第2話
第2話
金色の光が、瞬いた。
それは松明の火でも、苔の燐光でもなかった。暗闇の中で二つの瞳だけが浮かび上がり、瞳孔の奥に液体の金を流し込んだような、深く湿った輝きを放っていた。猫の目に似ている。だがもっと大きく、もっと古い——理性で測れない何かの気配を帯びていた。
カイトは動けなかった。仰向けのまま、左脇腹を押さえた指の隙間から血が溢れ続けている。痛みはもう鈍くなっていた。それが危険な兆候だと、座学で習った遠い記憶が頭の隅をよぎる。痛覚が麻痺するのは、体が諦めかけている証だ。
金色の瞳が、音もなく近づいてくる。
爪が菌糸の地面を擦る小さな音。何かの吐息。温かい——生き物の呼気が、カイトの頬にかすかに触れた。獣の臭いがする。だが群狼のような腐肉と血脂の悪臭ではなく、焦げた石と硫黄を混ぜたような、火山の記憶を思わせる乾いた匂いだった。
視界がぼやける。意識が何度目かの明滅を繰り返す中で、カイトは自分の上に覆いかぶさるように屈み込んでいる影の輪郭を、かろうじて捉えた。
竜だった。
翼がある。小さな——子犬ほどの体躯に不釣り合いなほど大きな翼が、暗闇の中で薄い膜を広げている。全身が漆黒の鱗に覆われ、闇と溶け合うように輪郭が曖昧だった。幼い。明らかに幼体だ。だがその金色の瞳に宿る光は、幼さとは相反する静謐な知性を湛えていた。
図鑑に載っていない。冒険者ギルドの魔獣図鑑はカイトが暗記するほど読み込んでいたが、漆黒の鱗を持つ幼竜など、どの頁にも記されていなかった。
竜の鼻先が、カイトの脇腹に寄せられた。
血の匂いを嗅いでいる。ひどくゆっくりと、品定めをするように。カイトの全身に最後の力で緊張が走った。食われる——そう思った。だが幼竜の反応は、捕食者のそれとは違っていた。鼻先が血に触れ、ぴくりと退いた。また近づき、今度は長い舌がちろりと血を舐めた。まるで味を確かめるのではなく、血に含まれた何かを読み取ろうとしているかのような仕草だった。
その瞬間、脳の奥で何かが弾けた。
痛みとは異なる衝撃。頭蓋の内側を指で弾いたような、鋭く短い振動がカイトの意識を貫いた。同時に、視界の端に——見えるはずのないものが浮かんだ。冒険者がスキルを使うとき、意識の裏側に浮かぶ淡い文字列。カイトの唯一のスキル、Eランクの【従魔の囁き】。魔獣の感情を微かに読み取るだけの、戦闘では何の役にも立たない力。
だが今、その文字列が明滅していた。激しく、不規則に。まるで壊れかけた灯火が最後の燃料を燃やすように、光と闇を繰り返している。
——なんだ、これは。
意識が途切れかける。幼竜がもう一度、血に鼻先を押しつけた。
暗転。
◇
目を覚ましたのは、暗闇の中だった。
何も見えない。だが、死んではいなかった。脇腹の痛みが鈍く脈打ち、背中の下に菌糸の湿った感触がある。生きている。その事実を認識するのに、長い時間がかかった。
体を起こそうとして、激痛に呻いた。脇腹の傷は塞がっていない。だが出血の勢いは幾分か収まっているように感じた。何かが——粘つく何かが傷口に張り付いている。指先で触れると、苔とも菌糸とも異なる、ざらりとした感触が返ってきた。泥? いや、違う。
暗闇に目が慣れ始めていた。完全な暗黒だと思っていたこの空間には、微かな光源があった。壁面に、第十八層のものとはまるで異なる発光体が点在している。青白い苔ではない。淡い紫色の、脈打つような光。植物なのか鉱物なのか菌糸なのか、判別がつかない。その光が緩やかに明滅するたびに、空間の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
カイトは息を呑んだ。
広い。天井が遥か頭上にあり、不揃いな鍾乳石が巨大な獣の歯のように垂れ下がっている。だがそれだけではなかった。鍾乳石の表面を、半透明の蔦のような菌糸が覆い、紫の光を脈打たせながら天井全体に網目を広げている。地面は柔らかい苔と菌糸の層で覆われ、所々に膝丈ほどの茸が群生していた。茸の傘は黒く、縁だけが薄い燐光を帯びている。空気には甘い腐敗と硫黄の匂いが混じり、湿度が高い。遠くで水が流れる音がする——だがそれは水ではないかもしれなかった。何かもっと粘度の高い液体が、岩壁を伝って流れ落ちている気配。
第十八層とは、何もかもが違う。
既知の二十五層までのどの階層とも、共通点が見出せない。魔獣図鑑にも、ギルドの資料にも、こんな生態系は記載されていなかった。ここは地図の外だ。冒険者が足を踏み入れたことのない、未踏の領域。
紫の光の中で、カイトは自分の傷口を見下ろした。脇腹に張り付いていた「何か」の正体がわかった。黒い鱗の欠片だ。小さな——爪の先ほどの漆黒の鱗が数枚、血に濡れた傷口の上に貼り付けられていた。まるで絆創膏のように。
