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E級掃除屋と契約の黒獣

第1話 第1話

第1話

第1話

「次」

ギルド窓口の職員が、柊レンの顔を見もせずに言った。手元の端末を操作する指先すら、レンの方を向いていない。

レンは黙って列を離れた。三年間、この窓口で名前を呼ばれたことは一度もない。斡旋ボードに貼り出される依頼票の最低ランクはD。Eランクに回ってくるのは、正規の依頼ですらない残滓掃除——攻略済みの浅層に湧き直した雑魔を片付ける、日雇いの下請け仕事だけだ。

ギルド本庁舎のロビーは朝から混み合っていた。Bランク以上の攻略チームが中層の地図を広げ、作戦を練っている。装備の質が違う。纏う空気が違う。彼らの視界にレンは映らない。それは三年前から変わらない事実で、今さら傷つくような柔らかい場所は、とうに擦り切れていた。

斡旋ボード脇の端末に手動でログインし、残滓掃除の枠を確認する。第5層、魔石回収済み区画の残滓処理。報酬は四千クレド。装備の修繕費にも足りない額だが、選り好みをできる立場ではなかった。

申請ボタンを押す。即時承認。競合者はいない。この仕事を奪い合う人間など、このギルドには一人もいないのだから。

ロビーを横切る途中、見覚えのある革のジャケットが視界をかすめた。神代アキラ——かつてレンが所属していたパーティのリーダーだ。Cランク。中層攻略で名を上げ始めた、いわゆる「期待株」のハンター。二年前、レンを切ったときの台詞を、レンは正確に覚えている。

——お前がいると、全員が死ぬんだよ。

神代はレンに気づかなかった。気づいたとしても、声をかける理由がない。Eランクの掃除屋は、Cランクの攻略者にとって風景の一部ですらない。レンは目を逸らし、正面出口へ向かった。

装備庫で借り出したのは、型落ちの短剣と革の胸当て、それに回復薬二本。これがEランクに支給される標準装備だ。刃は研いでも鈍く、胸当ての留め具は二箇所が錆びている。それでも浅層の残滓——第5層に湧く蛙蟲や苔鼠の類なら、これで足りる。足りなければ逃げればいい。逃げることだけは、三年間で嫌になるほど上手くなった。

ダンジョン入口は本庁舎の地下二階にある。重い隔壁扉を抜けると、空気が変わる。地上の乾いた空調とは違う、湿り気を帯びた冷たい風が頬を撫でた。壁面を覆う苔が淡く発光し、青白い光が足元を照らしている。ダンジョン特有の、古い石と水の匂い。三年間嗅ぎ続けた匂いだが、慣れることはなかった。

第1層から第5層までは既知の攻略済み区画だ。魔物の発生密度は低く、通路の構造もギルドの地図通り。浅層を掃除屋が一人で歩くことに危険はほとんどない——はずだった。

第5層に降りると、いつもと空気が違った。

苔の発光が弱い。通常、第5層の苔は第3層より明るく光る。魔石回収後に残留魔力が苔に吸収されるからだ。だが今日は薄暗い。壁面の苔がところどころ黒ずんで枯れている。

「……変だな」

独り言が反響した。第5層は天井が低い。幅三メートルほどの通路が格子状に走り、等間隔で小部屋が並ぶ構造だ。蛙蟲の巣穴があるはずの南東区画へ向かいながら、レンは足元を注意深く見た。

床石の継ぎ目に、髪の毛ほどの亀裂が走っている。

これは報告書にはなかった。第5層は基盤層——構造が安定していることが公式に確認された階層だ。亀裂が生じるなど、あり得ない。少なくとも、ギルドの構造調査ではそうなっている。

レンは短剣を抜き、切っ先で亀裂をなぞった。乾いた石の感触。だが奥から、微かに風が吹き上がっている。亀裂の下に空間がある。

立ち止まるべきだった。引き返してギルドに報告すべきだった。Eランクの掃除屋が構造異常を発見した場合の手順は明確に定められている——現場を保全し、直ちに撤退、窓口に口頭報告。

