第1話
第1話
朝七時十二分の中央線は、いつも通り人間を圧縮していた。
吊り革を握る右手の感覚が薄い。隣のスーツの肩が鎖骨に食い込んでいるが、もう痛みすら感じなくなっている。三十二歳、佐倉遼太郎。中堅食品メーカー・丸紅食品の営業部で六年目。この満員電車に揺られる朝が、もう二千回は繰り返されたはずだ。
車窓の向こうに、四月の朝日が薄いビル群を照らしている。桜はとっくに散って、街路樹の緑が目に眩しい。けれど車内の空気は湿っぽく、制汗剤と缶コーヒーの匂いが混じり合って、季節感などどこにもなかった。
新宿で人の塊が押し出され、わずかにできた隙間に身体をずらす。ポケットの中でスマホが震えた。営業部のグループチャット。課長の滝沢からだ。
『佐倉、今日の松田屋さんアポ、資料差し替えといて。先方の部長が替わったらしい』
了解です、と片手で打つ。差し替える資料の中身なんて、相手の名前が変わるだけだ。提案内容は三ヶ月前と同じ。売れ筋の冷凍食品ラインナップと、季節限定パッケージのご案内。判で押したような仕事を、判で押したように繰り返す。
電車が御茶ノ水を過ぎたあたりで、向かいに立つ同年代のスーツ姿の男と目が合った。疲れた顔。たぶん俺も同じ顔をしている。視線を逸らして、つま先を見た。三日前に磨いた革靴に、もう擦り傷がついていた。
別に、不満があるわけじゃない。
給料は平均的だし、上司は理不尽ではないし、休日はちゃんとある。ただ——何もない。胸の内側に、季節が巡っても埋まらない空洞がある。それが何なのか、三十二年かけても分からなかった。
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「佐倉さん、今期もお世話になります」
松田屋の新任部長に名刺を差し出しながら、口角を持ち上げた。営業スマイル。表情筋が覚えている動作を、脳を経由せずに再生する。
「いえいえ、こちらこそ。御社には長いことお引き立ていただいてますので」
嘘じゃない。嘘じゃないが、本心でもない。この会話のどこにも俺個人の感情は乗っていなかった。交換可能な部品としての応答。俺じゃなくても誰でもできる仕事を、俺がやっているだけだ。
昼は会社近くのコンビニで幕の内弁当を買った。四百八十円。いつもの席——給湯室の隅のパイプ椅子に座って、割り箸を割る。
「遼太郎、聞いた? 三上、来月から大阪支社の課長だって」
同期の渡辺が缶コーヒーを片手にやってきた。三上。同期入社で、営業成績がいつもトップだった男だ。
「へえ、すごいな」
「すごいなって、お前もうちょっと何かないの。同期が出世してんだぞ」
「いや、素直にすごいと思ってるよ。三上は昔から要領よかったし」
渡辺が呆れたような顔をした。その反応も見慣れている。俺には野心がない——正確には、野心を向ける先が見つからない。出世したいとも、独立したいとも、何かを成し遂げたいとも思えない。ただ日々をこなしている。三十二年間、ずっとそうだった。
退勤後、いつものジムに寄った。
ベンチプレスのバーを握ると、ほんの少しだけ頭が空になる。八十キロを十回三セット。筋繊維が軋む感覚だけが、自分が物理的にここにいる証明になる。鏡に映る自分の身体は、それなりに鍛えている方だと思う。でもこの筋肉を何のために使うのか、答えは出ない。
シャワーを浴びて外に出ると、夜の九時を回っていた。四月の夜風がまだ冷たい。濡れた髪から水滴が首筋を伝い、運動後の火照った肌に小さな震えが走る。スマホの通知を確認する。滝沢課長から「明日のアポ準備よろしく」。母親から「たまには連絡しなさい」。それ以外は、何もない。
駅までの近道——ビルとビルの間を抜ける裏路地に入った。このルートを使うのはいつものことだ。街灯が一本、蛍光色の光を落としている。その先は暗い。
足を踏み入れて、三歩。
空気が変わった。
温度じゃない。湿度でもない。空気の「質」が変わった、としか言いようがなかった。喉の奥に鉄錆のような味が広がる。ジムで酷使した身体の疲労感が、一瞬で吹き飛ぶほどの違和感。
暗がりの奥で、音がした。
くちゃり、と。
何かが——何かを咀嚼している、湿った音。粘膜と粘膜が擦れ合うような、生理的な嫌悪を呼び起こす響きだった。
