第2話
第2話
二つの瞳が、端末の光を吸い込むように輝いていた。
琥珀でも金でもない。炎の芯のような、赤黒い光。それが瞬きもせずにレンを見据えている。身体中の毛穴が一斉に開いた。背筋を駆け上がる寒気は、本能が発している最も原始的な警告だった。
——動くな。
思考より先に身体が従った。短剣を握る指先だけが、意志とは無関係に震えている。浅層の蛙蟲に襲われたとき、苔鼠の群れに囲まれたとき、一度としてこんな反応は出なかった。これは恐怖の質が違う。捕食者の前に立った獲物の、逃走すら許されない硬直だ。
数秒が永遠のように引き伸ばされた。だが——来ない。
襲撃が、来ない。
唸り声は続いている。だがそこに攻撃の意志は感じられなかった。むしろ呼吸そのものが苦しげな、絞り出すような低音だ。そして再び聞こえた金属音。鎖だ。重い鎖が石の床を擦る音が、その生き物の身じろぎに合わせて断続的に響いている。
繋がれている。
理解が追いついた瞬間、硬直がわずかに緩んだ。レンは端末を掲げたまま、一歩も動かずに目を凝らした。闇に慣れ始めた視界が、少しずつ輪郭を拾い出す。巨大だった。通路の幅いっぱいに蹲る黒い体躯。四肢にはめ込まれた鉄の枷。そこから伸びる鎖が壁面の杭に固定されている。
だが今は、この存在から離れることが先だった。
レンは後退した。壁伝いに、音を立てないように。赤黒い瞳が首の動きに合わせてレンを追ったが、鎖がそれ以上を許さなかった。金属の軋みが一度だけ高く鳴り、それきり静かになった。
背後の崩落を再確認した。瓦礫の山は天井まで隙間なく積み上がっていた。指を差し込む余地すらない。端末の光で瓦礫の組成を見る。第5層の乾いた石材と、もっと古い——黒みがかった重い石が混在している。構造の異なる複数の階層が同時に崩落した痕跡だ。人力でどうにかなる量ではなかった。
レンは反対方向を見た。あの生き物がいる方角の、さらに奥。通路が続いている可能性がある。だがそのためには、鎖に繋がれたあの存在の脇を通り抜けなければならない。
「……他にないか」
壁面を手で探った。第14層の壁は第5層とはまるで違う。表面を覆う粘液の下に、硬い鉱物質の岩盤がある。指先がぬるりと滑るたびに、生温い感触が神経を逆撫でした。所々に走る亀裂は自然のものだが、どれも指が入る程度の幅しかない。隠し通路のような構造は見当たらなかった。
天井を見上げた。落ちてきた穴は——見えない。端末の光では届かないほど高い位置にあるか、あるいは崩落した瓦礫が塞いでしまったか。いずれにしても、九層分の高さを装備なしで登ることは不可能だった。
回復薬を確認した。二本。一本は落下時の衝撃で微かにひびが入っている。中身は漏れていないが、衝撃を与えればいつ割れてもおかしくない。
短剣の刃を端末の光にかざした。刃こぼれが三箇所。研ぎ直してもこれ以上は切れない。第14層の魔物を相手にするには、紙で岩を切るようなものだ。
手持ちは以上だった。型落ちの短剣。ひびの入った回復薬二本。通信圏外の携帯端末。そしてEランクの体力。
レンは壁に背をつけ、目を閉じた。思考を整理する。
出口は三つ考えられる。一つ、崩落した瓦礫を除去して上層へ戻る。不可能。二つ、第14層の正規ルートを辿り、階層間の昇降路を見つける。理論上は可能だが、第14層の地図はDランク以上にしか開示されていない。レンは構造を知らない。三つ、救難信号が届くエリアまで移動し、救助を待つ。通信が復帰する階層がどこかも不明だが、一般的に浅層に近づくほど通信は安定する。つまり上を目指すしかない。
結局、どの選択肢もあの通路の奥に進むことを要求していた。
レンは目を開け、暗闇の奥を見た。赤黒い光は、まだそこにあった。
意を決して歩き始めた。壁に片手をつき、もう片方で端末を掲げる。短剣は鞘に収めた。抜いたところで意味がない。あの体躯に型落ちの刃が通る道理はなかった。
