第3話
第3話
振動が近づいてくる。
規則的だった律動が崩れ、不均一な間隔で地面を揺らし始めていた。何かが這っている——いや、掘り進んでいる。菌糸の層の下、岩盤そのものを軋ませながら移動する巨大な質量の気配。カイトの背中に、地面越しの振動がじかに伝わる。骨の芯まで響くような、低く重い震え。歯の根が合わなくなるほどの圧が、頭蓋の内側にまで染み込んでくる。
ノクスが低く唸った。
幼竜の体が硬直し、漆黒の鱗が逆立つように微かに浮き上がる。金色の瞳が闇の一点を睨み据えた。その視線の先——空洞の奥壁付近で、紫の菌糸が不自然に明滅している。脈打つリズムが速まり、まるで警告を発するかのように激しく点滅していた。
逃げなければ。
カイトは体を起こそうとした。脇腹の痛みは鈍く残っているが、さっきまでの致命的な出血は止まっている。四肢に力を込める。腕が震え、膝が笑い、それでも地面に手をついて上体を持ち上げた。指先が菌糸の地面にめり込み、ぬるりとした感触が爪の間に入り込む。
その瞬間、意識の裏側で何かが弾けた。
視界が二重になった。自分の目で見ている暗闇と、もう一つ——もっと鮮明で、もっと広い視野が重なるように被さってくる。色が違う。紫の燐光がもっと明るく、壁面の凹凸の一つ一つまで読み取れるほど鮮烈に映る。匂いが流れ込んでくる。菌糸の甘い腐敗臭の奥に、硬質な鉱物の匂いと、湿った土と、それから——生き物の体液の、酸い刺激臭。
ノクスの感覚だった。
契約の絆が、幼竜の五感をカイトの意識に流し込んでいる。視覚だけではない。聴覚も、嗅覚も。ノクスが捉えている世界が、カイトの知覚に上書きされるように重なっていた。圧倒的な情報量に眩暈がする。だが同時に、暗闇が暗闘でなくなった。ノクスの目を通せば、この空洞の全容が見えた。
奥壁の菌糸が裂けた。
岩盤を突き破って現れたのは、甲殻に覆われた巨大な節足だった。人の太腿ほどもある脚が菌糸の地面を掻き、続いて扁平な頭部がねじ込まれてくる。無数の触角が空気を探り、半透明の複眼が紫の光を反射してぬらりと光った。体長は三間を優に超える。全身を覆う甲殻が、岩と見紛うほどの灰褐色をしていた。蟲だ。だが既知のどの階層にも、こんな蟲は棲息していない。
ノクスの感情が流れ込んでくる。言葉ではなく、もっと原始的な色彩を帯びた感覚として。警戒の鋭い黄色。嫌悪の暗い紫。そして——この蟲を知っている、という既視の感触。幼竜はこの層で生きてきた。この蟲がどう動き、何を喰い、どこが危険かを本能で理解している。
ノクスの体が動いた。
カイトの手の下からするりと抜け出し、翼を低く畳んだまま地面を這うように走る。三歩ほど進んで振り返り、金色の瞳でカイトを見つめた。ついて来い——そう言っている。言葉ではなく、契約の絆を通じた意志の奔流として。
カイトは這った。立ち上がる力はまだない。両肘と両膝で菌糸の地面を掻きながら、ノクスの後を追う。脇腹に鈍い痛みが走るたび、幼竜の方から温かい何かが流れ込んでくる。痛みが和らぐのではない。痛みはある。だがそれを耐えるための力が、契約の絆を通じて注がれている。
背後で、蟲の顎が菌糸の地面を噛み砕く音がした。湿った咀嚼音。地面ごと喰っている。カイトが横たわっていた場所を、巨大な甲殻蟲が無造作に踏み潰しながら通過していく。二匹目の脚が岩壁の裂け目からねじ出てきた。群れだ。
ノクスが壁面の窪みに滑り込んだ。カイトも続く。人一人がかろうじて身を隠せる程度の窪み。膝を抱え、息を殺した。ノクスがカイトの腹の上に身を丸めるように乗り、翼を広げて覆いかぶさった。漆黒の鱗が周囲の闇に溶け込み、二人の輪郭を暗闇に同化させる。幼竜の心臓の鼓動が、腹越しにカイトの体に伝わっている。速い。自分と同じくらい、速い。
甲殻蟲の群れが、目の前を通過していく。
地面が断続的に揺れる。触角が空気を探るしゃわしゃわという音。甲殻が擦れ合う乾いた軋み。一匹の触角が窪みの縁を掠めた。カイトの心臓が跳ね上がる。呼吸を止めた。指先が冷たくなり、視界の端が暗く滲む。触角は数秒間そこに留まり——そして通り過ぎた。
