第3話
第3話
翌日は、時間の流れ方がおかしかった。
ネカフェのブースで目を開けた瞬間から、空気の質感が違っていた。いつもと同じ薄い毛布、同じ狭い空間、同じ蛍光灯の青白い光。なのに全部が、最後の一日を過ごす人間の目に映る景色みたいにくっきりしていた。壁のシミの形まで覚えてしまいそうだった。毛布を握る指先に力がこもる。今日で終わる。あるいは、今日から始まる。そのどちらかだった。
昼間の配達は二件だけ。鬼塚の「三日」はまだ初日だ。猶予がある——ように見えて、ない。組織のやり方を知っている。三日と言ったら、実際に動き出すのはその半分だ。猶予を額面通りに受け取った奴から消えていく。今夜にはもう見張りがつくと思ったほうがいい。
配達を済ませて、ネカフェに戻り、荷物を整理した。整理するほどの荷物もなかった。替えのTシャツ二枚、充電器、歯ブラシ、千円札が二枚と小銭。リュックの底に溜まった配達用の黒いビニール袋を全部捨てた。もう運ぶものはない。
二十一時。歌舞伎町に出た。
四月の夜風がまだ冷たかった。ネオンと客引きの声が混ざり合う雑踏の中を、肩をすぼめて歩く。靖国通り沿いのドン・キホーテの前を通り過ぎる時、見覚えのある顔が目に入った。組織の下っ端、ジュンと呼ばれている男。向こうはスマホをいじっていて、俺に気づいていない——ように装っている。視線がこっちを追っているのが、ガラスの反射でわかった。
やっぱりだ。もう張ってやがる。
心臓が跳ねたが、足は止めなかった。歩調を変えないまま、ドン・キホーテの角を曲がる。裏路地に入った瞬間、走った。
スニーカーがアスファルトを蹴る。雑居ビルとビルの隙間、配電盤の脇を抜けて、飲食店の業務用ゴミ箱が並ぶ路地に出る。生ゴミの甘ったるい腐臭と油の匂いが鼻を突いた。三年かけて全部覚えた道だ。どこを曲がれば監視カメラの死角か、どのビルの非常階段が通り抜けに使えるか。歌舞伎町の裏側は俺の庭だった——少なくとも今夜までは。
背後から足音が聞こえた。一人じゃない。二人、いや三人。ジュンともう二人、たぶん組のチンピラだ。鬼塚が本気で追手を出したんじゃない。まだ「連れ戻し」の段階だ。だからこそ今しかない。本隊が来たら、俺の路地裏の知識なんか通用しない。
居酒屋の排気ダクトの熱風を横切り、ラブホテルの非常階段を二階まで駆け上がって、隣のビルの屋上に飛び移った。着地の衝撃で左肋骨が軋む。痛みを噛み殺して走り続ける。屋上からパイプを伝って降り、裏手の駐車場に出た。
Loss新宿ビルが、目の前にあった。
地下への階段に飛び込む。足音が遠くなっていく。あいつらは俺がビルの裏に回ったと思って、別の路地を探しているはずだ。時間はない。
地下一階。蛍光灯の明滅。壁の染み。全部覚えている。
地下二階。
臭いが変わっていた。二日前より、さらに。
腐臭じゃない。もうそれを通り越している。空気そのものが重い。呼吸すると肺の内壁にべったりと何かが貼りつくような感触があった。駐車場の蛍光灯が全部消えている。非常灯の赤い光だけが、コンクリートの柱を血の色に染めていた。
奥に、穴がある。
二日前より二回りは大きくなっていた。黒い霧の楕円は天井を突き破り、床面には蜘蛛の巣状の亀裂が走っている。亀裂の隙間から同じ黒い霧が滲み出していて、駐車場の半分近くが霧に沈んでいた。霜の範囲はさらに広がり、俺の足元まで白く凍りついている。
呼び声が、待っていた。
おかえり。
もう迷わなかった。リュックの肩紐を両手で掴み、息を止めて——飛び込んだ。
最初に感じたのは、落下だった。
胃が浮き上がる感覚。遊園地のフリーフォールに乗ったことはないが、たぶんこういう感じだ。視界が真っ黒に塗り潰され、上下左右の感覚が消えた。風が耳元で唸っている。冷気が全身を包み、指先から体温が剥がれていく。皮膚の表面が粟立ち、産毛の一本一本が逆立つのがわかった。何秒落ちたのかわからない。五秒かもしれないし、五分かもしれなかった。
