ、という祈りに似た気持ちで。
凛がペンを置いた。初めて、業務的ではない目で俺を見た。
「正直に言います」
その声に、ほんの微かな翳りがあった。
「あなたの異能出力は、私たちの想定を大きく超えています。制御できない異能は、あなた自身にとっても周囲にとっても脅威です。現時点で、日常生活への復帰は推奨できない」
推奨できない。不可能とは言わなかった。だがその言い方は、不可能よりも残酷だった。形式上は選択肢があるように見せて、実質は一つしかないと告げている。
「明日、上層部から正式な通達があります。それまではこの施設内で待機してください」
凛が立ち上がり、ドアに向かった。取っ手に手をかけて、一度だけ振り返る。
「佐倉さん。一つだけ」
「……何だ」
「あなたの力には、名前がまだない。けれど私たちの間では、ああいう——触れたものの構造を根本から崩壊させる能力を」
少しだけ間があった。
「『崩理』と呼んでいます。理を崩す力。それがあなたの右腕に宿ったものの正体です」
崩理。
ドアが閉まった。一人きりの小部屋に、その二文字だけが残った。
パイプ椅子に座ったまま、天井を見上げる。白い照明が目に痛い。ポケットからスマホを出した。圏外。当然か。ここは地下三階の、存在しない政府機関だ。
画面に残った最後の通知を見る。
滝沢課長——『明日のアポ準備よろしく』。
明日のアポ。松田屋。差し替えた資料。季節限定パッケージのご案内。
もう、そこには戻れない。
スマホをテーブルに伏せた。右腕が、また微かに疼いた。崩理。理を崩す力。三十二年間、空洞だった場所に押し込まれたそれは、帰り道を塞ぐ瓦礫のように重たかった。