第2話
第2話「金の色なき銃口」
銃口は動かない。女の構えには無駄がなく、引き金にかかった人差し指の第一関節が白んでいるのが見えた。本気だ。この距離、この角度。俺が少しでも動けば撃つ。
同業者の匂いがする——いや、違う。もっと厄介なものだ。俺たち裏の人間は、金で動く。だがこの女の目には金の色がない。使命、あるいは義務。そういう類の光だった。
「班長」
背後の男が再び声をかけた。女は銃口を俺に向けたまま、わずかに顎を引いた。
「残留霊素、急速に減衰中。魔喰いの痕跡は完全に消えます。現場保全を——」
「先にこっちだ」
女が遮った。短い言葉だった。それだけで背後の気配が引き締まるのがわかる。統率が取れている。軍隊式だ。
「看破眼の覚醒反応を拾ったのは六分前。到着まで四分。つまりあなたは二分で中級魔を単独撃破した。——素人が」
素人。否定はできない。あの化物に関しては、俺は完全に素人だった。
「名前は」
「……灰島蓮司」
答えたのは、沈黙を続けるメリットがないと判断したからだ。銃口を向けられている状況で嘘をつく意味もない。ここで撃たれるなら名前を隠しても同じだし、撃たれないなら情報は後からいくらでも取られる。
「灰島蓮司」女が復唱した。「裏社会では掃除屋。直近三年で確認できる仕事は十一件。——私たちの管轄外だから放置していたけど、状況が変わった」
知っている。俺のことを、この女は事前に知っている。六分前に覚醒反応を拾ったと言った。だが経歴をここまで正確に把握しているのは、六分の調査ではできない。もっと前から——少なくとも俺がこの仕事を請けた時点で、監視対象に入っていたということだ。
「今夜の依頼主は新宿東組の若頭。標的は幹部の堂島修一。ここまでは合っている?」
答えなかった。答える義理がない。
女は気にしなかった。「堂島修一は三日前から行方不明。帳——私たちの組織はその失踪を魔喰いの兆候として捜査していた。あなたの依頼主が堂島の暗殺を発注したのは二日前。つまり」
「堂島はその時点で、もう人間じゃなかった」
俺が先に言った。女の眉がわずかに動いた。
「状況の把握が早い」
「仕事で飯を食ってきた。見たものを認めるのに時間はかからない」
嘘ではない。目の前の現実を受け入れられない人間は、裏社会では長生きできない。化物がいた。弾丸が効かなかった。左眼が変わった。それで化物を殺せた。起きたことをそのまま受け入れる。解釈や理屈は後でいい。
女が銃口をわずかに下げた。額から胸へ。まだ致命圏だが、即射の構えからは外れている。
「帳に来てもらう」
選択肢を与える言い方ではなかった。
「拒否したら」
「ここで処理する」
あっさりと言った。表情も変わらない。嘘の気配がなかった。この女は本当にここで引き金を引く。そういう種類の人間だと、同業者の勘が告げていた。
俺はナイフを床に置いた。刃には何もついていない。あの化物を斬ったはずなのに、血の一滴もなかった。
---
移動は速かった。雑居ビルの屋上からヘリではなく、地下駐車場に停めてあった黒いバンに押し込まれた。窓はない。俺の両側に黒い装束の男が一人ずつ座り、向かいに女——御影と呼ばれていた——が腕を組んでいる。
車内で手錠をかけられた。金属製ではない。白い紐のようなものが手首に巻きつき、結び目もないのに外れない。引っ張ると紐が僅かに発光し、手首に鈍い痺れが走った。
「霊縛帯。暴れなければ痛みはない」
隣の男が短く説明した。敵意はない。だが警戒は解いていない。
車は首都高に乗った。振動と旋回の感覚から方角を割り出す癖が自動的に働く。南へ。湾岸方面。二十分ほど走って車が停まり、外に出されると——海の匂いがした。潮と錆と、かすかに油の混じった東京湾特有の夜風だった。
目の前にあったのは、倉庫だった。東京湾岸に並ぶ物流倉庫の一つ。外見上は何の変哲もない。だが御影が倉庫のシャッターの前で左手を翳すと、金属の表面に文様が浮かび上がり、シャッターが音もなく開いた。
中は倉庫ではなかった。
地下へ続くエレベーター。壁面のコンクリートには、先ほど御影が浮かべたのと同じ文様が青白く刻まれている。左眼が反応した。文様の中に、あの赤黒い脈動と似た——しかしもっと精緻な——光の筋が走っているのが見えた。