近づくにつれ、空気の質が変わった。粘液の生温かさとは別の、乾いた熱。微かに焦げたような匂い。そして——足元に刻まれた紋様に気づいた。
端末を下に向ける。床の石に、幾何学的な文様が彫り込まれていた。円と直線、それに見たことのない文字の羅列。掃除屋として浅層で見てきた残留魔法陣とは複雑さが桁違いだ。文様は床一面に広がり、その中心に向かって収束している。
中心にいるのが、あの獣だった。
五メートルまで近づいた。鎖の到達圏を、距離で計算する。枷から壁の杭まで、おそらく三メートル。獣の体長を入れても、五メートルあれば届かないはずだった。
端末の光が、ようやくその全容を照らし出した。
狼に似ていた。だが大きさが違う。肩の高さだけでレンの胸に届く。四肢は太く、筋肉の輪郭が漆黒の毛皮の下にうねっている。だが——痩せていた。肋骨の形が浮き出ている。毛皮はところどころ剥げ落ち、灰色の地肌が覗いていた。枷の下の皮膚は擦り切れて赤黒く変色している。
衰弱している。それも、かなり長い間。
顔を上げると、赤黒い瞳と目が合った。敵意はなかった。怒りもなかった。ただ底知れない疲弊と、その奥にある微かな——知性の光。
この獣は、レンを見ている。観察している。品定めではなく、もっと別の何かを計るように。
「……お前も、閉じ込められたのか」
声に出したのは無意識だった。暗闇の中で自分の声を聞きたかっただけかもしれない。
獣は応えなかった。ただ長い息を一つ吐いた。その呼気に含まれた熱が、レンの頬まで届いた。獣の匂いが鼻腔を満たす。血と土と、それから微かに硫黄を思わせる刺激臭。生き物のものとは思えない体温だった。
レンは獣から目を離し、その周囲を観察した。魔法陣の紋様は獣を中心に放射状に広がっている。鎖は四肢だけでなく、首にも一本巻かれていた。どの鎖も魔法陣と接続するように床の溝に嵌め込まれている。封印だ。この魔法陣全体が、一つの巨大な封印術式として機能している。
誰がこんなものを作ったのか。ギルドの記録にも、第14層にこのような施設があるという記述はないはずだ。少なくともEランクに開示される情報には存在しない。
獣の向こう側に、通路の続きが見えた。魔法陣を迂回すれば通り抜けられる幅がある。レンは壁際を慎重に回り込み始めた。獣の視線が追ってくる。鎖は動かない。
通路の奥に進んだ。二十メートルほどで分岐があった。右は崩落で完全に塞がっている。左は——開いている。だが十メートルほど先で、再び崩落の瓦礫が通路を埋めていた。
行き止まり。
レンは引き返した。別の分岐を探した。三十分かけて周囲を探索したが、結果は同じだった。通じている通路は全て崩落で遮断されている。この区画は完全に孤立していた。
まるで、あの獣を閉じ込めるために、意図的に周囲を潰したかのように。
レンは魔法陣の前に戻った。膝をつき、端末の残り電力を確認する。あと六時間は持つ。だがそれが尽きれば、完全な暗闇の中で何もできなくなる。
獣が、かすかに首を動かした。
その視線の先を辿る。レンの背後——崩落した瓦礫の壁の上部に、見落としていた隙間があった。人一人がかろうじて身体をねじ込める程度の、細い亀裂。そこから吹き込む風は上層の匂いを含んでいた。
だが獣は、その隙間ではなく、レンの手元を見ていた。正確には——短剣の柄に触れている左手を。
そのとき、床の魔法陣がかすかに脈動した。レンの足元から獣の方向へ、光の波紋が一つだけ走る。淡い青白い光が紋様の溝を辿り、一瞬だけ獣の輪郭を浮かび上がらせた。偶然の残留魔力の放出か、あるいは——
獣が口を開いた。唸り声ではなかった。もっと静かな、喉の奥から絞り出すような音。それが人の言葉に聞こえたのは、暗闇の中で精神が消耗していたからだと、レンは後になって自分に言い聞かせることになる。
——触れろ。
鎖が軋んだ。暗闇の最奥で、狼とも竜ともつかない漆黒の巨獣が、痩せ細った身体を持ち上げ、レンに向かって鼻先を突き出していた。