第3話
第3話
光が、地下を灼いた。
培養槽の残骸から立ち上がったそれは、レンの設計図にあった姿と同じであり、しかし根本的に異なっていた。竜の肋骨が胸郭を形成し、鋼蟲の甲殻がその上に鱗のように重なり合い、四肢は獣のそれに近いが関節の数が多い。体高は馬二頭分。尾は鋼蟲の腹節が連なった鞭のような構造で、先端が床の石畳を掠めるたびに火花が散った。そして胸腔の奥、肋骨の檻の中で回転する魔素炉の紅光が、地下書庫を赤黒い影で満たしている。
設計図では全長三メートル。眼前のそれは、四メートルを超えていた。
「——完全体」
レンは壁にもたれたまま呟いた。背中を打った衝撃で呼吸が浅い。だが軍師の目は止まらなかった。甲殻の密度、骨格の展開角度、魔素炉の回転速度——すべてが理論値の上限を超えている。融合比を〇・三ずらした修正が効いたのだ。効きすぎた。培養液の中で五年かけてゆっくりと進行していた骨格と甲殻の親和が、臨界の瞬間に一気に最適化された。偶発的な条件の一致が、計画的な実験では到達し得ない完全な融合を生み出した。
キメラが首を巡らせた。頭部には眼窩がない。代わりに、鋼蟲の触角に似た二本の感覚器が額から伸びている。それが空気の振動を捉え、周囲の生物を識別する——はずだった。設計図ではそう書いた。だが今、その感覚器がレンとマーリカを捉えても、キメラは動かなかった。二人を脅威と見なしていないのか、あるいは起動直後でまだ行動プログラムが安定していないのか。
天井から、また一際大きな爆発音が降ってきた。石片が舞い、通気口から戦場の熱気と悲鳴が流れ込む。キメラの感覚器が、天井を向いた。
「レンさん、あれ——動く気です」
マーリカが机の下から這い出し、レンの傍に駆け寄りながら言った。彼女の目はキメラから離れていない。恐怖で顔が強張っているが、声は震えていなかった。伝令兵の本能が、恐怖より先に状況報告を優先させている。
キメラが一歩を踏み出した。石床が軋む。重い。四メートルの甲殻体が地下書庫の通路を進めば、棚が薙ぎ倒され、書物が散乱する。だがキメラは障害物を避けもしなければ、破壊を楽しむそぶりも見せなかった。ただ、天井の向こう——地上の戦闘が放つ魔素と熱と振動の源に向かって、最短距離を歩いている。
「止めないと」
レンは壁から身を剥がし、よろめきながら机に戻った。引き出しを掻き回す。指先が触れたのは、革紐で束ねた金属片の束——制御符だった。キメラが万一起動した場合に備え、三年前に理論だけで設計した緊急制御機構。符に刻んだ術式がキメラの魔素炉に干渉し、行動を制御する。理論上は。実証は一度もしていない。
「理論上は、動く」
「それ、培養槽のときも聞きました」
マーリカの声に皮肉はなかった。純粋な事実の指摘だった。レンは苦い笑いを噛み殺し、制御符を握りしめた。掌に、昨夜焼けた火傷の痛みが走る。
キメラが石段に足をかけた。地上への階段だ。狭い。甲殻が壁を削り、石粉が舞う。それでもキメラは止まらない。地上の戦場が放つ魔素の濃度が、この獣を引き寄せている。磁石に吸われる砂鉄のように。
レンは走った。キメラの後を追い、石段を駆け上がる。五年間地下に籠もった身体は鈍っていたが、今はそれを考える余裕がなかった。制御符を起動する距離は十メートル以内。符の術式を魔素炉に接続するには、キメラの背後から炉心に向けて符を翳さなければならない。
地上に出た瞬間、レンの目を灼いたのは朝日ではなかった。炎だった。
砦ヴォルザークの東壁が燃えていた。南壁は半ば崩れ、粛清隊の兵士が中庭に溢れている。辺境伯の旗が傾ぎ、その足元で白髪の大男がまだ剣を振るっているのが見えた。だが周囲を囲む敵兵の数は圧倒的で、辺境伯の守備兵は次々と倒れていく。
キメラが中庭に踏み出した。
粛清隊の兵士たちが、それに気づいた。最初に見た者は声を上げることすらできなかった。四メートルの甲殻獣が石壁の陰から現れ、朝日の中で魔素炉の紅光を脈打たせている。竜骨の胸郭が膨張と収縮を繰り返すたびに、熱を帯びた空気が陽炎のように立ち昇る。
