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夜衛の穴、十五の拳

第2話 第2話

第2話

第2話

翌日の夜が、やけに長く感じた。

ネカフェのブースで目を覚ましたのが昼過ぎ。左の肋骨はまだ鈍く痛んでいたが、動けないほどじゃない。シャワールームで汗を流し、フリードリンクのアイスコーヒーを二杯飲んで、十四時からの配達に出た。三件。新大久保のマンション、歌舞伎町のスナック裏口、西新宿のコインパーキング。どれもいつもの仕事で、いつもの道順で、いつもの無言の受け渡しだった。

だが頭の中はずっと、あの地下駐車場にあった。

黒い霧。光を飲み込む楕円形の渦。あの腐臭と、骨の奥に直接触れてくるような呼び声。昼間の陽射しの下で思い返せば、やっぱり幻覚だったんじゃないかと思える。疲労と空腹と殴られた衝撃で、脳がバグったのだ。そう片付けてしまえば楽だった。

片付かなかった。

右の手のひらを開く。昨夜、あの霧に手を伸ばしかけた手。何も変わっていない。十五歳の、傷だらけで爪の汚れた、ただの手だ。でも指先に残っている。あの渦の縁から吹きつけてきた生温かい風の感触が、まだ消えていなかった。

午前一時。最後の配達を終えて、俺はLoss新宿ビルの前に立っていた。

配達ルートの途中、という言い訳は用意してある。実際にコインロッカーの回収指示も出ていた。ただ回収だけなら五分で済む。地下二階に降りて、ロッカーを開けて、中身をリュックに移すだけだ。あの奥まで行く必要はない。

階段を降りる。地下一階。切れかけた蛍光灯が不規則に明滅している。昨日と同じ光景のはずなのに、一段ごとに心拍数が上がっていくのがわかった。地下二階。駐車場に足を踏み入れた瞬間——

臭い。

昨夜より強い。いや、強いというより近い。腐臭の濃度が上がったのではなく、発生源そのものが膨張しているような感覚だった。口呼吸に切り替えても、喉の粘膜がひりつく。

コインロッカーの前で立ち止まる。回収物を取り出し、リュックに入れた。これで用は済んだ。帰ればいい。階段を上がって、地上に出て、ネカフェに戻ればいい。

足が、奥へ向かっていた。

駐車場の壁際。昨夜と同じ場所に、それは在った。黒い霧の楕円。ただし昨夜より一回りは大きくなっている。渦の直径は二メートルを超え、天井のコンクリートに触れかけていた。霜の範囲も広がっていて、駐車スペース二台分ほどの床面が白く凍りついている。吐く息が白い。四月だぞ、と頭の片隅で思った。

呼び声が、鮮明だった。

昨夜は地鳴りのような振動だった。今夜は違う。言葉にはなっていないのに、意味が伝わってくる。おいで、ではなく——おかえり。待っていた、と。そう言われている気がした。鼓膜ではなく頭蓋骨の内側に直接刻まれるような、低く、甘い共鳴。

三メートル。霧との距離。靴底が霜を踏んで、ぱきり、と音がした。冷気が足首から這い上がってくる。

二メートル。渦の表面が波打った。俺が近づいたことに反応しているのか、内側から何かが押し出されようとしているのか。黒い霧の隙間から、昨夜と同じ生温かい風が吹きつけてくる。土と草の匂い。それに混じって、鉄錆びのような金属の気配。

一メートル。右手を、伸ばしていた。

指先が霧に触れる寸前——渦の奥で、何かが動いた。

形があった。黒い霧の向こう側に、確かに輪郭を持つ何かがいた。大きい。人間より二回りは大きな影が、こちらに向かってゆっくり近づいてくる。声が変わった。呼び声の甘さが消え、代わりに低い唸りが混じる。獣の喉から漏れるような、空腹の音。

俺は手を引いた。

全身が一瞬で凍った。比喩じゃない。指先から肘まで、霜に触れた瞬間のような痺れが走り、感覚が消えた。足が動かない。呼吸が止まる。影がさらに近づいてくる。渦の表面が激しく脈動し、霧の縁からどろりとした黒い液体が床に垂れた。液体が霜の上で蒸気を上げる。

逃げろ。

本能が叫んだ。体が動いた。踵を返して走る。コンクリートの柱にぶつかり、肩を打ちつけたが構わず階段を駆け上がった。地下一階、地上。外に飛び出して、膝に手をつき、嘔吐いた。何も出なかった。胃液の酸っぱい味だけが口に広がる。

震える手を見下ろす。右手の指先が、うっすらと赤みを帯びていた。霜焼けか、それとも——。握って、開く。感覚は戻っている。大丈夫だ。たぶん。

息を整えてスマホを見ると、組織の連絡用アプリに通知が入っていた。鬼塚からだ。

『明日22時。ブリーフィング。サボんなよ』

鬼塚直々の呼び出し。タカやその下っ端じゃなく、組織のトップからの指示。嫌な予感しかしなかった。鬼塚が末端の運び屋に直接連絡を寄越すのは、二つの場合だけだ。報酬が跳ね上がるほどリスクの高い仕事か、誰かを見せしめにする時か。