「見えている?」
御影が聞いた。俺の左眼の動きを見ていたのだ。
「壁が光って見える。赤い線が走っている」
正直に答えた。隠す段階はとっくに過ぎている。
御影の後ろで、男の一人が小さく息を呑んだ。御影自身は表情を変えなかったが、組んでいた腕がわずかに解かれた。
「術式基盤の霊脈が見えるのは、起動から一時間未満の覚醒者には通常ありえない」
独り言のような呟きだった。だがその声にはわずかな緊張が滲んでいた。この女が緊張を見せたのは、銃を構えていたときでさえなかった。
エレベーターが停止し、ドアが開いた。長い廊下。蛍光灯ではなく、壁の文様自体が発光して通路を照らしている。青白い光が空気に溶けて、廊下全体がうっすらと水の底のように見えた。すれ違う人間は全員が黒い装束か白衣で、俺を見る目はどれも同じだった。——異物を見る目。
廊下の突き当たりの部屋に通された。窓のない六畳ほどの部屋。机と椅子が向かい合わせに二脚。取調室だ。呼び方が違うだけで、本質は警察のそれと変わらない。
御影が向かいに座った。腰の拳銃に手は置いていないが、いつでも抜ける位置にある。
「灰島蓮司。二十七歳。戸籍上は都内の便利屋業。実態は殺し屋ギルド『棺』の元構成員。十九歳で棺を離脱し、以降はフリーランス」
俺は表情を変えなかった。棺の名前が出たことにも、経歴を正確に把握されていることにも。驚きがなかったわけではない。ただ、驚きを顔に出す余裕がなかった。この女の前で表情を動かせば、それだけ情報を渡すことになる。
「棺は五年前に壊滅したとされている。あなたはその前に抜けているから直接の関係はない——表向きは」
「表向きも裏向きも関係ない。棺は終わった組織だ」
「それは後で確認する」
御影は机の上にタブレットを置いた。画面に映っているのは、俺の左眼のクローズアップ写真。虹彩の中に赤黒い光の環が写っていた。いつ撮られた。車内か。
「看破眼。魔の本質——核筋を視る力。帳の記録では過去二百年で確認された保持者は四人。直近の保持者は六十年前に死亡している。あなたで五人目」
五人。二百年で五人。途方もなく少ない数字だ。
「帳はあなたに二つの選択肢を提示する」
御影の目が、まっすぐに俺を射抜いた。
「一つ。帳の管理下に入り、看破眼を運用する。報酬、身分保障、医療支援を提供する。二つ。——この場で記憶を消去し、能力を封印する。ただし封印後の生存率は保証できない。看破眼の覚醒が不可逆である以上、封印は肉体への負荷を伴う」
記憶の消去。能力の封印。できるのか、そんなことが。だがこの女の口調には、できない約束をする軽さがなかった。
「選ぶ前に一つだけ教えろ」
「何」
「あの化物——魔喰いと呼んだな。あれは何だ。この街に、あと何体いる」
御影は数秒の間を置いた。答えるかどうかを迷ったのではなく、どこまで開示するかを選んでいる沈黙だった。
「東京二十三区内で帳が現在追跡中の魔喰いは、十七体」
十七。あれが、あと十七いる。堂島の身体を乗っ取り、黒い霧を纏い、九ミリ弾を笑いながら受け止めたあの化物が。俺が左眼を覚醒させなければ殺されていた相手が、この街の地下に十七体。
俺は天井を見上げた。コンクリートの向こうに東京の夜がある。ネオンと雑踏と、ビルの谷間を歩く無防備な人間たちの群れ。そしてその隙間に、あの黒い霧が潜んでいる。
「——決める前に、もう少し話を聞かせてもらう」
御影の目がわずかに細まった。拒絶でも受諾でもない、その中間。殺し屋が交渉のテーブルにつく時の常套手段だ。情報をもらえるだけもらってから判断する。
「構わない。ただし」
御影が立ち上がった。
「帳が待てるのは二十四時間。それを過ぎたら、選択肢は一つになる」
部屋のドアが閉まり、鍵がかかる音がした。霊縛帯はまだ俺の手首にある。白い紐が微かに脈打っていた。左眼の奥で、あの赤黒い光の残像がちらついている。
二百年で五人目の眼。殺せない標的がいる世界。十七体の化物が潜む東京。
——そして、終わったはずの棺の名前を、この女が知っていた。
俺は椅子の背に体を預け、目を閉じた。左眼だけが閉じた瞼の裏で、壁に刻まれた術式の光を拾い続けていた。