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魂契のテイマー

第1話 第1話

第1話

第1話

松明の炎が揺れた瞬間、カイトは悟った——自分はここで死ぬのだと。

 第十八層の回廊は、湿った石壁が両側から圧し掛かるように狭まっていた。天井から垂れる鍾乳石の隙間を、青白い苔の光がぼんやりと照らしている。足元には数時間前に自分たちが踏み荒らした泥の足跡が残っていた。行きと同じ道。だが帰り道ではなかった。

 背後から地鳴りのような唸り声が追いかけてくる。一匹ではない。五、六——いや、もっと多い。中層に棲む灰毛の群狼だ。体高は成人の腰ほどもあり、六つの眼が暗闘の中で赤く光る。中層ボス「鉄顎の灰王」を討ち損ねたことで、統率を失った群れが散開し、逃げる獲物を追って回廊に殺到していた。

 カイトの手の中で、刃こぼれした短剣が震えている。震えているのは剣ではなく、自分の手だと気づくのに一拍かかった。

「ガルド!」

 叫んだ声は、回廊の闇に吸い込まれて返ってこなかった。

 五十歩ほど先を走っていたはずのパーティリーダーの背中は、もう見えない。松明の光が届く範囲には、カイト一人しかいなかった。

 ——嘘だ。

 足がもつれる。膝が泥に沈む。背負っていた荷物袋の重さが、急に倍になったように肩に食い込んだ。このパーティで四ヶ月。荷物持ちと雑用。それでも仲間だと、そう思っていた。

「カイト」

 声が聞こえたのは、倒れかけた体を壁に預けた直後だった。振り返ると、回廊の分岐点にガルドが立っていた。革鎧の胸当てに灰王の爪痕が走り、左腕を庇うように抱えている。その背後にはサーラとヨルグ、そしてミーナ。四人とも息が荒い。

 ガルドの顔に松明の炎が揺れ、彫りの深い顔に不規則な影を落としていた。その表情は、すでに答えが決まっている人間のものだった。

「ガルド、群狼が——」

「聞こえてる」

 ガルドの声は、いつもと同じ低く平坦な響きだった。感情を排した、判断だけの声。カイトはその声色を何度も聞いてきた。撤退を決めるときの声だ。

「サーラの回復魔力が底をついた。ヨルグの盾も罅が入ってる。このまま全員で走れば、群狼の足に追いつかれる」

「じゃあ、どう——」

「お前が残れ」

 言葉の意味を、脳が理解するのに数秒かかった。

 喉が干上がった。汗で張り付いた前髪の下で、瞳孔が開くのが自分でもわかった。残れ。囮になれ。つまり——死ね。

 ガルドは淡々と続けた。「お前のスキル、【従魔の囁き】だったな。魔獣に話しかけられるんだろう。注意を引けるはずだ。群狼の足が止まれば、俺たちは第十六層の安全地帯まで抜けられる」

「それは——」

「囮だ」

 ガルドの目には、迷いがなかった。計算だった。パーティの生存確率を最大化するための、合理的な切り捨て。Eランクの荷物持ち一人の命と、Cランク二人とDランク一人の命。天秤にかけるまでもない。

「死んだら運が悪かったと思え」

 ミーナが目を逸らした。サーラが唇を噛んだ。ヨルグは——ヨルグは最初からカイトを見ていなかった。

 カイトは何か言おうとした。喉まで出かかった言葉があった。四ヶ月分の恩義、共有した焚き火の温もり、ほんの三時間前にガルドが笑いながら分けてくれた干し肉の味。それらをすべて飲み込んで、声にならない声が口の中で溶けた。誰も待ってはくれなかった。

 四つの背中が、分岐路の闇に溶けていく。足音が遠ざかる。松明の光が小さくなり、やがて消えた。

 残されたのは、壊れかけの短剣と、泥に膝をついた十七歳の体と、背後から迫る六つ眼の赤い光だけだった。

 悲しみは、来なかった。

 代わりに胸の底から這い上がってきたのは、焼けるように静かな怒りだった。なぜ自分がここで終わらなければならないのか。四ヶ月間、誰よりも重い荷を背負い、誰よりも先に起きて火を熾し、誰よりも多くの泥を被った。その報いがこれか。暗闇の中で、獣の餌になることか。

 群狼の先頭が、回廊の曲がり角から姿を現した。

 体高はカイトの胸に届く。灰色の剛毛が松明の残り火を反射し、六つの眼が一斉にカイトを捉えた。涎が石床に落ちる湿った音。低い唸りが腹の底に響く。一匹、二匹、三匹——曲がり角から次々と身体をねじ込んでくる。七匹。回廊を埋め尽くすように、灰色の壁が迫る。

