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図鑑喰らいのソロ探索者

第3話 第3話「脈打つ手帳、泥岩蜥蜴」

第3話

第3話「脈打つ手帳、泥岩蜥蜴」

光が脈打っていた。

 手帳から溢れる白い輝きの中で、文字が一行ずつ刻まれていく。泥岩蜥蜴——その名の下に、鱗の構造、体内の熱源の位置、顎の噛合力、そして弱点が記されていく。左側面の第七鱗列から第十二鱗列にかけて鱗の重なりが薄くなること。体温が上がるほど突進の精度が落ちること。カイが暗闇の中で指先だけで確かめた情報と、確かめきれなかった情報の両方が、角張った書体で浮かび上がっていた。

 自分の手帳ではない。三年間書き溜めてきた、あの擦り切れた革表紙の手帳のはずだ。だが今、指先に触れている革の質感が変わっていた。血と汗でふやけていたはずの表紙は乾いており、背の糸は一度も解れたことがないかのように均一な張りを保っている。ページの紙質も違う。安物の漉き紙ではなく、もっと滑らかで、厚い。光に透かせば獣の皮を思わせる繊維が見える。

 ——何が起きている。

 文字の刻印が止まった。泥岩蜥蜴の記述の末尾に、一行の空白を挟んで、新しい文字列が浮かんだ。

 『付与:地脈操作』

 読んだ瞬間、指先が痺れた。手帳を持つ左手から腕を伝い、肩を越え、背骨に沿って全身に広がる振動。肋骨の痛みが一瞬だけ遠のき、代わりに足の裏から何かが昇ってくる感覚があった。地面の温度、湿度、密度——岩盤の継ぎ目がどこにあるか、亀裂がどの方向に走っているか。そういう情報が、足裏を通じて身体の中に流れ込んでくる。まるで自分の神経が岩の中にまで枝を伸ばしたかのように、地盤の脈動が鼓動と重なって聞こえた。

 手帳の光が弱まり、洞窟が再び薄暗くなった。だが完全な暗闇には戻らなかった。手帳の表紙がほのかに残光を放ち、半径二歩ほどの範囲をぼんやりと照らしている。

 カイは壁に背を預けたまま、自分の足元を見た。岩肌の上に自分の血が点々と散っている。泥岩蜥蜴の体液と混じって黒ずんだ染みが、死骸のほうへ続いている。そして——足裏が、岩の向こう側を感じていた。

 壁の厚さ。その先にある空洞の存在。空洞の中を流れる空気の方向。上だ。空気は上へ流れている。つまりそこには、地上へ繋がる通路がある。

 理解が追いつかない。だが身体は理解していた。足裏が感じ取った岩盤の情報を、左手が——手帳を握った左手が、勝手に解釈している。壁のこの部分は脆い。ここに力を加えれば崩れる。そういう確信が、思考を経由せずに手のひらに宿っていた。

 カイは壁に触れた。

 左手で岩肌を押す。冷たく、硬い。当然だ。人の手で岩壁を押したところで何も起きない。だが足裏が伝えてくる振動に意識を合わせたとき、掌の下で岩の質感が変わった。硬度が落ちている。粘土を掌で潰すときのように、岩が——軟らかくなっていた。

 指が岩に沈んだ。

 声が出なかった。目の前で起きていることが現実だと認識するまでに数秒かかった。指の第一関節まで沈んだ岩を引き抜くと、穴の縁がぼろぼろと崩れた。その奥から、微かに風が吹き抜けてきた。上へ向かう風。生温く、硫黄の匂いはするが、確かに流れている空気だった。

 カイは拳で岩を砕いた。軟化した岩は脆く、何度か打ち込むだけで人が通れるほどの穴が開いた。拳の皮が裂けたが、もう痛みの優先順位は低かった。穴の向こうに狭い通路が続いている。天井は低く、四つん這いでなければ進めない。だが空気は確かに上から来ている。

 這い進む前に、カイは泥岩蜥蜴の死骸を振り返った。洞窟の床に横たわる巨体は手帳の残光にぼんやりと照らされ、灰褐色の鱗が鈍く光っていた。暗闇の中でこいつと戦い、生き延びた。その事実が、まだ実感を伴わない。

 手帳を内ポケットに戻し、短剣を咥えて通路に入った。膝と肘で岩肌を擦りながら進む。岩の棘が肘の皮膚を削り、膝当ての革が破れて生の肉が石に擦れた。唾液で錆びた短剣の柄が歯の間で軋む。通路は何度か折れ曲がり、時折狭くなって肩が引っかかった。そのたびに壁に手を当て、岩を軟化させて押し広げた。二度目からは、意識的にできた。足裏で岩の密度を読み、脆い箇所を選び、掌で圧力を加える。魔法でも技術でもない。ただ身体の内側にある何かが、岩の構造と対話している。そうとしか表現できなかった。

