第3話
第3話
触れろ。
その音が本当に言葉だったのか、レンには判断がつかなかった。暗闇の中で六時間以上を過ごし、落下の衝撃で身体は軋み、精神は削られている。幻聴であっても不思議はなかった。
だが獣の瞳は揺るがなかった。赤黒い光がレンを射抜いている。敵意ではない。懇願でもない。もっと乾いた、事実だけを突きつけるような眼差しだった。お前に選択肢はないのだと、その瞳が言っていた。
レンは周囲を見回した。全ての通路は崩落で塞がっている。唯一の脱出口は瓦礫の上部にある細い亀裂だが、そこに辿り着くには二メートル以上の瓦礫をよじ登る必要がある。Eランクの体力で、落下の負傷を抱えたまま。成功する確率は低くない——が、その先に何があるかは分からない。別の行き止まりかもしれない。
視線を獣に戻した。
魔法陣の紋様が床面を覆い、その全てがこの獣に収束している。封印。拘束。誰かがこの生き物を、ここに閉じ込めた。長い時間をかけて衰弱させ、鎖と術式で二重に縛り付けた。肋骨の浮き出た体躯は、その年月を無言で語っていた。
レンは一歩踏み出した。
鎖の到達圏に入る。足元の魔法陣が微かに脈動し、靴底を通じて振動が伝わった。心臓の鼓動に似た、緩やかな律動。獣が首を持ち上げる気配がした。鎖が鳴る。だが攻撃の兆候はない。
三メートル。二メートル。獣の呼気が顔にかかる距離まで近づいた。硫黄と血の匂いが濃くなる。間近で見る獣の顔は、狼よりも精悍で、竜のような鱗が顎の下から首筋にかけて散在していた。既知の魔物図鑑のどの種にも該当しない。未登録種——ギルドが把握していない、あるいは意図的に記録から抹消された存在。
獣の鼻先が、レンの左手に向いていた。
何の根拠もなかった。合理的な判断ではなかった。だがレンは、三年間ずっと合理的に生きてきた。合理的にEランクを受け入れ、合理的に掃除屋を続け、合理的に母の捜索を諦めかけていた。その合理性が、今ここで何の役に立つ。
左手を伸ばした。
獣の鼻先に触れた瞬間——世界が白く弾けた。
灼熱が左手の甲から侵入した。触れたのは毛皮と鱗の境目、驚くほど冷たい表面だったはずだ。なのに皮膚の下を溶岩が逆流するような熱が、指先から手首、前腕、肘へと一息に駆け上がった。
叫んだかどうか覚えていない。視界が白い光に塗り潰され、聴覚が遮断された。痛みだけが世界の全てになった。骨の髄まで焼かれるような、だが同時に骨そのものが作り変えられるような、矛盾した感覚。左手を引こうとしたが動かない。獣の鼻先に張り付いたように離れなかった。
白い光の中で、何かが見えた。
紋様だ。床に刻まれた魔法陣と同じ幾何学紋が、レンの左手の甲の上に浮かび上がっていく。皮膚の表面ではない。もっと深い層——血管の走行に沿うように、光の線が交差し、円を描き、文字を刻んでいく。
契約紋。
その単語がどこから浮上したのか分からなかった。ギルドの教本で読んだことがある。魔物との精神接続を確立する上位テイム技術——Bランク以上のテイマーが、専用の触媒と術式を用いて行う高等技能。成功率は熟練者でも三割を切る。失敗すれば魔力暴走で術者が死ぬ。
Eランクのレンに、その適性があるはずがなかった。
だが灼熱は止まらなかった。左手の甲に刻まれていく紋様は、教本の図版で見たどの契約紋とも形が違う。もっと複雑で、もっと古い。床の封印術式と共鳴するように脈動し、二つの紋様が同じ周波数で明滅を繰り返している。
時間の感覚が溶けた。十秒だったのか、十分だったのか。灼熱が不意に収束した。左手が獣の鼻先から離れ、レンは後方によろめいた。膝から力が抜け、石の床に崩れ落ちる。
荒い呼吸が反響した。自分のものだ。左手を顔の前に持ち上げる。端末の光はいつの間にか消えていたが、見えた。左手の甲に刻まれた紋様が、それ自体が淡く発光していたからだ。
三重の円。その内側に走る直線と曲線。見たことのない文字が円周に沿って並んでいる。床の魔法陣と同じ書体だ。光は脈拍に合わせて明滅し、やがて徐々に沈静化していった。だが紋様そのものは消えなかった。皮膚に焼き付いたように、薄い銀色の痕跡として残っている。
頭の中に、異物があった。
思考とは異なる何か。感情とも違う。もっと原始的な——匂いに似た情報。湿った石の匂い。錆びた鉄の味。自分の四肢を縛る圧迫感。そして果てしない疲労。それは自分のものではなかった。
獣の感覚だった。
