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深層共鳴のソロハンター

第2話 第2話「沈黙した端末の残像」

第2話

第2話「沈黙した端末の残像」

目覚ましが鳴る十五秒前に、レンの目は開いていた。

 天井の染みを数える習慣は二年目の冬に始まった。十七個。昨日と同じ数だと確認して、身体を起こす。枕元の通信端末に手が伸びかけて、止めた。昨夜の光は見間違いだ。五年間沈黙した端末が、今さら何かを受信するはずがない。期待は毒だと、とうに学んでいる。

 五時十五分。顔を洗い、テーピングを巻き直し、短剣の鞘を腰に留める。安い栄養バーを一本噛み砕きながら、壁の地図に目をやった。第三層から第五層までの回廊が色分けされている。赤は魔物の出現頻度が高い区画、青は比較的安全な通路。三年かけて塗り分けたこの地図が、レンの唯一の資産だった。

 今日は第五層まで足を延ばす。査定で転職推奨を受けた翌日に浅層で魔石を拾っていては、数字はどこまでも下がり続ける。第五層なら魔石の等級が一段上がる。保険の等級維持には、最低限の討伐ポイントが要る。

 外に出ると、まだ空の端が紺色をしていた。路地裏の自販機の明かりだけが歩道を照らしている。四月の早朝は肌寒い。息が白くはならないが、革グローブの中の指先は冷えていた。

 集合ポイントに着いたのは五時二十八分。当然、誰もいない。転送門の封印はまだ解かれておらず、石造りのアーチが暗い口を閉ざしている。管理員が来るまであと三十二分。レンは門の脇の低い石壁に腰を下ろし、短剣を鞘から抜いて刃を確かめた。昨夜研いだ刃紋が、薄明の光をかすかに弾く。

 ここで待つ時間が嫌いではなかった。誰も来ない静けさの中で装備を点検する時間は、自分がまだハンターであることを確認する儀式のようなものだ。

 六時。転送門の封印が解かれ、青白い光が門の内側に満ちる。管理員の中年女性がレンを見て、小さく頷いた。名前は知らないが、三年間ほぼ毎朝顔を合わせている。何も言わない。言う必要がない。レンは門をくぐった。

 第五層。空気の質が変わる。第三層の湿った苔の匂いとは違う。ここには錆びた鉄のような、古い血のような重さが混じっている。天井が低い。松明の光が届く範囲が狭まり、壁面の岩肌が圧迫するように迫ってくる。

 通路の分岐点で《微弱感知》を起動した。意識を集中させると、半径三メートルの球形の感覚が広がる。十二秒。右の通路——反応なし。正面——壁の向こうに微かな熱源。距離は感知の限界ぎりぎり、およそ三メートル弱。ゴブリン・ソルジャーだろう。第五層の常連だ。

 レンは正面の通路に踏み込み、角を曲がると同時に短剣を振った。ゴブリンの首筋を捉え、一撃で沈める。魔石が一つ、転がり出た。色はくすんだ緑。第三層の灰色よりはましだが、やはり安い。

 三体目のゴブリンを倒した頃、異変に気づいた。

 通路の奥から漂ってくる匂いが変わっていた。ゴブリンの巣特有の獣臭ではない。酸っぱい、腐食性の刺激臭。舌の奥がぴりぴりと痺れるような空気。レンは足を止め、感知を起動した。三メートル——何もいない。十二秒が過ぎる。もう一度。何もいない。

 だが匂いは確実に近づいている。

 それは壁から来た。

 石壁の継ぎ目が、泡立つように膨張したかと思うと、灰色の粘液が染み出し、人の胴体ほどの塊が壁面から剥離した。二つの眼窩——いや、眼窩に見える窪みから、赤黒い光が灯る。粘液質の体表が蠕動し、その表面に無数の細い触腕が生えてきた。

 レンは見たことがなかった。第五層の魔物図鑑にこんなものは載っていない。

 新種——あるいは、下層から迷い込んだ個体。どちらにしても、三メートルの感知では壁の中にいる段階で察知できなかった。

 触腕の一本がレンの左肩を掠めた。灰色の粘液が革鎧の表面を焼き、酸の煙が立ち上る。一拍遅れて、灼けるような痛みが走った。

「——っ」

 短剣を横薙ぎに振るう。刃が粘液質の体表に沈み込み、だが手応えがない。斬撃が通らない。触腕が四本、五本と伸びて包囲するように展開する。

 レンは後退した。感知を起動する。十二秒の間に得られた情報——この魔物の核は体表から約二十センチ内側。短剣の刃渡りでは届かない。突きなら——いや、粘液に腕ごと飲まれる。

 退がるしかない。

 背を向けて走った。プライドなど、三メートルの感知で三年間生き延びた人間にはとうに残っていない。勝てない相手からは逃げる。それだけが、ソロの最弱が積み上げてきた生存則だった。触腕が背中をかすめ、鞄の留め金が酸で溶けて弾け飛んだ。回復薬が一本、石畳に落ちて割れる音がした。

 第五層から第四層への階段を駆け上がった。振り返ると、粘液の魔物は層境の結界線で動きを止めていた。上層には踏み込めないらしい。階段の上で膝をつき、荒い息を吐いた。左肩の鎧が半分溶けている。その下の皮膚が赤く腫れ上がり、水泡ができ始めていた。