キメラの感覚器が、中庭全体を一度なぞった。
そして——動いた。
レンが制御符を翳したのは、ほとんど同時だった。符に刻まれた術式が魔素炉の回転に干渉し、キメラの動きに一瞬の方向性が加わる。「敵」の定義を粛清隊に限定する命令。たった一つの制約。それが通ったかどうかを確認する暇もなく、キメラは粛清隊の前衛に突入した。
甲殻の尾が薙いだ一撃で、敵兵の横列が十人まとめて吹き飛んだ。鎧ごと。人の身体が鉄の塊と化した尾に弾かれ、壁に叩きつけられ、砕けた。キメラは止まらない。四肢の爪が石畳を砕きながら駆け、前衛の密集に突入する。甲殻が剣を弾き、槍を折り、魔素弾頭を受けても傷一つつかない。鋼蟲の表皮硬度は理論通りだった。いや、理論を超えていた。粛清隊の兵士が振るう武器のすべてが、この甲殻の前では玩具に等しい。
三分。それだけの時間だった。
キメラが中庭を駆け抜けた三分間で、粛清隊の前衛八百は壊滅した。壊滅という言葉すら生温い。中庭は人の形を留めないものと、まだ形を留めている者の断末魔で埋め尽くされた。石畳が赤黒い液体に覆われ、折れた旗竿が煙を上げている。残った粛清隊は——千二百ほどが——崩れた南壁から雪崩を打って退却した。追撃の態勢すら整えていないのに。キメラの咆哮が一つ、空気を裂いただけで、訓練された正規兵が武器を捨てて逃げた。
レンは中庭の入口に立ち尽くしていた。
制御符は手の中にある。キメラは命令を受け付けている——少なくとも今は。前衛だけを攻撃し、砦の守備兵には触れなかった。制御は成功した。理論通りだ。
だが目の前の光景は、いかなる理論の帰結とも違った。
レンは膝をつき、嘔吐した。
胃の中身はほとんどなかった。昨日の林檎と麦粥の残滓が石畳にこぼれ、血と混じった。地上の空気は鉄の匂いに満ちていた。人間のものだ。八百人分の血と臓腑と恐怖が、秋の朝風に乗って砦中に立ち込めている。レンの鼻腔を、肺の奥を、その匂いが犯した。五年前に嗅いだ匂いと同じだった。あの夜、三千の死体の間に立ち尽くしたとき——あのときと、同じ匂いだった。
「——俺が作ったのか、これを」
声が震えた。手が震えた。膝が、全身が震えた。制御符を握る指の力が抜けかけ、慌てて握り直す。これを手放せばキメラの制約が解ける。そうなれば敵も味方もない。設計図にそう書いたのは自分だ。
キメラは中庭の中央で静止していた。魔素炉の回転が緩やかになり、甲殻の表面温度が下がっていく。戦闘が終わり、周囲の魔素濃度が低下したことで、獣もまた沈静に向かっている。制御符が効いているのか、単に刺激がなくなったから止まっているのか。レンには判別がつかなかった。
マーリカが背後から駆け寄り、レンの肩を支えた。何か言おうとして、口を開いて、閉じた。言葉が見つからないのだ。少女の目もまた、中庭の惨状を映して凍りついていた。
レンは袖で口を拭い、よろめきながら立ち上がった。視線がキメラに向かう。四メートルの甲殻獣は朝日を浴びて静かに立っている。竜骨の肋が呼吸のように開閉し、甲殻の隙間から蒸気が漏れている。美しいとすら思えた。設計図の完成形。五年の執念の結晶。そしてたった三分で八百の人間を肉塊に変えた怪物。
遠く、砦の東壁の向こうで、退却した粛清隊の軍鼓が鳴っていた。退くのではない。態勢を立て直しているのだ。二千のうち八百を失ってなお千二百が残っている。そして王都からは、さらなる増援が来るだろう。粛清隊が敗走したという報せは、王国の威信にとって看過できない汚点になる。
レンの手の中で、制御符が微かに熱を帯びていた。キメラとの接続を維持しているのだ。この符を握り続ける限り、獣は命令を聞く。手放せば、暴走する。壊せば、キメラは止まる——か、あるいは制約なく動き続ける。どちらになるかは、まだ分からなかった。
砦の奥から、老兵の怒号と負傷者の呻きが聞こえてくる。辺境伯が立っていた場所には、もう旗がなかった。