幼竜の鱗だった。
記憶が蘇る。あの金色の瞳。血を舐めた舌。脳の奥を走った衝撃。カイトは周囲を見回した。幼竜の姿はない——と思った直後、視界の隅で何かが動いた。
三歩ほど離れた茸の陰に、漆黒の小さな影がうずくまっていた。翼を体に巻きつけるようにして丸まり、金色の瞳だけがこちらを見ている。
敵意はなかった。
カイトにはわかった。スキルのおかげではない。いや、あるいはスキルの残滓がそう感じさせているのかもしれないが——幼竜の瞳に浮かんでいるのは警戒と、かすかな好奇心。そして、それとは別の何か。群れの中にいる獣には見られない、孤立した生き物だけが持つ種類の静けさだった。
この幼竜は——一匹でここにいる。
カイトは口を開こうとした。声が掠れた。喉が焼けるように渇いている。唇が割れ、舌が口蓋に張り付く。
「——お前が、助けたのか」
声にならない声。だが幼竜の耳が、ぴくりと動いた。
カイトは動けなかった。体を起こすことすら困難だ。脇腹の傷は鱗で押さえられているとはいえ、失血の影響で四肢に力が入らない。這って移動することは辛うじてできるかもしれないが、この状態では茸の一本を折ることもままならない。
出血が止まらなければ、いずれ意識を失う。そうなれば今度こそ終わりだ。
幼竜が、不意に顔を上げた。
金色の瞳がカイトを真っ直ぐに見据えた。茸の陰から、小さな体がゆっくりと這い出してくる。漆黒の鱗が紫の燐光を反射し、油膜のような虹色の光沢を一瞬だけ見せた。
幼竜はカイトの傍らまで来ると、再び鼻先を傷口に寄せた。
脳の奥が、また震えた。
今度は先ほどより強い。頭蓋骨の内側で鐘を打ち鳴らされたような衝撃。意識の裏側に浮かんでいた【従魔の囁き】の文字列が、激しく点滅し——砕けた。文字が散り、光の粒子になって渦を巻き、再構成されていく。
視界が白く染まった。全身の血が沸騰するような熱さと、骨の髄まで凍るような冷たさが同時に押し寄せる。カイトは声にならない悲鳴を上げ、菌糸の地面を掻きむしった。
そして——沈黙。
白い光が退いた後、意識の裏側に浮かんでいたのは、見たことのない文字列だった。
【魂魔契約(ソウルテイム)】。
Sランク。
脇腹の痛みが、遠のいていた。傷口に張り付いていた黒い鱗が淡く発光し、止まらなかったはずの血が——凝固し始めている。幼竜の体もまた、微かに震えていた。金色の瞳が細められ、小さな口から白い息が漏れる。まるで、自分の生命力の一部を差し出したかのように。
カイトは震える手を伸ばした。
指先が、幼竜の額に触れた。鱗は思ったよりも温かかった。その温もりが指から腕へ、腕から胸へと伝わり、凍えていた体の芯にゆっくりと沁みていく。幼竜は逃げなかった。金色の瞳を閉じ、小さな額をカイトの掌に押しつけた。
闇の底で、二つの孤独が触れ合った。
カイトの意識の端に、感情の残響のようなものが流れ込んできた。言葉ではない。映像でもない。もっと原始的な——温度のようなもの。孤独の冷たさ。飢えの苦さ。そして、別の生き物の体温に触れたときの、名前のつかない安堵。
この幼竜もまた、独りだったのだ。
なぜ群れからはぐれたのか。なぜこの未踏の暗闇で独り生きていたのか。それはまだわからない。だが今この瞬間、互いの血と命を介して結ばれた絆が、確かにここにある。カイトにはそれだけで十分だった。
「——ノクス」
名前が、自然と唇からこぼれた。闇を意味する古語。この漆黒の幼竜にはそれ以外の名前が思い浮かばなかった。
幼竜が——ノクスが、金色の瞳を開いた。
その瞳の奥で、何かが応えるように瞬いた。名前を理解したのか、それとも契約の絆を通じてカイトの意図を感じ取ったのか。ノクスは小さく喉を鳴らし、カイトの手の下で身を丸めた。
脇腹の痛みは、もうほとんど感じなかった。出血は完全に止まっている。体の底から微かに、だが確実に力が戻り始めていた。
カイトは天井を見上げた。紫の菌糸が脈打つ、見知らぬ世界の天蓋。ここがどれほど深い場所なのか、地上までどれだけの距離があるのか、何もわからない。だが一つだけ、確かなことがあった。
もう独りではない。
掌の下で丸くなったノクスの体温を感じながら、カイトは初めて、この底知れぬ暗闇の中で息をつくことができた。しかし安堵は長くは続かなかった。紫の燐光の向こう——空洞の奥深くから、地面を伝わる低い振動が返ってきた。何かが動いている。幼竜一匹で棲めるほど、この未踏層は甘くない。
ノクスの耳が、鋭く立った。金色の瞳が、闇の奥を射抜くように細められる。
カイトの背筋を、新しい種類の怖気が這い上がった。