第1話
第1話
「テイマーランクE――据え置き」
査定官の声が、ギルドホールの喧騒に溶けて消えた。周囲のハンターたちが一瞬だけ視線を寄越し、すぐに興味を失くしたように顔を背ける。誰かが仲間と肘で突き合い、小さく何か囁いたのが耳に届いたが、レンは聞こえないふりをした。灰宮レンは受け取った査定票に目を落とした。総合評価欄に並ぶ文字列は、半年前とまったく同じだった。契約魔物数:一。契約魔物ランク:F。探索実績:低層のみ。推定戦闘貢献度:極低。 五回目のE据え置きだ。もう驚きもしない。 査定窓口を離れ、ホールの端に設置されたパーティ募集掲示板の前に立つ。羊皮紙が何枚も重なった板面を指でなぞり、空きのある募集票を探す。中層攻略パーティ、Cランク以上。深層偵察チーム、Bランク以上。臨時護衛任務、戦闘経験三年以上——どれ一つとしてレンの入る隙間はなかった。 それでも、と小さく息を吐いて自分の名前を募集欄の末尾に書き加える。灰宮レン、Eランクテイマー、契約魔物スライム一体。書き終えた瞬間、背後で誰かが鼻で笑った気がした。 足元で、透明な粘体がぷるりと揺れた。体長は握り拳ほど。薄い青色の核が中心で明滅している。スライムの「ヌル」。ギルド登録簿において最弱と分類される魔物であり、レンが唯一契約を結んでいる相棒だった。 「行くぞ、ヌル。今日も三階だ」 ヌルが応えるように、ぴょこんと一度跳ねた。
迷宮の入口は街の中心広場から地下へ続く大階段だ。壁面に埋め込まれた魔石灯が青白い光を投げかけ、湿った石段を照らしている。朝の時間帯は中層以深を目指すパーティで混み合うが、レンが向かう三階ともなれば誰ともすれ違わない。新米が卒業する練習場、それが低層の位置づけだった。 三階に降り立つと、黴とite石の混じった匂いが鼻腔を満たす。天井が低く、松明の炎が壁面の水滴を橙色に染めている。足元には苔が薄く広がり、踏むたびに湿った音を立てた。 角を曲がった先の小部屋に、ゴブリンの残党が三体いた。他のパーティが素通りした掃除残しだ。体高は腰ほど、緑灰色の肌に赤い目。手にした棍棒を振り回しながら、甲高い威嚇声を上げている。 「ヌル、足元」 短く指示を出すと、ヌルがレンの足元から滑るように地面を這い、先頭のゴブリンの足首に張りつく。粘体が靴代わりの獣皮を溶かし、バランスを崩したゴブリンが転倒する。その隙にレンが踏み込み、腰の短剣を抜いて首筋を一閃した。刃が肉を断つ鈍い感触が手のひらに伝わる。返り血が頬にかかり、生温かさに一瞬顔をしかめた。残り二体が怯んだ一瞬の間にもう一体を仕留め、最後の一体はヌルが粘液で視界を塞いだところに止めを刺す。 息が上がる。たった三体のゴブリンに、だ。膝に手を当て、荒い呼吸を繰り返す。額から垂れた汗が顎の先から石畳に落ち、ゴブリンの黒い血と混じった。もっと強いテイマーなら、この程度の相手に剣すら抜かない。契約魔物だけで片がつく。レンにはそれができない。ヌルの戦闘力では限界があり、結局は自分の腕と脚で補うしかなかった。 戦闘が終わると、レンは壁に背を預けてしばらく呼吸を整えた。冷たい石壁の感触が、汗ばんだ背中に心地よかった。魔石を回収する。小さく、濁った低品質の石が三つ。換金すれば一食分にもならない。 「……まあ、いつものことだ」 ヌルが足元に戻り、レンのブーツに寄り添うようにくっつく。その仕草がどこか労わるようで、レンは苦く笑った。 ギルドの換金窓口で受け取った報酬は、銅貨十二枚。窓口の職員が何も言わなかったのがかえって堪えた。哀れみすら向けられない存在。それがEランクテイマーの現実だった。 帰り際、掲示板を確認する。朝書き加えた自分の名前の横に、誰かが赤い線を引いて消していた。「Eランク不可」と走り書きが添えてある。インクがまだ乾ききっていなかった。ほんの数時間前に書かれたのだろう。レンの名前を見て、わざわざ線を引きに来た誰かがいる。その手間をかけるほどには、自分の存在は目障りだったらしい。 レンは黙ってホールを出た。ヌルだけが、変わらず肩の上で揺れていた。