 どれほど這い進んだか分からない。十分か、一時間か。肋骨の痛みが意識の表面に戻ってきた頃、通路の先に空間が開けた。四つん這いから立ち上がれる高さ。壁に苔が生えている。湿った空気に、微かに——覚えのある匂いが混じった。泥と苔と鉄錆。浅層の匂いだ。

 膝から力が抜けそうになった。

 ここはまだダンジョンの中だが、浅層に近い。足裏の感覚がそう告げている。頭上に広がる岩盤の向こうに、浅層の石畳の振動がかすかに伝わってくる。あと少し登れば、知っている場所に出られる。

 壁にもたれて息を整えていたとき、手帳がもう一度震えた。

 今度は光らなかった。ただ微かに振動し、内ポケットの中で何かを訴えるように脈打った。カイは手帳を取り出して開いた。残光の淡い明かりの中で、ページをめくる。

 泥岩蜥蜴の記述は、先ほどのまま残っていた。その手前——カイが三年間書き溜めてきたページ。角兎、洞窟蝙蝠、苔蜘蛛、石喰蚯蚓。自分の筆跡で綴られた、浅層の魔物たちの記録。そのページの余白に、あの角張った書体が浮かんでいた。

 角兎のページ——『付与:微光灯』。

 洞窟蝙蝠のページ——『付与:反響定位』。

 苔蜘蛛のページ——『付与:粘糸生成』。

 一種に一つ。記録した魔物の全てに、スキルの名が刻まれていた。ページをめくるたびに新しい文字列が目に飛び込んでくる。石喰蚯蚓に『土中潜行』、灯蛾に『燐光散布』。三十七種の記録、三十七のスキル名。自分が三年間、誰にも見せずにこつこつと書き溜めてきた記録の一つ一つに、手帳が——いや、図鑑が、応えている。

 カイの手が震えていた。痛みのせいではなかった。

 ——これは、なんだ。

 三年間、手帳だと思っていた。安物の革表紙に安物の漉き紙を綴じた、どこにでもある手帳だと。市場の片隅で十レンで買った、それだけのものだと。

 だが最初の数ページを思い出す。買ったとき、最初から何枚かのページが破り取られていた。気にも留めなかった。中古品だから前の持ち主が使いかけたのだろう、と。破り跡の繊維が毛羽立っていたこと、その断面が妙に真っ直ぐだったことを、今になって思い出す。あれは使いかけの雑な破り方ではなかった。何かを——誰かの記録を、意図して消した跡だ。

 手帳を閉じ、表紙を見た。残光に照らされた革の表面に、以前は気づかなかった紋様がうっすらと浮かんでいた。円環の中に歯車のような意匠。血と汗と三年分の手垢で見えなくなっていたそれは、古い、とても古い意匠だった。

 意味は分からない。だが一つだけ、分かることがある。

 この手帳は最初から、ただの手帳ではなかった。

 カイは手帳を胸元にしまい、壁から背を離した。上を見る。岩の継ぎ目に沿って、微かな光が漏れている場所がある。浅層の松明の光だ。あそこを抜ければ地上へ出られる。

 岩壁に手を当てた。足場を軟化させ、手がかりを作り、一段ずつ登る。身体は悲鳴を上げている。肋骨が軋み、左掌の傷口が開き、右肩が重い。だが足裏が岩の構造を読み、掌が岩を従わせ、一歩ごとに確実に高度を上げていく。

 岩の裂け目に手をかけ、身体を引き上げた。

 浅層第五区画の石畳の上に転がり出る。松明の残り火が遠くで揺れている。苔むした壁。水滴の音。見慣れた、三年間歩き回った場所。

 仰向けに倒れたまま、荒い呼吸を繰り返した。石畳の冷たさが背中に染みる。身体中が痛い。血と泥にまみれて、もう自分の肌の色が分からない。だが生きている。肺に入る空気が湿っていて、苔の青臭さが鼻の奥に触れるたびに、その事実が確かなものになった。

 だが目を閉じた瞬間、角兎のページに刻まれた文字が脳裏に浮かんだ。

 ——微光灯。

 意識しただけだった。唱えも、念じも、何も特別なことはしていない。ただその名前を思い浮かべた。それだけで、左手の指先に淡い光が灯った。松明よりもずっと弱い、虫の腹のような燐光。だが確かに、カイの意思で灯り、カイの意思で消える光だった。

 指先の光を見つめたまま、カイは浅層の天井を仰いだ。

 ——本物だ。

 身体の奥で、何かが書き換わろうとしている。三年間足踏みしていた場所から、一歩だけ動いた。たった一歩。だがその一歩の重さを、折れた肋骨と裂けた掌が証明していた。

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