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最弱テイマーの魂鎖盟約

第2話 第2話

第2話

第2話

十二層への道は、レンが知る迷宮とは別の顔をしていた。

 七層を過ぎたあたりから空気が変わる。低層に漂う黴とite石の匂いが薄れ、代わりに鉄錆びた重い気配が鼻の奥にまとわりつく。壁面の魔石灯は数が減り、間隔が広がるごとに闇の濃度が増していく。松明の炎が照らす範囲だけが世界の全てになる感覚を、レンは久しぶりに味わっていた。

 九層で中層パーティとすれ違った。四人組の剣士と魔導士の混成チームが、血に汚れた装備を引きずって上がってくる。すれ違いざま、焦げた革鎧の匂いと、その下に滲む甘い血の臭気がレンの鼻を突いた。先頭の男がレンの肩の紋章——Eランクを示す灰色の刺繍——をちらりと見て、怪訝な顔をした。

「おい、ここ九層だぞ。迷ったのか」

「いえ、少し先の階で採取依頼がありまして」

 咄嗟に嘘をついた。声が上擦らないよう、意識して息を整える。男は鼻を鳴らしただけで通り過ぎていった。連れの一人が「Eランクがこんなとこまで来んなよ」と吐き捨てたのが背中に刺さったが、レンは足を止めなかった。ヌルが肩の上で小さく震えた。怒っているのか、怯えているのか。レンは視線を落とさず、前だけを見た。どちらにせよ、ここで引き返す選択肢はなかった。

 十層、十一層と階段を降りるたびに、松明の消費が早くなる。魔力を帯びた大気が炎を圧迫しているのだ。十一層の階段は他と造りが違った。段の一つひとつが深く、踏み面の石がすり減っていない。ここまで降りる者が少ない証拠だった。予備を含めて三本。帰路の分を差し引けば、十二層での探索に使える時間は限られていた。

 十二層に足を踏み入れた瞬間、ヌルが肩から降りてレンの首筋にしがみついた。核の明滅が不規則に速まっている。レンの手がヌルの表面を軽く撫でる。冷たい粘体が指先に吸いつき、微かに脈動した。

「大丈夫だ。すぐ済む」

 声は自分を安心させるためでもあった。

 手記を取り出し、姉が記した走り書きを確認する。「十二層、東回廊の第三分岐を右。行き止まりの壁面、下部に亀裂。風あり」。文字の横に、簡素な図が添えてある。壁の模様と亀裂の位置関係を示したものだ。几帳面な姉にしては粗い描写で、現場で急いで書き留めたことが窺えた。

 東回廊は十二層の中でも人気のない区画だった。魔物の出現率は低いが、採取できる鉱石も乏しく、わざわざ足を運ぶ理由がない。だからこそ、姉はここに目をつけたのだろう。人の目がない場所でなければ、未記録の横穴を調査することなどできない。

 第三分岐を右に折れると、通路は急に狭くなった。大人二人が並んで歩けるかどうか。天井も低い。松明を掲げると、壁面には風化した彫刻の痕跡が見えた。規則的な幾何学模様。迷宮の上層部にはない意匠だ。誰が、何のために刻んだのか。レンの指先が彫刻の溝をなぞる。石は冷たく、乾いていた。低層の湿った壁とは質が違う。

 行き止まりに辿り着いた。

 手記の図と壁面を見比べる。五年の歳月が経過しているはずだが、壁の模様は姉の描写と一致していた。だが亀裂が見当たらない。レンは松明を低く構え、壁の下部を照らした。苔と砂埃が堆積し、石材の継ぎ目を埋めている。

 膝をつき、短剣の柄で壁の下端を軽く叩く。硬い石の音。少しずらして叩く。同じ音。さらにずらす——音が変わった。わずかに軽い反響。空洞を叩いた音だ。

 短剣の先で堆積物を丁寧に削り始めた。砂埃が舞い、松明の灯りの中で金色に光る。こびりついた苔を剥がすと、その下に石材の亀裂が現れた。幅は指二本分ほど。手記にあった通りの位置だった。

 レンは顔を亀裂に近づけた。微かな風が肌を撫でる。冷たく、乾いた風だ。十二層の空気とは異なる匂いを含んでいた。錆でも黴でもない、もっと古い——土の奥深くに長い時間閉じ込められていた空気特有の、無機質な重さがあった。

「姉さんも、ここに立ったんだな」

 声が壁に吸い込まれて消えた。五年前、姉はこの同じ壁に手を当て、同じ風を頬に受けたのだ。そう思うと、石の冷たさの中にかすかな温もりを探してしまう自分がいた。

 手記を再び開く。この亀裂について、姉はもう一つ記述を残していた。走り書きの下に、さらに小さな文字で書き加えられた一行。最初に読んだときは判読できなかったが、何十回と眺めるうちにようやく解読できた文字列だ。