 獣の体臭が鼻を突いた。血と獣脂と腐肉の入り混じった、胃の腑がひっくり返るような臭い。先頭の一匹が低く姿勢を落とし、後肢の筋肉がぐっと盛り上がるのが見えた。跳躍の予備動作だ。逃げ場はない。背後は行き止まりに等しい暗闇。左右は石壁。正面は七匹の群狼。カイトの心臓が、肋骨を内側から殴りつけるように暴れていた。

 カイトは短剣を握り直した。刃こぼれだらけの、まともに研いでもらえなかった剣。ガルドは自分の剣には毎晩油を塗っていたのに。

「——来い」

 声は震えていた。だが足は、もう泥に沈んでいなかった。

 立っていた。

 先頭の群狼が跳んだ。カイトは横に転がり、壁に背をぶつけながら短剣を振った。手応えはない。空を切った。だが群狼の爪がカイトの左肩を掠め、革の上着が裂けて熱い痛みが走った。

 走った。考えるより先に体が動いていた。回廊を奥へ——ガルドたちが逃げた方向とは反対の、地図で「未確認」と記された方角へ。群狼の爪音が背後に迫る。石壁にぶつかり、曲がり、また走る。松明はとうに落としていた。青白い苔の光だけが頼りだった。

 左肩から腕にかけて、温かいものが袖を伝って滴り落ちるのがわかった。一歩ごとに視界が明滅する。それでも足を止めれば終わりだった。

 足元の感触が変わった。

 石の床が、妙に柔らかい。踏むたびに微かな軋みが響く。苔の光が途切れ、完全な暗闇が口を開けた。カイトは立ち止まろうとした。だが慣性と、背後の群狼の殺意が、足を止めることを許さなかった。

 次の一歩を踏み出した瞬間、世界が消えた。

 床が砕けた。足元の石が、まるで薄い氷のように崩れ落ちる。カイトの体が重力に引かれ、暗闘の奥へと落ちていく。群狼の遠吠えが、急速に頭上へ遠ざかった。

 落下しながら、カイトは不思議な静けさの中にいた。風が頬を打つ。湿った空気が肺を満たす。どこまで落ちるのかわからない。五秒、十秒——体感では永遠のように長く、実際にはおそらく数秒だったのだろう。

 背中から何かに叩きつけられた。

 衝撃が全身を貫いた。肺から空気が絞り出され、口の中に鉄の味が広がる。背骨が折れたかと思ったが、かろうじて意識がある。柔らかい——着地したのは石の床ではなかった。厚く堆積した苔と菌糸の層が、落下の衝撃をわずかに殺していた。

 だが無傷ではない。左脇腹に焼けるような痛みがある。落下の途中で突き出た岩に体をぶつけたらしい。手で触れると、指の間をぬるりと温かいものが伝った。血だ。かなりの量が出ている。

 カイトは仰向けのまま、頭上を見上げた。

 落ちてきた穴は、もう見えなかった。遥か上方に、かすかな光の点が一つ。それが第十八層の苔の光なのか、それとも意識が見せる幻なのか、判別がつかない。

 ここはどこだ。

 第十八層の地図に、こんな空洞は記されていない。ギルドが把握している最深部は第二十五層のはずだ。だがこの落下距離は、数層分どころではなかった。空気が違う。温度が違う。第十八層の湿った冷気とは異質な、生温かい空気が肌を撫でる。土と苔の下に、かすかに甘い腐敗の匂いが混じっている。生き物の巣の匂いだ——だが群狼のそれとは違う、もっと古く、もっと深い何かの気配。苔の光すらない完全な暗黒の中に、微かに何かが脈打つような低い振動が感じられた。まるで、巨大な何かの心臓の鼓動のような。地面に横たわる体の背中を通して、その律動がじかに骨に伝わってくる。

 意識が薄れていく。出血が多すぎる。このまま何もしなければ、あと数分で意識を失い、そのまま二度と目を覚まさないだろう。

 こんな場所で死ぬのか。名前も知らない暗闘の底で、誰にも知られずに。

 ——いやだ。

 まだ終われない。あの四人の背中を、もう一度見なければならない。見下ろされる側ではなく、見返す側として。

 指先で地面を掴もうとした。力が入らない。視界の端が暗く滲んでいく。

 その時、闇の奥で何かが動いた。

 足音ではない。爪が菌糸の床を引っ掻く、乾いた音。小さな——だが確かな、生き物の気配。カイトの意識が最後の一線で踏み止まる。

 暗闇の中から、二つの瞳が光った。

 金色だった。

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