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深層共鳴のソロハンター

第3話 第3話「第七層南回廊の脈動」

第3話

第3話「第七層南回廊の脈動」

振動は翌日も消えていなかった。

 第七層、南回廊の東寄り。レンは昨日と同じ場所に膝をつき、石畳に掌を押し当てていた。《微弱感知》を起動する。十二秒。脈動は変わらず南東から届いている。昨日より、わずかに強い。

 周回ルートを外れることへの迷いはなかった。三年間同じ道を歩き続けた人間にとって、未知の信号は無視できるものではない。ましてこの振動は、三メートルしか届かないはずの感知の内側に、外から入り込んでいる。それが何を意味するのか、確かめずに帰る選択肢は最初からなかった。

 南回廊の東端には、地図に「行き止まり」と記した枝道がある。二年前に一度だけ入り、壁に突き当たって引き返した場所だ。レンは松明を掲げ、その枝道に足を踏み入れた。通路は狭く、天井が低い。すれ違いができない幅。一人分の肩幅がぎりぎり通れる石壁の隙間を、横向きに進む。松明の炎が石壁に押し返され、熱が顔の横を舐めるように這い上がった。

 行き止まりの壁。二年前と同じだ。だが今、掌を当てると振動が直接伝わってくる。壁の向こうから。近い。この壁のすぐ裏側で、何かが脈動している。

 レンは壁面を仔細に観察した。松明の光を近づけると、石組みの目地にわずかな隙間が見えた。風が通っている。湿った、冷たい風。第七層の乾燥した空気とはまるで違う、地下水脈を思わせる重い湿気を含んだ風だった。

 足元を見下ろした。石畳の表面に、髪の毛ほどの細いひび割れが走っている。昨日はなかった——いや、昨日は膝をついた位置がここではなかった。見落としていただけかもしれない。だが、このひび割れは壁の根元から放射状に広がり、レンが立っている石畳の下にまで伸びている。

 嫌な予感がした。

 感知を起動した。三メートル——足元の石畳の内部構造が、ぼんやりと知覚できる。石と石の間に空隙がある。不自然に大きな空洞が、床面のすぐ下に広がっている。

 退がろう、と思った瞬間だった。

 足の裏から伝わっていた振動が、不意に止んだ。

 完全な静寂。第七層の通路に常にある微かな空気の流れすら、凍りついたように感じた。レンの全身の毛が逆立った。三年間の浅層生活で磨いた本能が、全力で警告を発している。

 石畳が沈んだ。

 足元が、音もなく陥没した。短剣の柄を掴む暇もなかった。身体が落ちる。松明が手を離れ、上方に遠ざかっていく炎の光だけが最後の視覚情報だった。頭上で石が崩れる轟音が鳴り響き、瓦礫が追いかけてくる。背中を岩の突起が打ち、左の脇腹を何かが削った。レンは反射的に両腕で頭部を庇い、身体を丸めた。

 落ちている。まだ落ちている。

 壁面に何度か身体が叩きつけられた。上腕が裂けるような痛みのあとに、ふいに空間が開けた。岩壁の抵抗がなくなり、身体が完全な自由落下に入った。風が耳の横を吹き抜ける音が唸りに変わった。胃の中身がせり上がり、方向感覚が消えた。上も下もない。暗闇の中で身体が回転しているのか、まっすぐ落ちているのかさえわからなかった。

 どれだけ落ちたのか、わからない。五秒か、三十秒か。痛みで時間の感覚が壊れていた。最後に背中が何かに叩きつけられ——硬くない、砂のような——衝撃が全身を貫き、意識が途切れた。

 最初に戻ってきたのは、匂いだった。

 苔でも鉄でもない。甘い、と表現するには重すぎる、だが確かに有機的な香り。焚き火の灰のような乾いた温かさと、雨上がりの土を思わせる湿り気が混じっている。第七層までのどの階層でも嗅いだことのない匂いだった。

 次に音。水の音ではない。空気そのものが微かに振動しているような、耳の奥が痒くなる低い唸り。建物の基礎を通して聞く遠雷のような、あるいは巨大な生き物の寝息のような。

 レンは目を開けた。

 暗闇。だが完全な暗闇ではなかった。視界の端に、淡い青紫色の光が明滅している。それは上方からではなく、壁面から発せられていた。

 身体を動かす。全身が痛い。背中の打撲、左脇腹の裂傷、右上腕の擦過傷。だが骨は折れていない。奇跡的に、致命傷はなかった。落下の最後に受け止めたのは砂——いや、粒子の細かい鉱物の堆積層だった。指で掬うと、微細な結晶がぼんやりと青く光った。光は掌の体温に反応するように一瞬だけ強まり、指の隙間からこぼれ落ちると同時にまた沈んだ。

