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夜衛の穴、十五の拳

第1話 第1話

第1話

第1話

殴られた頬の内側で、血の味が広がった。じわりと膨れ上がる粘膜の感触。舌先で触れると、奥歯の横あたりが切れている。唾液と血が混ざった生温かい液体を、音を立てないように飲み込んだ。

歌舞伎町のネオンが雨に滲んでいる。午前一時。俺はビルの裏口に叩きつけられたまま、コンクリートの冷たさを背中で感じていた。雨で濡れた地面が体温を奪っていく。パーカーの背中はとっくにびしょ濡れで、肌に張り付いた布地が呼吸のたびに重く動く。どこかの排水管から水が落ちて、一定のリズムでコンクリートを叩いている。その音だけが妙に正確で、殴られている最中の時間の感覚をかろうじて繋ぎ止めていた。

「おい、聞いてんのか蓮。次遅れたらわかってんだろうな」

革靴の爪先が脇腹に入る。声を殺して丸まった。腹筋に力を入れる間もなかった。胃の中のものがせり上がりかけて、奥歯を噛み締めてこらえた。見上げれば、組織の中間——タカって呼ばれてる男が、煙草の煙越しにこっちを見下ろしている。雨粒が煙草の先端に当たって、じゅっと小さな音を立てた。タカの革靴には俺のパーカーの繊維がこびりついている。

「……すんません」

「すんませんじゃねえんだよ。二十分遅れだぞ二十分。ブツは時間通りに届けろっつったろ」

言い訳はしない。意味がないことは、十五年の人生で嫌というほど学んでいる。配達先のビルのエレベーターが故障していたとか、階段で酔っ払いに絡まれたとか、そんな事情を聞いてくれる人間はこの世界にいない。言い訳は相手の怒りを長引かせるだけだ。黙って殴られて、黙って頭を下げる。それが最短で解放される方法だった。

タカが去って、俺は壁に手をついて立ち上がった。左の肋骨あたりが鈍く痛む。折れてはいない——たぶん。折れた時の痛みは知っている。去年の冬に一度やった。あの時は息を吸うだけで内臓を針で刺されるような激痛が走って、三日間まともに動けなかった。今回はそこまでじゃない。深呼吸を試す。痛みはあるが、耐えられる。

リュックの中身を確認する。次の配達物は無事だった。黒いビニール袋に包まれた、中身を知らないほうがいいもの。知らなければ罪の重さも量れない。それが組織の末端として生き延びるコツだった。

雨足が強くなってきた。フードを深く被り、歌舞伎町の大通りを避けて裏路地に入る。ここは俺の庭だ。どのビルとビルの隙間が通り抜けられるか、どの非常階段が屋上まで繋がっているか、全部頭に入っている。十二の時にこの街に流れ着いてから三年、路地裏の地図だけが俺の財産だった。

配達を二件済ませる頃には、雨は上がっていた。

午前三時のコンビニ。自動ドアをくぐると、蛍光灯の白さに目が眩む。BGMがやけに明るい。店員は奥で品出しをしていて、こっちを見もしない。濡れたスニーカーがリノリウムの床の上でキュッと鳴った。

ホットスナックの棚を覗く。肉まんが二つだけ残っていた。保温ケースの隅で縮こまるように並んでいるそれは、たぶん夕方から入れ替えられていない。皮が少し硬くなっている。百三十円。財布の中の小銭を数えた。十円玉が八枚、五十円玉が一枚。ぎりぎりだ。今日の配達報酬から経費を引かれると、手元に残るのは二千円あるかないか。

「これ、ください」

袋はいらない。そのまま受け取って、店の前のガードレールに腰を下ろした。

一口齧る。ぬるい。肉の油が舌にまとわりつく。美味いかと聞かれたら、わからない。ただこの瞬間だけ、誰にも殴られず、誰にも命令されず、何も運ばなくていい。歌舞伎町の喧騒が遠のいて、肉まんの湯気だけが夜の空気に溶けていく。

これが、俺の一日の終わりだ。

毎晩、同じことを繰り返している。配達して、殴られて、肉まんを齧って、ネカフェの狭いブースで眠る。明日もその繰り返し。何のためにとか、いつまでとか、考えたことはある。考えても答えが出ないから、やめた。

肉まんを食べ終えて、紙を丸めてゴミ箱に捨てた。

最後の配達が一件残っていた。Loss新宿ビルの地下駐車場。そこのコインロッカーにブツを入れるだけの簡単な仕事のはずだった。

歌舞伎町一丁目から靖国通りを渡り、雑居ビルの隙間を縫って大久保方面へ向かう。Loss新宿ビルは築三十年を超えた古い商業ビルで、地下二階の駐車場はこの時間ほとんど車が停まっていない。組織が受け渡しに使う定番のポイントだった。