 回復薬は残り一本。肩に振りかけると、泡立ちながら傷口を塞いでいく。痛みは残るが、動けないほどではない。

 ——三メートルでは、壁の中の敵がわからない。

 わかっていたことだ。わかっていて、三年間その範囲で戦ってきた。だが今日、初めて実感として突きつけられた。実用外と呼ばれる理由。索敵範囲の狭さは、知らない敵が現れた瞬間に致命傷になる。浅層の定番魔物だけを相手にしている限りは経験でカバーできる。しかし、一歩でも未知に踏み込めば——

 帰還ゲートをくぐったとき、時刻はまだ午前十時だった。こんな早い帰還は珍しい。精算窓口に並ぶと、桐谷が少し目を見開いた。

「御堂さん、早いですね。……肩、大丈夫ですか」

「第五層で見慣れない個体に遭った。撤退した」

 桐谷は精算を済ませながら、カウンターの下から何かを取り出した。薄い冊子。表紙には『ハンター経験を活かせる一般職ガイド』と印刷されている。

「あの、御堂さん。ソロ保険の更新、今月で最後にしませんか」

 その声には、昨日の査定官のような事務的な響きはなかった。困ったような、申し訳なさそうな、それでいてどこか切実な色が滲んでいた。

「来月から保険料が上がります。Eランクのソロ契約は、協会の統計上、継続するほど——」

「死亡率が上がる。知ってる」

「はい。ですから、その——」

 桐谷が差し出した冊子を、レンは見た。表紙の下に小さく『協会推薦・第二のキャリアを応援します』と書いてある。三年間、何度も見た文面。去年は受け取りすらしなかった。

 今日は受け取った。

 桐谷の目がわずかに揺れた。期待ではない。安堵とも違う。何かを見届けようとする目だった。

「ありがとう。読むだけ読む」

 嘘だった。だが桐谷にこれ以上心配させる言葉を持ち合わせていなかった。冊子を鞄にしまい、レンは協会を出た。

 帰り道、冊子の角が鞄の中で背中に当たっていた。歩くたびに、とん、とん、と小さく叩かれる感覚がした。

 アパートに戻り、溶けた鎧を剥がし、肩の火傷に改めて軟膏を塗る。鏡に映った上半身には、左前腕の古い三本線に加えて、左肩に新しい赤い痕が光っていた。壁の地図を見る。第五層の東回廊、壁面出現型の新種。赤いマーカーで印をつけた。次は近寄らない。

 冊子をベッドに放り投げた。目を閉じると、姉の声が聞こえる。

『まだ誰も知らないものがある』

 ——知っている。だから足を止めない。今日みたいに、三メートルの感知が通用しない日が来ることも、わかっていた。

 それでも。

 翌朝、五時十五分。レンは新しいテーピングを巻き、修繕した予備の革鎧を着込み、短剣を腰に提げて玄関を出た。冊子はベッドの上に放置されたままだった。

 集合ポイント。今日も一番乗り。石壁に腰を下ろし、短剣を確かめる。管理員が封印を解き、門が開く。いつもと同じ朝。

 今日は第七層を回る。第五層の新種を避けつつ討伐ポイントを稼ぐには、別ルートから第七層の定期周回コースに入るのが最善だった。第七層は慣れた領域だ。魔物の配置パターンも地形も頭に入っている。

 第七層、南回廊。乾いた石の通路が真っ直ぐに延び、等間隔に配置された柱が松明の影を長く引いている。空気は冷たいが乾燥していて、苔の匂いはない。代わりに鉱物質の、硬い匂いがする。

 いつもの道だ。三年間で何百回と歩いた石畳。足音の反響の仕方まで身体が覚えている。

 だから気づいた。

 レンは足を止めた。《微弱感知》を起動する。三メートルの球形が意識に展開される。十二秒。魔物の気配はない。だが——

 足の裏に、微かな振動があった。

 石畳を通して伝わってくる、極めて微細な震え。通常の歩行では絶対に感じ取れない。《微弱感知》が起動している十二秒の間だけ、かろうじて知覚できる水準。柱の根元に手を当てると、指先にも同じ振動が伝わってきた。

 第七層の定期周回ルートを三年間歩いてきて、こんな振動は一度もなかった。

 周期は不規則。断続的に強くなり、弱まり、また強くなる。何かが脈打つように。あるいは——何かが、この層のずっと下で、動いているように。

 十二秒が切れた。振動の感覚が消える。レンは石畳を見下ろした。何の変哲もない灰色の床面。目に見える異常はない。

 もう一度、感知を起動した。振動は続いていた。

 昨夜、枕元の端末が一瞬光ったことを思い出した。あれは見間違いだと切り捨てた。今度は違う。足の裏が、指先が、確かに捉えている。三メートルしか届かない最弱のスキルが、三年かけて磨き上げたこの感覚が、石の下の異変を告げている。

 レンは振動の方向を確かめるように、ゆっくりと膝をついた。冷たい石畳に掌を押し当てる。脈動は——真下ではない。南東。回廊の先、まだ歩いたことのない枝道の方角から、地中を伝ってきている。

 三メートルの外にある何かが、三メートルの内側に信号を送り込んでいる。

 レンの掌が、石畳の上でわずかに震えた。

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