レンは顔を上げた。暗闘の中で、獣の赤黒い瞳がこちらを見ている。さっきまでとは何かが違った。瞳の奥にあった警戒が薄れ、代わりに——認識がある。レンを脅威として、あるいは無関係な存在として見ていた視線が変わっていた。知っている者を見る目。繋がった者を見る目。
契約が成立していた。
「嘘だろ」
声が掠れた。ギルドの適性検査で、テイム適性はE——最低値だった。評価官の言葉を覚えている。「魔物との共感回路が未発達。テイマー適性はありません」。それがEランク判定の主要因の一つだった。
なのに今、左手には契約紋が刻まれ、頭の中には獣の感覚が流れ込んでいる。矛盾している。だがこの灼熱は幻覚ではないし、左手の紋様は消えていない。
立ち上がろうとして、膝に力が入らなかった。落下の負傷と、契約紋の発現による消耗が重なっている。回復薬に手を伸ばしかけて、止めた。二本しかない。一本はひびが入っている。今ここで使うべきではなかった。
獣が低い声を出した。唸りではない。もっと小さな、喉の奥を鳴らすような音。頭の中の異物感が反応する。言葉にはならない。だが意味の輪郭のようなものが浮かぶ。
疲弊。渇き。そして——解放への希求。
レンは獣を見た。鎖に繋がれ、魔法陣に封じられ、肋骨が浮き出るまで衰弱した巨大な漆黒の獣。誰かがこの生き物をここに捨てた。あるいは封じた。理由は分からない。だが今、この獣とレンは契約で繋がっている。
「出口を、探す」
獣に向けて言ったのか、自分に言い聞かせたのか。レンは壁に手をつき、身体を引き起こした。左手の紋様が脈動するたびに、微かな熱が腕を巡る。不快ではなかった。むしろ——落下の痛みが少しだけ遠退いている気がした。
端末の電源を入れ直した。画面が点灯する。階層表示は変わらず第14層。通信は圏外。だがさっき見落としていたものがあった。端末のステータス欄——魔力測定値が、桁を一つ間違えたような数値を示していた。
Eランクの平均魔力値は80から120。レンの直近の定期測定値は94。
今、端末が表示している数値は、1300を超えていた。
計器の故障だと思った。落下の衝撃で端末が壊れたのだろう。そうでなければ説明がつかない。だがその数値は、レンが見ている間にも微かに変動していた。契約紋の脈動に合わせて、上下に揺れている。
獣から、何かが流れ込んでいる。
契約紋を通じて、獣の魔力がレンの身体に注がれている。衰弱した獣に残されたわずかな力が、契約の回路を通じてレンに分配されている。代償なのか、副産物なのか、あるいは獣が意図的にそうしているのか——分からない。分からないが、身体が変わり始めていることだけは確かだった。
膝の震えが止まっていた。さっきまで力が入らなかった脚が、今は普通に立てている。呼吸が楽になった。落下の衝撃で鈍っていた視界が鮮明さを取り戻し、暗闇の中でも輪郭が拾えるようになっている。
レンは自分の左手を見た。銀色の紋様が静かに光っている。
獣が鎖を引いた。金属の軋みが響く。その視線は、先ほど獣が示した瓦礫の上部の亀裂——細い脱出口に向いていた。頭の中に流れ込む獣の感覚が、かすかに変質する。疲弊と渇きの底に、新しい感情が混じっていた。
期待。
レンは亀裂を見上げた。瓦礫の壁を二メートル以上登り、人一人がやっと通れる隙間に身体をねじ込む。さっきまでは無謀だと思えた行程が、今は——できる気がした。根拠のない確信ではない。指先に力が入る。足の裏で地面を掴める。身体が別人のように軽い。
だがレンは、亀裂ではなく獣を見た。
自分だけが逃げることはできる。この軽くなった身体なら、おそらく亀裂を抜けて上層に辿り着ける。だが獣は鎖に繋がれている。魔法陣に封じられている。レンが去れば、この暗闇にまた一匹で取り残される。
契約紋が脈動した。獣の感覚が流れ込む。そこに悲壮さはなかった。諦めですらなかった。ただ静かな事実の認識——自分はここから動けない、と。
「……待ってろ」
レンは言った。獣に背を向け、瓦礫に手をかける。
「出口を見つけたら、戻る。お前の鎖も、なんとかする」
約束ではなかった。Eランクの掃除屋が、未登録種の封印を解くなど不可能に近い。だが左手の紋様が熱を帯び、指先に力が満ちていた。三年間、何も変わらなかった日々に、初めて亀裂が入った感触があった。
瓦礫を登り始めた。手がかりを掴み、身体を引き上げる。驚くほど軽い。三年間掃除屋として鍛えた最低限の体力に、契約紋から流れ込む力が上乗せされている。別人の身体だった。
亀裂に手が届いた。冷たい風が指先を撫でる。上層の空気だ。
身体をねじ込む直前、レンは一度だけ振り返った。暗闇の底で、赤黒い二つの瞳がこちらを見上げていた。