階段を降りる。地下一階。蛍光灯が一本切れていて、通路の半分が影に沈んでいる。靴音が反響する。壁に染み出した水が黒い筋をつくり、剥がれかけた塗装がところどころ浮き上がっている。階段の手すりは錆びて、触れると赤茶色の粉が指についた。地下二階に降りると、駐車場特有の排気とオイルの匂い——に混じって、何か別のものが鼻についた。

腐臭。

生ゴミとも違う。肉が腐ったのとも違う。もっと根源的な、生き物が朽ちていく過程そのものを凝縮したような臭い。思わず口元を押さえた。さっき食べた肉まんが胃の底で暴れかける。鼻呼吸を止めて、口だけで浅く息を吸った。それでも臭いは喉の奥まで侵入してくる。

駐車場の奥、壁際の暗がりに——それはあった。

黒い霧。

天井から床まで、高さ二メートルほどの楕円形に渦を巻いている。色は黒というより、光を吸い込む闇そのものだった。コンクリートの壁にぽっかりと口を開けた、異界への穴。霧の縁が脈打つように膨張と収縮を繰り返していて、そのたびに周囲の空気が微かに揺れた。蛍光灯の光が霧の表面に触れた瞬間、吸い取られるように消えていく。渦の周縁に沿って、コンクリートの床面に薄く霜が降りていた。四月の地下駐車場に、霜。指先が痺れるほどの冷気が、霧の周囲だけを侵食している。

俺は足を止めた。心臓が跳ねている。

周囲を見回す。駐車場には誰もいない。監視カメラの赤いランプだけが、等間隔に点滅していた。だがカメラのレンズはあの黒い霧の上を素通りしている——ように見えた。実際にカメラの映像を確認したわけじゃない。ただ、本能的にわかった。これは俺にしか見えていない。

腐臭の奥に、別の何かがあった。

音だ。

かすかな——本当にかすかな、声のようなもの。人の声じゃない。もっと低く、地鳴りのように這ってくる振動。言葉にならない呼び声が、鼓膜ではなく頭の奥に直接響いてくる。骨が共鳴しているような感覚。こめかみの奥が熱くなり、視界の端がちらちらと揺れた。

おいで、と。

そう聞こえた気がした。

一歩、近づいていた。自分の意思なのか、引き寄せられたのかわからない。黒い霧が揺らめいた。渦の中心に、何かが蠢いている。霧の向こう側から、生温かい風が吹きつけてきた。雨上がりの歌舞伎町とも、地下駐車場の排気とも違う。土と、草と、知らない花の匂いが混じった風だった。その風が頬に触れた瞬間、さっきタカに殴られた傷がじくりと疼いた。まるで傷口が、あちら側の空気に反応しているかのように。

足が止まった。

恐怖だった。全身の毛が逆立ち、背筋に冷たいものが走る。本能が叫んでいる。逃げろ、と。

俺はリュックを掴み直して、踵を返した。コインロッカーにブツを押し込み、階段を駆け上がる。二段飛ばしで、膝が笑っていた。地上に出ると、夜明け前の空がうっすらと白んでいた。

息を整える。振り返っても、地下駐車場の入口はただの暗がりだ。さっきの霧も、臭いも、声も——全部、疲労からくる幻覚だったのかもしれない。

そう思おうとした。

だが手のひらが震えていた。恐怖だけじゃない。あの穴の前に立った瞬間、胸の奥に灯った感覚を、俺は否定できなかった。

この街で三年、どこにも居場所がなかった。組織にとって俺は使い捨ての駒で、誰かにとっての「誰か」になったことは一度もない。殴られて、走って、冷めた肉まんを齧って、狭いブースで目を閉じる。それだけの人生だ。

あの穴の奥に何があるのか、わからない。

でも——あの呼び声が、俺だけを呼んでいた。

この世界で初めて、名指しされた気がした。

ネカフェに向かう足取りは、いつもより重かった。ブースに入り、薄い毛布を被る。目を閉じても、あの黒い渦が瞼の裏にこびりついている。耳の奥で、あの低い振動がまだ残響のように鳴り続けていた。

明日の夜も、あのルートを通る。

知っていた。俺はまた、あの地下駐車場に行く。今度は——もう少しだけ、近くで見るために。

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