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看破眼の掃除屋

第1話 第1話「午前一時十二分の階段」

第1話

第1話「午前一時十二分の階段」

歌舞伎町の裏路地は、夜が深くなるほど静かになる。

表通りのネオンが届かない一画。雑居ビルの非常階段を三階まで上がり、俺は廊下の暗がりで腕時計を確認した。午前一時十二分。依頼書に記された時刻まで、あと三分。

灰島蓮司。それが俺の名前で、裏では「掃除屋」と呼ばれている。汚れた部屋を綺麗にする——比喩でも何でもない。人ひとり消して、痕跡を拭う。それだけの仕事を、もう八年続けてきた。

今夜の標的は新宿一帯を仕切る暴力団の幹部、堂島という男だ。組の金に手をつけたらしい。裏切り者の始末。よくある話だ。依頼主は堂島の直属の上、組の若頭。報酬は前金で半分、仕事の確認後に残りの半分。いつも通り。

廊下の突き当たり、四〇三号室。堂島が女と使っている部屋だと聞いていた。ドアの前に立ち、耳を澄ませる。物音はない。サプレッサーを装着した拳銃を右手に、左手でピッキングツールを差し込んだ。

三秒でシリンダーが回る。

ドアを開けた瞬間、喉の奥にせり上がってきたのは——吐き気だった。

腐った肉を煮詰めたような臭いが、粘度を持って鼻腔に流れ込んでくる。胃液が逆流し、奥歯を噛み締めて堪えた。暗い室内に目を凝らす。カーテンの隙間から漏れる僅かなネオンの光。その薄明かりの中で、俺は天井を見た。

何かが、張り付いている。

人間だったもの。そうとしか言いようがなかった。スーツの切れ端がまだ貼りついた肉の塊が、天井の一面に広がっていた。関節があるべき場所が逆方向に折れ曲がり、露出した筋繊維が痙攣するように蠢いている。そしてその周囲を、黒い霧が漂っていた。霧というより、煙に似ている。だが煙にしては動きに意志があった。ゆっくりと旋回し、時折触手のように伸び、また元に戻る。

堂島か。あれが。

八年間、ありとあらゆる死体を見てきた。銃で撃たれた死体、刃物で刺された死体、火をつけられた死体、酸で溶かされかけた死体。だがこれは——これは、どのカテゴリにも入らない。

思考が追いつく前に、体が動いていた。右手の拳銃を構え、天井の肉塊に向けて二発。サプレッサー越しの乾いた発射音。

弾丸は肉塊の中心を通過し、天井のコンクリートに食い込んだ。

通過。すり抜けた。確かに当たったはずの弾丸が、あの肉の塊を素通りした。

三発目。今度は黒い霧の濃い部分を狙った。同じだ。弾丸は何の抵抗もなく霧を貫通し、壁に穴を開けただけだった。

背筋を冷たいものが走る。これは——殺せない。

俺の仕事道具は、人間を殺すために作られている。ナイフも、銃も、毒も、すべて人体の構造を前提にした道具だ。だが目の前のこれは、人体の構造をすでに逸脱している。

後退しようとした足が止まった。振り返ると、さっき入ってきたドアが黒い霧に覆われていた。霧が壁を這い、床を這い、部屋全体を少しずつ侵食している。窓も同じだ。退路が、ない。

天井の肉塊が動いた。ゆっくりと——しかし確実に、俺のほうへ近づいてくる。

冷静に考えろ。八年間生き延びてきたのは、腕がいいからじゃない。退路を確保してから仕事に入る。想定外が起きたら即座に撤退する。生存を最優先にする。その原則を守ってきたから今日まで生きている。

だが今、その原則のすべてが使えない。退路はない。想定外どころか、これは俺の知る世界の外にある。撤退先がない。

肉塊が天井から剥がれ落ちた。床に着地した衝撃で部屋が揺れ、崩れたテーブルの破片が散らばる。形が変わっていく。四本の脚のようなものが生え、頭部らしき膨らみがこちらを向いた。口はない。目もない。なのに、見られている。俺を認識している。それだけは確信できた。

拳銃を捨てた。効かないとわかった武器に固執するのは素人のやることだ。腰のホルスターからナイフを抜く。刃渡り十五センチの戦闘用。これも効くかどうかわからない。だが銃よりはましだ。少なくとも、手応えを確かめられる。