目が暗さに慣れるにつれて、輪郭が見えてきた。人の形をしている。しかし、人ではない。しゃがみ込んだそれの足元に、スーツの切れ端と、革靴が転がっていた。
靴の片方が、こちらを向いている。三日前に磨いたばかりのような、黒い革靴。今朝、電車で見た自分の靴と同じだった。
脳が理解を拒否している。けれど身体は理解していた。足が竦む。背筋を氷の指が這い上がるような悪寒。声が出ない。
それが、こちらを振り向いた。
顔はなかった。人の頭部があるべき場所に、裂けた空洞がある。闇を凝縮したような黒。その空洞の奥から、こちらを見ている何かの気配だけが伝わってくる。
逃げろ、と本能が叫ぶ。
足が動かない。
路地の奥は行き止まりだ。背後——振り向く余裕すらなかった。異形が立ち上がった。二メートルを超える身長。腕が四本ある。うち二本が地面を引きずるほど長く、先端が鉤爪のように曲がっている。
一歩、こちらに踏み出した。
アスファルトがその足元で軋む。重い。重量のある「何か」が、確かにそこにいる。幻覚なんかじゃない。
もう一歩。
距離が三メートルを切った。鉄錆の味が濃くなる。鼓膜の奥で心臓の音がうるさい。膝が笑っている。このまま動けなければ、あの革靴の持ち主と同じ末路を辿る。分かっている。分かっているのに——
ドクン、と。
心臓ではなかった。
右腕の、肘から先。皮膚の下で何かが脈打った。熱い。骨の髄を焼くような熱が、指先に向かって駆け上がっていく。痛みじゃない。もっと根源的な、細胞の一つ一つが別のものに書き換えられていくような——
異形の鉤爪が振り下ろされる。
遼太郎の右腕が、黒い光を纏った。
視界が白く弾けた。
衝撃。轟音。路地全体が揺れる。
何が起きたのか分からない。気づいた時には、異形の上半身がなかった。肩から上が——消えていた。断面すらない。ただ、そこに在ったものが「なくなって」いた。
残された下半身が、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。黒い煤のような粒子に分解されて、数秒で路地の空気に溶けた。
静寂が戻る。
遼太郎は自分の右腕を見下ろした。黒い光はもう消えている。だが腕の感覚がおかしい。指先から肩まで痺れて、自分の腕じゃないみたいだ。
そして——視界の端に映った光景に、息を呑んだ。
路地の壁が、えぐれていた。コンクリートブロックが拳三つ分ほどの幅で消失し、その奥の配管が剥き出しになっている。足元のアスファルトは半径一メートルほどが融解し、靴底にべったりと張り付いていた。
俺が、やったのか。
震えが止まらなかった。膝から力が抜けて、その場にへたり込む。掌を見る。いつもと同じ、何の変哲もない手。ベンチプレスのバーを握るために分厚くなったタコがある、営業マンの手だ。
この手で——あの化け物を、消した?
遠くでサイレンの音が聞こえた。パトカーか、救急車か。路地の入り口から風が吹き込んで、鉄錆の匂いを薄めていく。冷たい夜気が汗で濡れたシャツを通り抜けて、初めて自分が全身びっしょりと汗をかいていたことに気づいた。
その時、路地の反対側——行き止まりの壁の上から、人影が降りてきた。
三メートル近い高さから音もなく着地する。猫のようなしなやかさだった。
黒いコートに身を包んだ女。まっすぐな黒髪が夜風に揺れている。年齢は俺と同じか、少し下か。整った顔立ちに感情の色が薄い。ただし、その目だけが鋭く光っていた。
女は崩壊した路地を一瞥し、足を止めた。
えぐれた壁。融解したアスファルト。蝕禍の痕跡が煤のように漂う空気。それらを順番に確認して、最後に遼太郎を見た。
「——単独で上位蝕禍を瞬殺?」
独り言のような呟き。だがその声には、明確な動揺が滲んでいた。
「こんな出力、記録にない」
女が一歩、近づいてくる。コートの内側に、何かの紋章が刺繍されているのが見えた。
「佐倉遼太郎さん。あなたの右腕に起きたことについて、話を聞かせてもらう必要がある」
俺の名前を知っている。
混乱する頭で、一つだけ確かなことがあった。
三十二年間、何者でもなかった日常は——たった今、終わった。