狭い借間に戻ると、レンは上着を脱ぎ、唯一の椅子に腰を下ろした。窓のない部屋だ。壁に掛けた古い魔石灯だけが、薄暗い室内をぼんやりと照らしている。 机の引き出しから、一冊の手記を取り出す。革表紙は色褪せ、角がほつれている。開くたびに微かに覚える、柑橘と薬草を混ぜたような匂い。姉の匂いだった。五年経ってもまだ残っているのが不思議だったが、頁を繰るたびに少しずつ薄くなっていることにも気づいていた。いつかこの匂いも完全に消える。その前に、姉を見つけなければならない。 灰宮ユイ。かつてBランクテイマーとして名を馳せた姉は、五年前にこの迷宮で消息を絶った。ギルドは半年の捜索の末に死亡認定を下し、以来誰もユイの名を口にしない。レンがテイマーになったのは、姉を探すためだ。才能がないことは最初からわかっていた。それでも迷宮に潜る資格が必要だった。 手記の頁を繰る。姉の筆跡は几帳面で、迷宮の構造や魔物の生態が事細かに記録されている。だが後半に進むにつれ、記述は理論的な仮説へと変わっていく。 「従来のテイム術は魔物の意思を上書きする技術であり、それゆえにランクの壁が存在する。だが迷宮の設計思想は、本来そうではなかったのではないか——」 何度も読み返した箇所だ。ユイは独自の契約理論を組み上げようとしていた。テイム術の根本に疑問を持ち、迷宮そのものの成り立ちに遡ろうとしていた。ギルドの学術部門はその理論を「証拠なき空論」と退け、ユイは単独で検証に向かった。そして、帰ってこなかった。 ヌルが机の端に登り、手記の頁をぷにぷにと叩いた。レンが手を止めてそちらを見ると、ヌルの核がいつもより強く明滅している。まるで何かを訴えるように。 「わかってる。今日も読むよ」 手記の最後の数頁を開く。ここだけ筆圧が変わっている。急いで書いたのか、文字が乱れている箇所もある。 「第四十二層に、テイマーにしか開かない扉がある。私はそこへ行く」 それが姉が残した最後の記述だった。日付は五年前の秋。以降の頁は白紙のまま、永遠に続きが書かれることはなかった。 レンは手記を閉じ、机の上に広げた迷宮の地図に視線を移す。ギルド公認の地図は四十層までしかカバーしていない。四十一層以深は「未踏域」とされ、大規模攻略戦でしか立ち入りが認められていない。Eランクのレンが正規ルートで四十二層に到達することは、事実上不可能だった。 だが、と手記を開き直す。姉は途中の頁に、公式地図にはない横穴や隠し通路の存在を複数記録していた。そのうちの一つ、十二層付近に記された走り書き——「壁面の亀裂、風あり。未記録空間の可能性」。 レンは地図の十二層に赤い印をつけた。鉛筆の先が紙の上で止まる。 Eランクの自分が十二層に潜ること自体がギルド規定違反だ。発覚すれば資格剥奪もあり得る。それでも、五年間この手記だけを頼りに潜り続けてきた。パーティに入れず、査定で笑われ、報酬は一食分にも届かない日々を耐えてきたのは、ここに書かれた言葉があったからだ。 ヌルが肩に飛び乗り、頬にひんやりとした感触を押しつけてくる。冷たい粘体の温度が、火照った肌に染みるように広がった。こいつだけはいつもそばにいる。査定官にも、パーティのリーダーたちにも、ギルドの職員にも見放されたこの五年間、ヌルだけが一度もレンから離れなかった。 「……明日、十二層に行く」 声に出すと、腹の底にわだかまっていた重さが少しだけ軽くなる気がした。地図に引いた赤い線を指でなぞる。十二層の壁面、亀裂、風。その先に何があるのか。姉が見たものと同じ景色が待っているのか。 魔石灯が一度だけ瞬いた。ヌルの核が、それに応えるように青く光る。テイマーにしか開かない扉。最弱の烙印を押されたテイマーに、その資格があるのかどうかはわからない。 それでもレンは、地図を丁寧に畳んで懐にしまった。明日、迷宮に潜る。いつもと同じように。けれど、いつもとは違う階へ。