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最弱テイマーの魂鎖盟約

第3話 第3話

第3話

第3話

翌日、レンは三本の松明と予備の火打石、携帯食料を二食分詰めた背嚢を担いで迷宮に潜った。

 十二層までの道のりは昨日と同じだった。九層で別のパーティとすれ違い、十層からは人の気配が途絶え、十一層の深い段差を一つずつ降りる。違ったのはレンの足取りだった。昨日は探るように進んだ道を、今日は迷いなく歩いている。東回廊、第三分岐を右。狭まった通路の先、行き止まりの壁。堆積物をかき分けると、昨日と同じ亀裂——隠し扉の輪郭が現れた。

 扉の縁に指をかける。石材の継ぎ目に爪を差し込み、力を入れると、予想に反してわずかに動いた。重い石の軋みが通路に響く。五年前に姉が開けたとき、すでに動く状態にしてあったのかもしれない。レンは背嚢を降ろし、両手で扉の端を押した。腰を入れ、足裏で地面を蹴る。石が石を擦る低い音とともに、扉が拳一つ分ずれた。隙間から風が吹き込み、松明の炎を激しく揺らす。昨日と同じ冷たい風。だが今日はその中に、かすかな甘さが混じっていた。花でも果実でもない、嗅いだことのない種類の甘さだ。

 さらに押す。扉が人一人通れるほどの幅まで開いた。向こう側は闇だった。松明を差し入れると、狭い横穴が緩やかに下降しながら奥へと伸びている。壁面は滑らかに削られ、天井の高さは頭上に拳二つ分ほどの余裕がある。自然にできた穴ではなかった。明らかに掘削された通路だ。

「行くぞ、ヌル」

 ヌルが肩の上で一度震え、それからレンの首筋に密着した。核の明滅は速いが、昨日のような逆立ちはない。覚悟を決めた、とでもいうように。

 横穴に足を踏み入れた。

 通路は十メートルほど直進した後、緩やかに右へ曲がっていた。壁面に手を当てながら進む。石の質感が十二層とは異なる。表面に微かな温もりがあり、指の腹に伝わる振動は昨日亀裂越しに感じた律動と同じものだった。迷宮の脈拍。壁そのものが生きているような錯覚に、レンは何度か手を離しかけた。だがその都度、姉もこの壁に触れたはずだと思い直し、指を当て続けた。

 二十メートルを過ぎたあたりで通路の傾斜がきつくなった。足元の石が湿り始め、靴底が微かに滑る。松明を低く構えて足元を照らすと、石材の表面に水ではない液体が薄く膜を張っていた。青みがかった透明な液体。触れると指先がぴりぴりと痺れた。魔力を含んだ水——迷宮の上層では見たことがない。

 三十メートル。姉の手記に書かれた距離だ。レンは足を止めて前方を照らした。通路はここで終わっていた。だが行き止まりではない。床が途切れているのだ。松明の灯りが照らす範囲では底が見えない。暗い穴が口を開け、下方から湿った風が吹き上げてくる。

 穴の縁にしゃがみ込み、壁面を確認する。縁に沿って、手がかりになりそうな凹凸が規則的に並んでいた。梯子の代わりだ。誰かが——おそらく姉が——ここを降りたのだ。

 レンは背嚢の紐を締め直し、松明を口にくわえて凹凸に手をかけた。一段目、二段目。手がかりは確かだが、青い液体で滑りやすい。慎重に体重を移しながら降りる。ヌルが首筋から背中に回り込み、背嚢の隙間に体を押し込んだ。

 七段目で、足元の感触が変わった。

 凹凸の一つに足を乗せた瞬間、石が沈んだ。罠ではない。経年劣化だ。手がかりの石材が内側から崩れ、粉のように散った。足場を失ったレンの体が壁面から離れる。咄嗟に上の凹凸を掴もうとした右手が空を切り、背中から闇の中へ投げ出された。

 松明が口から離れ、炎の残像が視界の中で回転した。

 落ちている。

 背中に叩きつけられる風圧で距離を測ろうとしたが、方向感覚が消えていた。上も下もない暗闇の中を、体が無秩序に回転しながら落下していく。背嚢の中でヌルが激しく脈動しているのが背中越しに伝わった。

 そして——落下は終わった。

 硬い地面ではなかった。体を受け止めたのは、厚い苔のような何かだった。衝撃は全身に広がったが、骨が折れるほどではない。仰向けに倒れたまま、レンは暗闇の中で激しく息をついた。肺が焼けるように熱い。全身が鈍く痛む。だが動ける。指が動く。首が回る。

