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図鑑喰らいのソロ探索者

第2話 第2話「鱗を擦る音の接近」

第2話

第2話「鱗を擦る音の接近」

暗闇の中で、呼吸を殺した。

 心臓が胸郭を叩く音が、耳の奥で反響している。一拍ごとに血液が全身を巡り、こめかみの血管が脈動するのが分かる。あの音——鱗が岩を擦る、重く湿った引きずるような音——は、カイの左前方からゆっくりと近づいてきていた。距離は分からない。闇が深すぎて、自分の手のひらすら見えない。瞼を開いても閉じても何も変わらない、完全な暗黒だった。だが匂いで分かる。泥と岩を焦がしたような熱い呼気。鼻腔の奥を焼く硫黄の刺激が混じっている。それが確実に、近くなっている。

 右の肩甲骨の痛みが脈打つたびに意識を引き裂く。さっき壁の突起に叩きつけられた箇所だ。骨にまで届いているかもしれない。左掌の裂傷からは、まだ血が滴っていた。温かい雫が手首を伝い、肘の内側に溜まっていく感触がある。指先の感覚が鈍い。短剣の柄を握る力が、どれだけ保つか分からない。

 ——考えろ。

 カイは壁を背にしたまま、足裏で地面の感触を確かめた。滑らかな岩肌。湿り気はあるが苔はない。傾斜はない。だが足元に散らばる小石を踏めば音が出る。松明は消え、予備の火打ち石は素材袋と一緒に失った。崖から転がり落ちたときに、何もかも暗闇の底に散らばった。視覚は使えない。頼れるのは耳と鼻と、足裏に伝わる振動だけだ。

 鱗の音が止まった。

 沈黙が、暗闇の密度を一段階上げた。何も見えない。何も聞こえない。水滴すら息を潜めたかのように静まり返っている。ただ、泥と硫黄の混じった呼気だけが、左の頬に——

 来る。

 カイは本能で右に転がった。岩肌が背中を削り、小石が肌に食い込む。直後、背にしていた壁に何かが激突する轟音が響いた。岩の破片が頬を掠める。鋭い切り傷の熱さが一瞬遅れてやってきた。衝撃で空気が震え、その振動の中に相手の輪郭を感じた。大きい。角兎の三倍はある質量が、壁にめり込んだ頭を引き抜こうとしている。岩が砕ける音が連続し、粉塵が鼻と喉に侵入してむせそうになるのを必死に堪えた。

 転がった勢いで膝をつき、短剣を構える。柄が血で滑る。

 壁から頭を引き抜く音。砕けた岩の欠片がぱらぱらと落ちる。ゆっくりと、重い体躯が方向を変える気配。足が四本。爪が岩を掻く硬質な音が四拍子で刻まれる。尾を引きずっている。ざらざらとした鱗が岩肌を撫でるたびに、砂を含んだ不快な摩擦音が闇に満ちた。

 ——蜥蜴だ。

 三年分の浅層の記録が頭の中で回転する。洞窟蜥蜴なら浅層第六区画に棲んでいる。だがあれは体長が腕ほどで、臆病で、光を当てれば逃げる程度の魔物だ。これは違う。質量も速度も、まるで別の生き物だった。呼気の温度からして体内に熱源を持っている。図鑑にも噂にも存在しない。三年間、浅層を歩き回って出会ったどの魔物とも違う。

 二度目の突進が来た。今度は岩肌を踏む足音で方向が読めた。右前方。カイは左に跳び、すれ違いざまに短剣を振った。刃が何かに触れ、硬い手応えのあとに粘りのある抵抗を感じた。鱗の隙間に刃先が入った。浅い。だが確かに切った。刃を引くとき、粘性のある体液が糸を引いて指にかかった。生暖かく、鉄とは違う鉱物じみた臭いがした。

 相手が咆えた。声ではない。喉の奥から岩を砕くような振動が放たれ、空気そのものが揺れた。肺が圧迫される。胸骨の裏側から押し潰されるような重圧だった。耳の奥がじんと痺れ、一瞬だけ平衡感覚が歪んだ。

 その一瞬に、カイは地面に叩きつけられていた。尾だ。見えなかった尾が脚を薙ぎ、受け身も取れずに背中から落ちた。肺の空気が二度目に押し出される。肋骨の奥で何かが嫌な音を立てた。乾いた枝を踏み折ったような、短く鈍い音。

 痛みで視界が白く弾ける——視界などないのに、脳がそう錯覚するほどの衝撃だった。

 泥岩蜥蜴が近づいてくる。足音で分かる。四本の脚がゆっくりと、仕留めた獲物を確認するように歩を進めている。一歩ごとに床の小石が砕け、その振動がカイの背中越しに伝わってくる。呼気が顔にかかる。泥と岩を焦がした匂い。口を開いている。湿った粘膜の気配がすぐそこにある。次の一撃で、終わる。