「亀裂の奥、推定三十メートルで空間が広がる。魔力反応あり。通常階層と異なる波長。要再調査」

 再調査。姉はこの亀裂の先を確認するつもりだったのだ。だがこの記述のあとに続くのは、あの最後の文章——「第四十二層に、テイマーにしか開かない扉がある」——だけだった。亀裂の先と四十二層の扉。姉の中で、その二つは繋がっていたのだろうか。

 レンは短剣を亀裂の縁に当て、堆積物をさらに広く削った。亀裂の全容が露わになる。壁の下部を横に走る裂け目は、幅こそ狭いが長さは一メートル近い。そして削った端の部分で、亀裂は上方向にも分岐していた。壁面を這う細い線が、人の背丈ほどの高さまで伸びている。亀裂ではなかった。扉だ。石材を組み合わせて巧妙に隠された、通路の入口。

 レンは立ち上がり、扉の輪郭を確認した。継ぎ目は精巧に処理されており、堆積物を除去しなければ肉眼では判別できない。ギルドの調査隊がこの通路を見落とした理由が理解できた。壁そのものに見える。

 扉に手を置くと、ヌルが核を強く明滅させた。表面が波打ち、レンの首筋に巻きつく力が増す。明らかな警告だった。

「わかってる。今日は開けない」

 そう言いながら、レンは扉の縁を指先でなぞっていた。石の継ぎ目に微かな凹凸がある。指の腹に伝わるその起伏は、装飾ではなく何かの文字列のようにも思えた。手記の後半に姉が記録していた「迷宮の設計思想」を思い出す。ユイは、迷宮が単なる自然洞窟の変異ではなく、何者かの意図を持って構築された人工物である可能性を示唆していた。この扉の精巧さは、その仮説を裏づけるものに思えた。

 松明が一度大きく揺れた。火が弱い。予備に替えなければ帰路が危うくなる。レンは手記に今日の発見を書き加え——亀裂の正体は隠し扉であること、扉の寸法と位置、風の方向と強さ——懐にしまった。

 帰り支度をしながら、扉の前にしゃがみ込む。短剣で削った堆積物を元の位置に戻し、亀裂を再び覆い隠す。誰かに見つかれば、ギルドの調査が入る。そうなれば、Eランクのレンが十二層に無断で潜った事実も露見する。

 立ち上がった瞬間だった。

 風が、変わった。

 それまで亀裂から一定の速度で流れていた空気が、ふっと止まり、次の瞬間、明確な意思を持ったかのように強くなった。堆積物で覆い直したはずの亀裂から、砂埃を吹き飛ばして冷たい風が噴き出す。松明の炎が大きく煽られ、通路に影が踊った。

 ヌルがレンの首筋から離れ、亀裂の前に降り立った。核が青白く光り、粘体の表面が針のように逆立つ。レンはヌルのこの反応を見たことがなかった。警告ではない。これは——反応だ。亀裂の向こう側の何かに、ヌルが共鳴している。

 風の中に、かすかな音が混じっていた。耳の奥で鳴る低い振動。音というより、骨を通じて伝わる波動に近い。迷宮が呼吸しているような、途方もなく巨大な何かの脈拍のような律動。レンの胸の奥で心臓がその律動に引きずられるように跳ね、背筋に冷たいものが走った。恐怖とは違う。もっと根源的な、未知に触れたときの身体の反応だった。

 レンは亀裂に目を凝らした。砂埃が吹き飛んだ隙間の奥、松明の灯りが届かない暗闇の中に——風の流れが見えた。魔力を含んだ空気が渦を描いている。薄い青緑の燐光が明滅し、通路の奥へと続いていた。

 手記を握る指に力がこもる。姉が見たのはこの光景だったのか。この風を受けて、ユイはさらに奥へ進む決断をしたのか。

 松明がまた一つ短くなった。帰らなければならない。今日のところは。

 レンは砂埃をかき集めて亀裂を塞ぎ直し、立ち上がった。ヌルを肩に乗せ、来た道を引き返す。十二層の東回廊を歩きながら、懐の手記の重みを感じていた。

 隠し扉。その奥の空間。魔力を帯びた風。姉の仮説が正しければ、あの先には通常の階層構造から外れた未記録の領域が広がっている。十二層の壁の裏側に、誰にも知られていない迷宮がもう一つ眠っている。

 ヌルの核が、帰路の間もずっと青く光り続けていた。まるであの風のことを忘れるなとでも言うように。

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