 背嚢からヌルが這い出し、レンの胸の上に乗った。核が青白く光り、その光だけが周囲をわずかに照らしている。

 レンは上体を起こし、ヌルの光を頼りに周囲を見回した。

 息が止まった。

 壁が、脈打っていた。

 ヌルの核が放つ微かな光の中で、周囲の壁面が一定の間隔で膨張と収縮を繰り返している。心臓の拍動のように。横穴の壁越しに感じた振動の正体がこれだった。壁面の表面は滑らかな石ではなく、暗い紫色をした有機質な何かで覆われている。触れるつもりもなかったが、起き上がる際に手のひらが壁に触れた。温かかった。体温に近い温度で、わずかに湿っている。指を離すと、触れた箇所が淡く発光して消えた。

 レンは壁から離れて立ち上がった。足元の苔のようなものも発光していた。踏むたびにぼんやりとした燐光が広がり、数秒で消える。自分の足跡が光の点となって背後に連なっている。

 空気が違った。十二層の鉄錆びた重さとも、低層の黴臭さとも違う。甘く、重く、肺を満たすだけで体の内側が圧迫されるような濃密さ。魔力だ。大気そのものが魔力で飽和している。レンは息を吸うたびに胸の奥がざわつくのを感じた。魔力感知能力などほとんど持たないはずのEランクテイマーですら、これほど濃い魔力は体が拒否反応を示す。

 ヌルが異変を起こしていた。

 普段は穏やかに明滅する核が、不規則に点滅を繰り返している。粘体の表面が波立ち、体積が膨らんだり縮んだりを繰り返す。まるで周囲の魔力濃度に体が共振して制御できなくなっているようだった。ヌルはレンの胸元にしがみつき、粘体の腕のような突起を伸ばしてレンの服を掴んだ。小さな体が震えている。

「ヌル、落ち着け。ここにいる」

 声をかけながらヌルを両手で包む。掌の中で粘体が激しく脈動していたが、レンの体温を感じたのか、次第に振動が収まっていった。核の明滅も、まだ不規則ではあるが速度が落ちている。レンの手の中で、ヌルはぎゅっと丸くなった。

 松明は落下の途中で失った。予備は背嚢にあるが、ヌルの核が放つ光と、壁面の脈動に伴う淡い発光で最低限の視界は確保できていた。むしろ問題は現在地だ。レンは上を見上げた。落ちてきたはずの穴は見えない。暗闘が広がるばかりで天井の高さすら把握できなかった。

 ここは十三層ではない。迷宮の既知の階層構造には、壁が脈動する空間など存在しない。姉の手記にも、この先の空間の詳細は記されていなかった。「魔力反応あり。通常階層と異なる波長」——あの一行が指していたのがこの場所だとすれば、姉はここを知っていた。知った上で、さらに深くへ向かったのだ。

 地図にも文献にも存在しない空間。零層。その呼び名が自然と浮かんだ。既知の一層より下にある、番号すら振られていない場所。

 レンは背嚢を背負い直し、歩き始めた。帰路を探さなければならない。落ちてきた穴に戻れないなら、別の出口を見つけるしかない。だがどちらに進めばいいのか、方角を示すものは何もなかった。壁の脈動に従うように、広い空間が不定形に広がっている。

 三十歩ほど進んだところで、足が止まった。

 空気の振動が変わったのだ。壁の脈動とは異なるリズム。もっと低く、もっと重い。足の裏から這い上がるような震動が、断続的に伝わってくる。

 地鳴りだった。

 ヌルがレンの胸元で硬直した。核の光が消え、粘体が氷のように冷たくなる。レンはヌルのこの反応を一度も見たことがなかった。恐怖ではない。本能的な擬死だ。圧倒的な上位捕食者を前にした獲物が最後にとる行動。

 暗闇の奥から、咆哮が響いた。

 音ではなかった。大気そのものが震え、壁面の脈動が一斉に速まり、足元の苔が一面に発光して闇を押し返した。レンの鼓膜が塞がり、視界が白く点滅する。全身の毛穴が開き、冷たい汗が一瞬で背中を濡らした。

 その光の中で、影が動いた。

 巨大だった。発光する苔が照らす範囲の遥か向こうから、空間そのものを押し潰すようにして、何かが近づいてくる。足音のたびに地面が揺れ、壁の脈動がその歩調に同期していく。まるで迷宮全体がその存在に従属しているように。

 レンの脚が動かなかった。恐怖で縫い止められたのではない。体が理解していた。逃げる場所がないということを。背後にも、左右にも、この空間の主から隠れられる場所など存在しない。

 闇の向こうで、二つの光が灯った。赤く、濁った瞳。見下ろす角度で、レンの位置を正確に捉えている。

 巨大な影が、一歩、また一歩と、ゆっくり近づいてくる。

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