第2話
第2話
夜明けは、血の色をしていた。
秋嵐が去った翌朝、砦ヴォルザークの東壁に立つ歩哨は、街道の南から立ち昇る土煙に最初に気づいた。朝靄を裂いて近づくその煙は、商隊の立てるものとは規模が違う。幅が広く、低く、地を這うように続いている。騎馬の群れだった。
「——軍旗が見えます。王国正規軍、第七粛清隊」
歩哨の報告が伝令を通じて砦全体に伝わるまで、さほど時間はかからなかった。だが備える時間もまた、残されていなかった。粛清隊は行軍の速さで知られる。街道の整備された区間を夜通し駆け、夜明けとともに攻撃圏に入る——それが常套だった。
砦の主、辺境伯ヴァルツは石壁の上に立ち、南を睨んだ。五十を過ぎた大柄な男で、白髪交じりの顎鬚が朝風に揺れている。傍らの副官が差し出した遠眼鏡を受け取り、覗き込んだ。
「旗は粛清隊のものか」
「間違いありません。王印付きの赤地金縁です」
「数は」
「およそ二千。先遣と思われます」
辺境伯は遠眼鏡を下ろし、静かに息を吐いた。吐く息が白い。秋嵐のあとの冷気がまだ石壁に残っていた。粛清。王都が辺境の領主に下す最も苛烈な裁定だ。反逆の嫌疑をかけられた者の領地は没収され、一族は根絶やしにされる。弁明の機会はない。粛清隊が到着した時点で、判決は執行される。
「——心当たりがないわけではない」
辺境伯は呟いた。昨年、王都からの増税令に対し、辺境三州の領主連名で減免の嘆願書を送った。飢饉のあとの民にこれ以上の負担は耐えられぬと。嘆願書は黙殺された。だが王都はその署名を「辺境の結託」と読んだのだろう。
「籠城か」副官が問う。
「壁の修繕が終わっておらん。兵糧は二月分。援軍の当てもない」
それでも辺境伯は迷わなかった。「門を閉じろ。弓兵を東壁に集めよ。民を西門から逃がせ」
号令が飛ぶ。砦は慌ただしく動き始めた。鉄の門扉が軋みを上げて閉まり、兵士たちが駆け足で持ち場につく。鍛冶場の火が消され、代わりに矢倉に火矢の準備が始まった。
地下書庫には、その喧騒がくぐもった振動としてしか届かなかった。
レンは机に向かっていた。昨夜から一睡もしていない。培養槽の脈動が気になって眠れなかったのだ。計算用紙は机から溢れて床に散らばり、どの紙にも臨界条件の数値がびっしりと並んでいる。結論は変わらない。融合は近い。だが自然条件で臨界に達するには、大気中の遊離魔素濃度が通常の四倍以上になる必要がある。秋嵐の直後は魔素が高まるが、それでも三倍が限度だ。一倍分の余裕がある。つまり、まだ安全だ。
レンはそう結論づけ、ようやくペンを置いた。
頭上で、鈍い衝撃が響いた。
石壁を通して伝わるその振動は、これまで聞いたどの音とも違った。訓練の号令でも、鍛冶の槌音でもない。もっと重く、不規則で、連続している。レンは天井を見上げた。二度、三度と振動が続く。そして悲鳴のような——いや、実際に悲鳴だろう——声が、微かに石の隙間を縫って降りてきた。
戦が始まっている。レンの指先が、無意識に机の縁を掴んだ。
動くべきだ。地上に出て、何が起きているか確認すべきだ。頭ではそう分かっている。だが身体が動かない。五年前の夜が、網膜の裏に焼きついて離れない。燃える陣幕。折り重なる屍。自分の描いた布陣図の上に散った血。あの夜から、レンの足は戦場に向かうことを拒絶している。才能は消えないが、身体が覚えた恐怖もまた消えない。
椅子に座ったまま、レンは両手を膝の上で握り締めた。指の関節が白くなるほど力を込めても、震えは止まらなかった。冷たい汗が背筋を伝い、地下の湿った空気が肺の奥まで沁みた。燐光の苔が壁に淡い緑を落とし、その光の中で自分の手だけがひどく生白く見えた。
地上では、粛清隊の攻勢が砦の東壁を叩いていた。先遣二千は正面攻撃と見せかけ、南壁の修繕の甘い箇所に破城槌を集中させた。辺境伯は東壁から兵を割いて南壁の防御に回したが、その隙を突いて粛清隊の弓騎兵が東壁に火矢の雨を降らせた。乾いた秋の風が炎を煽り、東壁の木造部分が次々と燃え上がる。
「辺境伯! 南壁が——」