背中から叩きつけられた。
硬い地面。コンクリートではない。もっとざらついた、瓦礫のような感触。衝撃で肺の空気が全部吐き出され、しばらく呼吸ができなかった。口をぱくぱく開けて、魚みたいに酸素を求めた。ようやく一息吸い込むと、知らない匂いが鼻腔を満たした。土と錆と、甘い腐敗。
目を開ける。
赤い空だった。
頭上に広がっているのは、夕焼けでも朝焼けでもない。血を水で薄めたような淡い赤が、空の端から端まで均一に塗られている。太陽はない。光源がどこにあるのかわからなかった。ただ赤い光が全方向から降り注いでいて、影が生まれない。
起き上がる。周囲を見回して、息を呑んだ。
ビルだった。新宿の、見覚えのあるビル群。だが全てが崩壊していた。ガラス張りのオフィスビルは骨組みだけを残して傾き、コンクリートの壁面は中途半端に崩れ落ちて内部を晒している。道路のアスファルトは隆起と陥没を繰り返し、信号機がひしゃげて倒れていた。新宿を巨人が踏み潰して、そのまま放置したような光景。
そして——壁から、何かが生えていた。
肉だ。薄桃色の、脈動する肉塊。崩れたビルの壁面にびっしりとこびりつき、表面を不規則に蠢いている。植物のように枝分かれした管が壁面を這い、その先端から粘液がぽたぽたと垂れていた。粘液が地面に落ちると、じゅう、と小さな音を立ててアスファルトを溶かす。コンクリートの亀裂からも同じ肉塊がせり出していて、建物と融合している。ビルが生きている——そう錯覚するほどの量だった。呼吸するように膨らんでは縮む肉塊を見ていると、胃の底から酸っぱいものがこみ上げてきた。
ここが、穴の中。
これがあの霧の向こう側。地下駐車場の壁にぽっかり開いた異界の入口は、こんな場所に繋がっていたのか。
足元の瓦礫を踏みしめて歩き出す。他に選択肢がなかった。戻る穴は頭上にあるはずだが、見上げても赤い空が広がるだけで、入口らしきものは見当たらない。一方通行。飛び込んだ時点で覚悟はしていたつもりだったが、実際にこうして異常な空間に一人で立っていると、腹の底がじわりと冷えた。
物音がした。
瓦礫の向こう側。倒れたビルの陰から、がりがり、と硬いものを引っ掻くような音。足を止める。心臓が喉元まで跳ね上がった。息を殺した。音が止む。静寂が耳に痛い。そしてまた——がりがり。今度はさっきより近い。視界の端で、影が動いた。
それは犬だった——犬の形をしていた。四本足で、頭があり、尾がある。だが全身が炭化したように黒く、表面に赤い亀裂が走っている。亀裂の奥から溶岩のような橙色の光が漏れていた。目はない。頭部のあるべき場所に、裂けた口だけがある。口の中に歯が三列。唾液の代わりに、黒い煙が漏れ出ていた。
一匹じゃなかった。
倒れたビルの陰から、二匹目が現れた。三匹目。四匹目。崩れた壁の穴から這い出してくる五匹目。瓦礫の山の上に立つ六匹目。赤い空の下、半円を描くように俺を囲み始めていた。
逃げ場を探す。右——倒壊したビルが道を塞いでいる。左——肉塊がびっしりと覆った壁面。背後を振り返る。まさぐった手が何かに触れた。壁だ。背中が壁に当たっている。
行き止まりだった。
六匹の黒い獣が、じりじりと距離を詰めてくる。口が開いた。歯の三列が噛み合わさる乾いた音。先頭の一匹が低く身を沈めた。跳びかかる前の姿勢だ。犬を飼ったことはないが、路上で野良犬に追われたことなら何度もある。あの時と同じ動き。ただし、この獣の口からは煙が出ている。
手が震えた。リュックの紐を握り締める。武器なんか持っていない。千円札と歯ブラシで化け物に勝てるわけがなかった。
先頭の獣が跳んだ。
赤い空の下、黒い影が放物線を描いて俺に向かってくる。口が限界まで開いている。三列の歯。その奥に、喉はなかった。ただ暗闇が広がっている。
——終わる。そう思った。歌舞伎町で死ぬか、ここで死ぬかの違いだけで、結局俺は同じだ。どこにも辿り着けない。
右手が、熱かった。