 ゆっくりと立ち上がり、周囲を見渡した。左膝に力を入れた瞬間、脇腹の裂傷が引き攣れて息が止まった。歯を食いしばり、壁に手をついて身体を起こす。立ち上がるだけで額に脂汗が浮いた。

 空間が広い。松明がないが、壁面の発光だけで輪郭は把握できた。天然の洞窟ではなかった。壁面は平坦に切り出されており、天井は人の背丈の四倍はある。通路ではなく、広間だ。石造りの柱が等間隔に並び、その表面に——

 紋様が刻まれていた。

 幾何学的な直線と曲線が組み合わさった、見たことのない文様。柱の根元から頂部まで途切れることなく続き、隣の柱にも、壁面にも、床にさえ同じ体系の紋様が刻まれている。それが淡い青紫の光を放っていた。光は一定ではない。呼吸するように明滅し、紋様の線を端から端まで光が走ると、次の紋様に移っていく。

 レンは呼吸を忘れた。

 感知を起動する余裕すらなかった。目の前の光景が、知識のどこにも接続しない。協会のダンジョン地図は第二十層までを公式に記録しており、第七層の真下にこんな空間があるとは、どの資料にも書かれていない。

 ——ここは、どこだ。

 鞄は落下の途中で失った。松明もない。回復薬も残っていない。武器は——腰に手をやると、短剣の鞘がまだ残っていた。留め具が歪んでいたが、刃は抜ける。それだけが今のレンの全てだった。

 《微弱感知》を起動した。

 三メートルの球形が展開された瞬間、頭の芯が灼けるように熱くなった。情報量が桁違いだった。浅層では魔物の体温と位置がぼんやり伝わるだけのこの感覚が、ここでは壁面の紋様の一本一本、床に堆積した結晶の粒子一つ一つ、空気中を漂う微細な魔力の粒子まで拾い上げていた。三メートルの範囲が情報で飽和し、処理しきれない知覚が意識を圧迫する。

 十二秒を待たずに、レンは感知を切った。こめかみを押さえる。鼻血が一筋、唇の端を伝って顎に落ちた。

 高密度の魔力環境。浅層とは比較にならない。この空間に満ちている魔力の濃度は、感知の精度を強制的に引き上げると同時に、感覚器官への負荷を跳ね上げている。

 レンは壁面に手をついた。紋様の刻まれた石壁は微かに温かかった。脈動している。壁そのものが、生きた器官のように。先ほどまで足の裏で感じていた振動の正体——この空間全体が脈打っていたのだ。第七層の石畳を突き抜けて、あの枝道の行き止まりまで届くほどの。

 姉の通信が脳裏を過った。

『紋様が壁一面に刻まれてる。協会のデータベースにも該当なし』

 姉が第十九層の奥で見つけたと言っていたもの。同じものか、同じ体系のものが、ここにもある。第十九層と第七層の直下。深度も場所もまるで違う二つの地点に、同じ紋様が存在している。それは偶然ではありえない。

 足を進めた。広間の奥に通路が延びている。紋様の光だけを頼りに歩く。足音が高い天井に反響し、自分一人の歩行が何人もの足音に聞こえた。通路の壁面は広間と同じ紋様で覆われ、光の流れが進行方向を示すように前方へ走っている。まるで誘われているような感覚を、レンは振り払えなかった。

 通路の突き当たりに、もう一つの広間があった。最初の広間より狭い。中央に、台座のような石の構造物が据えられている。その表面にも紋様が刻まれていたが、光っていなかった。周囲の壁面が青紫に明滅する中で、台座だけが沈黙している。

 台座に近づいた瞬間、背後で空気が揺れた。

 レンは振り返った。

 通路の奥——来た方角の暗がりから、音が迫っていた。足音だ。だが人間のものではない。石畳を踏み砕くような重量と、等間隔に刻まれる四足の律動。一歩ごとに床面の結晶が震え、壁面の紋様が警告するように明滅の速度を上げた。

 浅層の三年間で聞いたどの魔物とも違う。ゴブリンの軽い足音でも、粘液種の這いずる音でもない。途方もなく大きく、途方もなく重い何かが、通路を塞ぐようにこちらへ向かっている。

 短剣の柄を握る手が、汗で滑った。退路は、ない。

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