副官の声が途切れた。破城槌が三度目の打撃で南壁の一角を崩し、粛清隊の歩兵が雪崩れ込んできたのだ。辺境伯は剣を抜いた。自ら先頭に立ち、崩れた壁に殺到する敵兵を押し返す。白髪の大男が振るう剣は重く正確で、最前列の敵兵三人を斬り伏せた。だが粛清隊の数は多い。次から次へと兵が壁の穴から溢れ出し、砦の中庭が戦場に変わった。
地下への階段を、足音が転がり落ちてきた。速い。乱れている。マーリカだった。
扉を蹴り開けるようにして書庫に飛び込んできた少女の顔は、煤と汗にまみれていた。左の袖が焦げている。息が荒い。焦げた布と火薬の匂いが、地下の澱んだ空気を掻き乱した。
「レンさん——地上はもう持たない」
「……何が起きてる」
「粛清隊です。王都から。辺境伯を反逆者だと——南壁が破られました。中庭まで敵が入ってます」
レンは立ち上がった。立ち上がっただけで、その先の行動が分からなかった。軍師の頭が瞬時に状況を分析する。砦の兵力はおよそ四百。粛清隊は二千。南壁が破られたなら籠城は成立しない。残る選択肢は脱出か降伏だが、粛清隊に降伏という概念はない。
「逃げろ、マーリカ。西門がまだ開いているなら——」
「西門はもう塞がれました。包囲されてます」
退路がない。レンの思考が、氷のように冷えていく。計算が始まる。兵力差、地形、時間——五年間封じていた軍師の頭が、勝手に回り始める。そしてすぐに結論を出す。打つ手がない。四百で二千に包囲された砦に、奇策の余地はない。
頭上で、一際大きな爆発音が轟いた。天井から石片が降り、燐光の苔が剥がれ落ちる。マーリカが咄嗟にレンの腕を掴んだ。その手は小さく、しかし驚くほど強い力で食い込んだ。
「——火矢だ」
それは地下への通気口を通って飛び込んできた。意図的に狙ったのか、偶然かは分からない。だが結果は同じだった。火のついた矢が三本、石段の途中で跳ね、そのうち一本が書庫の奥——培養槽の列に向かって滑った。
レンの目が見開かれた。
「伏せろ!」
叫ぶと同時にマーリカを引き倒し、机の下に押し込んだ。火矢は培養槽の硝子を直撃しなかった。だが傍の薬液棚に突き刺さり、棚が倒れた。瓶が割れ、可燃性の溶媒が床に広がった。鼻をつく刺激臭が充満する。火が舐めるようにそれを辿り、培養槽の台座に達する。
熱。
培養液の温度が急激に上昇する。硝子の内側で、液体が沸騰し始めた。泡が激しく立ち上り、中の骨格——竜の肋骨に鋼蟲の甲殻を接合したもの——が液中で揺れる。
同時に、レンは空気の変化を感じた。肌がぴりぴりと粟立つ。地上の戦闘——魔装兵が放つ術式、火矢に込められた魔素弾頭、砦の防壁に刻まれた結界の崩壊——それらが大気中の遊離魔素を異常なまでに高めていた。通常の三倍どころではない。戦場の魔素汚染が、通気口を通じて地下に流れ込んでいる。
レンの顔から血の気が引いた。
高熱。衝撃。そして遊離魔素濃度の臨界突破。
三つの条件が、偶然の一致で、同時に揃おうとしている。昨夜、安全だと結論づけた計算用紙が、足元で炎に舐められていた。
「まずい——」
レンは机の下から這い出し、培養槽に駆け寄った。排出弁に手をかける。昨夜触れて動かせなかった、あの弁だ。今度は迷わなかった。全力で回す。だが弁は熱で膨張し、びくともしない。掌の皮膚が焼ける感触があった。構わず握り続けた。
培養槽の硝子に亀裂が走った。一本、二本。蜘蛛の巣のように広がる罅の向こうで、竜骨が脈動している。昨夜とは比較にならない強さで。鋼蟲の甲殻片が骨格に吸い寄せられるように密着し、表面が赤熱を始めた。
「レンさん、離れて!」
マーリカが背後から叫ぶ。だがレンは弁を離さなかった。止めなければ。ここで止めなければ、自分が五年かけて作り上げたものが——
硝子が弾けた。
培養液が爆発的に飛散し、レンの身体を壁まで吹き飛ばした。背中を石壁に打ちつけ、息が詰まる。視界が白く明滅する。その白光の中に、レンは見た。
骨格が立ち上がっている。
竜の肋骨が展開し、鋼蟲の甲殻がその上を覆い、胸腔の奥で——魔素炉が、灼けるような紅い光を放って、回り始めていた。