翌日の夜。指定されたのは歌舞伎町の雑居ビル四階、組織の溜まり場の一つだった。

薄暗い部屋にパイプ椅子が並んでいる。煙草の煙が天井に層をなしていて、換気扇は回っていなかった。俺を含めて運び屋が三人。向かいに鬼塚が座っている。四十代、剃り上げた頭に革のジャケット。目だけが笑わない男だ。隣にタカが立っていて、俺と目が合うと口の端を歪めた。

「簡単な仕事だ」

鬼塚が言った。簡単な仕事だ、と鬼塚が言う時は簡単じゃない。これも三年で学んだことだ。

内容は、大久保の取引先への納品。ただしブツの量がいつもの五倍。相手は最近取引を始めたばかりの新規で、まだ信用が固まっていない。しかも受け渡し場所が相手側の指定——俺たちのテリトリー外だった。

「蓮。お前が行け」

指名された。他の二人がちらっとこっちを見た。同情の色はない。自分じゃなくてよかった、という安堵だけがあった。

断れない。断るという選択肢は、この世界には存在しない。

「……了解っす」

二十二時四十分。大久保駅の北側、ラブホテル街の裏手にある雑居ビル。指定された三階の一室は、ドアが半開きになっていた。中に入ると、知らない男が三人いた。全員、目つきが悪い。部屋の隅にアタッシュケースが二つ。

受け渡しは最初、スムーズに進んでいた。ブツを確認し、向こうが金を出し、数えて——そこで空気が変わった。

「足りねえだろ」

男の一人が低い声で言った。金額が合わない、と。俺は黙って数え直す。合っている。鬼塚から聞いた額と、目の前の現金は一致している。だが男は首を振った。

「手数料が入ってねえっつってんだよ。事前に話ついてんだろうが」

聞いていない。手数料なんて話は鬼塚から一言もなかった。だが俺がそれを言ったところで意味はない。末端の運び屋の「聞いてない」は、ただの言い訳だ。

場が険悪になった。男たちの一人がドアの前に立ち、退路を塞いだ。俺はリュックの紐を握り締めた。腹の底が冷えていく。これは——嵌められたのか。鬼塚が最初からこうなると知っていて、俺を送り込んだのか。それとも本当にただの行き違いか。どちらにしても、この場で割を食うのは俺だ。

結局、相手側が「上に確認する」と言って俺を追い出した。ブツは渡した。金は半分しか回収できなかった。

組織に戻って報告した時の鬼塚の顔は、能面のように動かなかった。

「半分?」

「相手が手数料の話を——」

「お前の仕事は全額持って帰ることだろうが」

知っていた。こうなることを。鬼塚の目が細まった瞬間、タカが俺の襟首を掴んだ。壁に叩きつけられる。後頭部がコンクリートにぶつかり、視界が明滅した。

「三日やる。足りない分、耳揃えて持ってこい。なかったら——わかるな?」

わかる。嫌というほどわかる。去年、同じことを言われた運び屋がいた。金を揃えられなかったそいつは、ある日を境に姿を消した。組織を抜けたんじゃない。消されたのだ。俺の持ち金は二千円と少し。足りない額は、逆立ちしても三日で作れる金額じゃなかった。

鬼塚の部屋を出て、歌舞伎町の雑踏に紛れた。足が震えている。殴られた痛みじゃない。これは恐怖だ。三日後に死ぬかもしれないという、明確な恐怖。

路地裏に入り、自販機の明かりの下で立ち止まった。選択肢を数える。金を作る方法はない。他の組織に泣きつく? 論外だ。鬼塚に許しを乞う? あの目に慈悲はなかった。警察に駆け込む? 俺自身が犯罪の片棒を担いでいる。保護してくれる大人なんて、最初からどこにもいない。

逃げるしかない。

この街から消える。歌舞伎町を出て、電車に乗って、知らない街で——。だが顔も名前も割れている。鬼塚のネットワークは広い。新宿を離れたところで、いつか見つかる。隠れ続けることはできない。

じゃあ、どこに逃げる。

答えは、もう胸の中にあった。

Loss新宿ビルの地下駐車場。あの黒い渦。人間には見えない穴。追手がどれだけ優秀でも、存在を認識できない場所には追ってこられない。

正気じゃない。あの中に何がいるか、さっき見たばかりだ。人間より大きな影。獣の唸り。触れただけで指が凍るほどの冷気。飛び込めば死ぬかもしれない。

でも、ここにいても死ぬ。

三日後に確実に来る死と、あの穴の向こうにあるかもしれない死。どちらかを選べと言われたら——俺は、まだ「かもしれない」のほうに賭けたい。

自販機で最後の缶コーヒーを買った。温かい缶を両手で包む。四月の夜風が首筋を撫でていく。コーヒーを一口飲んで、目を閉じた。

明日の夜。鬼塚の追手が動き出す前に。

俺は、あの穴に飛び込む。

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