長い時間が経った。体感では一時間にも感じたが、おそらく実際には十分ほどだったのだろう。最後の甲殻蟲の足音が遠ざかり、振動が止んだ。
静寂が戻る。
カイトは浅く息を吐いた。全身が強張っている。ノクスが翼を畳み、カイトの腹の上で小さく身を震わせた。
その震えを通じて、また感覚が流れ込んできた。
今度は五感ではなかった。記憶だった。
断片的で、像が歪んでいる。だがカイトの脳裏に、ノクスが見てきた光景が滲むように広がった。暗闇の中の巨大な影——親竜だろうか。漆黒の鱗を持つ、遥かに大きな竜の姿。その傍らに寄り添う複数の幼体。そして、群れから弾かれるように闇に押し出された一匹の記憶。理由はわからない。ただ、置いていかれた。振り返っても、もう誰の背中も見えなかった。
カイトの喉が詰まった。
同じだった。
仲間の背中が闇に消える瞬間。振り返っても誰もいない暗闇。それを知っている者同士が、この底知れない迷宮の最深部で出会った。偶然と呼ぶには出来すぎている。だが必然と呼ぶほど、世界は優しくない。
「——お前も、独りだったんだな」
声は掠れていた。だが今度は、声になった。
ノクスが顔を上げた。金色の瞳がカイトを映し、ゆっくりと瞬いた。契約の絆を通じて、温かい感情の波が返ってくる。肯定でも否定でもない。ただ、ここにいる、という静かな主張。
カイトは窪みの壁に背を預け、脇腹に手を当てた。黒い鱗が張り付いた傷口は、もう痛みがほとんどない。恐る恐る鱗の端をめくると、その下の皮膚は薄い瘢痕を残して塞がりかけていた。数時間前には内臓が見えかけていたはずの傷が、だ。
生命力の共有。【魂魔契約】の力が、ノクスの生命力をカイトの肉体に注ぎ込んでいる。だがそれは一方的な恩恵ではないはずだ。ノクスの小さな体がさっきから微かに震えているのは、寒さのせいではない。自分の命を分け与えた代償だ。
カイトは掌をノクスの背に置いた。鱗の温もりが指に伝わる。一枚一枚が小さく、滑らかで、指の腹に吸いつくような質感があった。契約の絆を通じて、意識を向ける。何を伝えたいのか自分でもわからなかった。ただ、この幼竜にこれ以上無理をさせたくないという感情だけが、絆を伝ってノクスに流れた。
ノクスが小さく喉を鳴らし、カイトの掌に額を押しつけた。
窪みの外では、紫の菌糸が何事もなかったかのように静かに脈打っている。甲殻蟲の群れが通過した跡には、地面が抉られた溝が走り、噛み砕かれた岩の破片が散乱していた。
あの群れがまた来る。次は隠れられないかもしれない。
ここにいては、死ぬ。
カイトは窪みから身を乗り出し、頭上を見上げた。落ちてきた穴は遥か上方にあるはずだが、紫の光が届く範囲には天井の影しか見えない。仮に穴が見つかったとしても、この体で垂直の壁を登れるはずもなかった。
別の道を探すしかない。この未踏の層のどこかに、上層へ繋がる通路があるかもしれない。あるいは——ないかもしれない。だがここで蹲って救助を待つという選択肢は、最初から存在しなかった。ガルドが言ったではないか。カイトを囮にした、あのガルドが。
——助けを待つ側は、もう終わりだ。
皮肉なことに、その言葉だけは正しかった。
カイトは壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。膝が震え、脇腹が鈍く疼く。だが立てた。二本の足で、立っている。
ノクスがカイトの足元に寄り添い、見上げた。金色の瞳に、紫の燐光が映り込んでいる。
「行こう」
カイトはノクスに右手を差し伸べた。幼竜は一瞬だけ首を傾げ、それからカイトの腕を翼の爪で掴み、肩まで這い上がった。小さな体の重みと温もりが、右肩にじかに伝わる。契約の絆が脈打ち、ノクスの鼓動とカイトの鼓動が、一瞬だけ同じ拍を刻んだ。
空洞の奥へ、紫の光が脈打つ闘の奥へ、カイトは最初の一歩を踏み出した。地図にない道を、図鑑にない竜と共に。
足の裏に伝わる振動が、また遠くで蠢き始めていた。