肉塊が跳んだ。信じられない速度だった。横に転がって回避し、すれ違いざまにナイフを振る。刃が肉に触れた感触——いや、触れていない。銃弾と同じだ。刃がすり抜けた。

実体がない。この化物には、実体がない。

二度目の突進をテーブルの残骸を蹴り上げて逸らし、壁際まで距離を取る。背中がカーテンに触れた。逃げ場はもうない。肉塊がゆっくりと間合いを詰めてくる。黒い霧が足首に絡みつき、靴の上から冷たさが染みてくる。体温を吸われているような感覚。指先の感覚が薄れ、握ったナイフの柄が遠くなる。

ここで死ぬのか。

八年間、何十人もの人間を殺してきた。いつか自分にも順番が来ることはわかっていた。だがこんな形でとは思わなかった。人間に殺されるなら、まだ納得できた。同業者か、標的の関係者か、依頼主の裏切りか。そういう死に方なら、この商売を選んだ時点で受け入れていた。

こんな——化物に喰われて終わるのは、話が違う。

黒い霧が膝まで這い上がってきた。肉塊が跳躍の体勢に入る。あと数秒。

その時だ。

左眼が、灼けた。

比喩ではない。眼球そのものが発火したかのような激痛が走り、視界の左半分が真っ白に弾けた。声にならない叫びが喉を裂き、反射的に左眼を押さえる。涙なのか血なのかわからない液体が指の間からこぼれた。頭蓋の内側を焼き鏝で抉られるような熱が脈打ち、膝が床を打った。

痛みは一瞬だった。だが一瞬の後に残った視界は、さっきまでとまったく違っていた。

左眼だけが、世界を変えて映している。

肉塊の中に、何かが見えた。赤黒い線。脈を打つように明滅する、一本の筋。化物の体の中心を縦に貫いて走るそれは、周囲の霧とは違い、はっきりとした輪郭を持っていた。

——あそこだけが、実体だ。

なぜそうわかったのか、説明できない。だが確信があった。あの赤黒い脈動だけが「在る」。残りの肉も霧もすべてまやかしで、あの一本の筋だけが、この化物の本体だ。

肉塊が跳んだ。三度目の突進。さっきまでなら避けるしかなかった。だが今は見えている。

殺し屋の反射が、思考より先に体を動かした。突進の軌道を半歩でかわし、すれ違いざまにナイフを突き出す。狙うのは、刃がすり抜けた肉の表面じゃない。その奥——赤黒い脈動の中心線。

刃が入った。

今度は、手応えがあった。

ナイフが脈動を断ち切る感触は、人間の肉を切る時に似ていた。確かな抵抗と、断裂する瞬間の振動。化物が絶叫した——音ではなく、空気の振動として。部屋全体がびりびりと震え、黒い霧が一瞬で膨張し、

そして——霧散した。

肉塊も、霧も、腐臭も。すべてが消えた。跡形もなく。残ったのは荒れた部屋と、砕けた家具と、天井と壁に食い込んだ俺の弾丸だけだった。

膝から力が抜けた。壁に背中を預け、荒い呼吸を繰り返す。左眼の痛みは引いている。だが視界はまだ——左眼だけが、壁の向こうの配管や、階下の人間の輪郭を、薄くぼんやりと透かして映していた。

何だ、これは。俺の眼に、何が起きた。

答えを考える暇はなかった。

壁が爆ぜた。部屋の東側の壁が内側に吹き飛び、粉塵の中から黒い装束の人影が三つ、四つ。手にしているのは銃ではない。札のようなものと、光を帯びた刃。

先頭の人物が粉塵を払い、俺を見た。女だ。二十代後半、切り揃えた黒髪。右手に青白く発光する短刀を握り、左手で札を構えている。その目が——俺の左眼を、正確に見据えていた。

女の背後から、男の声。

「班長、魔喰いの反応が消失しています。この部屋で……もう、いない」

女は答えず、俺の顔から視線を外さなかった。数秒の沈黙。部屋に散らばるガラスの破片が、女の短刀の青白い光を反射してちらちらと瞬いていた。そしてゆっくりと右手の短刀を下ろし、代わりに——腰の拳銃を抜いた。銃口が俺の額に向けられる。

「看破眼」

女がそう呟いた。聞いたことのない単語だった。

「あなたを殺すか、使うか」

女の声には感情がなかった。俺と同じ種類の声だ。仕事として人を殺せる人間の声。

「上が決める。——動かないで」

左眼が疼いた。銃口の向こうに立つ女の体の中に、赤黒い脈動は見えない。人間だ。だが普通の人間でもない。

裏社会のさらに底に、まったく知らない世界が広がっている。

それだけが、今夜わかったことだった。

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