だがレンは動かなかった。亀裂の先から吹き上がる風に混じって、かすかな音が聞こえたからだ。

水の音ではない。風の音でもない。何か低い、腹の底に響くような振動。第5層には存在しないはずの、重い生き物の気配だった。

母を思い出したのは、そのときだ。

柊ミサキ。Bランクハンター。七年前、第27層の攻略中に消息を絶った。ギルドの記録では「第27層攻略中に遭難、死亡認定」とだけ記されている。遺体は見つかっていない。遺品も回収されていない。捜索は二週間で打ち切られた。Bランク一人の喪失に、ギルドが割ける資源は限られている。

レンがハンターになったのは、母を探すためだ。ダンジョンの奥に、まだ何かが残っているかもしれない。手がかりが、一つでも。そう思って適性検査を受け、突きつけられたのがEランクの烙印だった。

第27層はおろか、第10層にすら自力では到達できない。この三年間、レンが見つけた母の痕跡はゼロだ。地図の上では、母が消えた場所は遥か深層にある。レンが掃除している第5層とは、文字通り世界が違う。

それでも、この亀裂の向こうから聞こえる振動には、説明のつかない引力があった。

一歩、踏み出した。

床が軋んだ。

足裏に伝わる振動が変わった瞬間、レンは悟った。遅かった。亀裂が一気に広がり、半径三メートルほどの床石が蜘蛛の巣状に砕ける。つかまるものを探して手を伸ばしたが、壁は遠く、天井は低く、足元にはもう何もなかった。

落ちた。

暗闇が喉元まで迫るような密度で包み込んできた。第5層の青白い苔の光が頭上で小さくなり、やがて消えた。風が耳元で唸る。体が回転している。時間の感覚がなかった。二秒か、十秒か。

背中から叩きつけられた。

衝撃が背骨を走り、肺の空気が一瞬で絞り出される。口から声にならない呻きが漏れた。革の胸当てが背面の衝撃をわずかに吸収したが、それでも視界が明滅した。全身が痺れている。指先の感覚が戻るまで、レンは仰向けのまま動けなかった。

苔の光はない。完全な暗闇だ。

手探りで短剣を確認した。腰の鞘から外れていない。回復薬——胸ポケットに手を当てる。瓶が二本、割れずに残っている。それだけが、今レンが持っている全てだった。

身体を起こし、壁に背をつけた。指先で壁面に触れる。湿っている。第5層の乾いた石壁とは質感が違う。ざらついた表面に、苔ではない何かがこびりついている。粘液のような、生温かい感触。

携帯端末の画面を点けた。薄い光が周囲を照らす。端末の階層測位が数値を弾き出すまで数秒かかった。

第14層。

数字を二度見た。三度見た。第5層から第14層への直通崩落——九層分の落差。Eランクの装備で、Eランクの体力で、生きている方が異常だった。おそらく途中の空洞や地下水脈が落下の衝撃を段階的に分散したのだろうが、それは幸運とは呼べない。第14層はDランクパーティでも苦戦する中層域だ。Eランクが単独で生存できる場所ではない。

端末の通信欄には「圏外」の二文字。ギルドへの救難信号は届かない。

レンは壁に手をつき、立ち上がった。膝が震えている。恐怖ではなかった。落下の衝撃で筋肉が痙攣しているだけだ——と、自分に言い聞かせた。

通路は一本道だった。崩落した瓦礫が背後を塞いでいる。戻る道はない。進む以外の選択肢は、ここで座り込んで死を待つことだけだ。

一歩、また一歩。端末の光を頼りに、暗い通路を進んだ。壁面の粘液が、足音を吸い込むように静けさを作っている。自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえた。

そして、それは唐突に聞こえた。

低い、地鳴りのような唸り声。

壁を振動させるほどの重さを持った、生き物の呼吸だった。通路の奥——端末の光が届かない暗闇の向こうから、途切れることなく響いてくる。大きい。レンがこれまで浅層で掃除してきた蛙蟲や苔鼠とは、根本的に次元の違う存在が、そこにいる。

足が止まった。

逃げ場はない。背後は崩落した瓦礫。左右は壁。前方に、何かがいる。

端末を高く掲げた。薄い光が闇を数メートルだけ押し返す。その境界線の向こうで、何かが動いた。鎖の軋む金属音。重い身じろぎ。そして——光を反射する、二つの瞳。

レンは息を呑んだ。

暗闇の最奥に、巨大な影が蹲っていた。

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