 カイの指が、胸元に触れた。

 内ポケットの手帳。血と汗でふやけた革の表紙。三冊目。浅層の魔物を三十七種記録した、誰にも見せたことのない手帳。角が擦り切れ、背の糸が解れかけたそれは、三年間の全てだった。

 ——死ぬのか、ここで。

 三年かけて書き溜めた記録と一緒に、誰にも知られずに。

 指先に力が戻った。理由は分からない。怒りでも恐怖でもなく、もっと単純な何かだった。こんな場所で死ぬなら——せめて、こいつの記録を一行でも残してから死ね。

 カイは地面を転がり、泥岩蜥蜴の顎が空を噛む音を聞いた。歯と歯がかち合う硬い衝撃音が頭蓋に響く。起き上がる。肋骨が軋む。構わない。短剣を逆手に持ち替え、暗闇の中で耳だけを頼りに相手の位置を探った。

 足音。右。呼気。近い。鱗が岩を擦る音——旋回している。さっきの切り傷を庇うように、左側面を壁に寄せて。

 ——左側面を庇っている。

 浅層で三年間やってきたことが、暗闇の中でもう一度動き始めた。観察する。記録する。弱点を探す。それだけが、カイにできることだった。そしてそれは、暗闇であっても奪われない唯一の武器だった。

 三度目の突進。足音のリズムで分かる。四本脚の蹴り出し、重心の移動、顎を突き出す瞬間の一瞬の沈み込み。カイは動かなかった。呼吸を止め、全神経を足裏と耳に集中させた。突進の軌道を足音だけで読み、最後の一歩を待った。

 沈み込みの瞬間、半歩だけ左に動いた。泥岩蜥蜴の突進がカイの右肩を掠め、鱗の感触が肌を灼いた。乾いた砂紙を高速で押し当てられたような灼熱感。だがカイの左手は既に動いていた。先ほど刃を通した傷口の位置を、耳と鼻と、体に残った感触だけで覚えていた。短剣を傷口に叩き込む。今度は深く。刃が鱗の下の軟組織に沈み、熱い体液が手首を濡らした。

 泥岩蜥蜴が暴れた。短剣を握ったまま振り回され、壁に叩きつけられ、再び地面に投げ出された。後頭部を岩に打ち、一瞬意識が明滅した。だが刃は抜かなかった。抜けなかった。柄を握る指が、もう自分の意思とは無関係に硬直していた。

 蜥蜴の動きが鈍くなった。足音の間隔が広がり、呼気が浅くなり、尾を引きずる音がぐずぐずと力を失っていく。カイは地面に倒れたまま、その音を聞いていた。もう立ち上がれなかった。冷たい岩肌が頬に張りつき、自分の血の匂いと蜥蜴の体液の匂いが混じり合っていた。

 やがて、最後の呼気が途切れた。

 重い体が倒れる音と、それに続く沈黙。水滴の音だけが戻ってきた。規則正しく、どこか遠くの天井から落ちる水の一滴一滴が、静寂の中で鮮明に響いた。

 カイは暗闘の中で仰向けに転がったまま、荒い呼吸を繰り返した。全身が痛む。肋骨が少なくとも一本は折れている。呼吸のたびに胸の内側で骨の端が擦れ合う感触がある。左掌の傷口は短剣の柄に貼りつき、剥がすと新しい血が溢れた。右の肩甲骨の痛みは、もう感覚が麻痺して逆に感じなくなっていた。

 生きている。

 どれくらいそうしていたか分からない。一分か、十分か。ただ、水滴の音を数えることだけが意識を繋ぎ止めていた。三十七。三十八。数えている自分がまだここにいる、ということだけが確かだった。

 やがて、カイはゆっくりと身体を起こした。折れた肋骨が抗議するように鋭く痛み、唇の奥で呻きを噛み殺した。左手で胸元の手帳を取り出す。開いても何も見えない。だが指先が、最後のページの端を見つけた。書けない。インクも光もない。

 それでも手帳を握ったまま、倒れた泥岩蜥蜴の方へ這った。膝と肘で岩肌を擦りながら、一寸ずつ。右手で死骸に触れる。頭部の形状、鱗の並び方、歯の数と配列。指先だけで確かめていく。鱗の一枚一枚は親指の爪ほどの大きさで、中央が盛り上がり、縁が鋭く立っている。暗闇の中で記録する術はなかったが、手が勝手に動いた。三年間の習慣が、意志よりも先に身体を導いていた。

 鱗の一枚に指が触れたとき、手帳が震えた。

 最初は自分の手の震えだと思った。だが違う。手帳そのものが脈打つように振動している。血で汚れた革の表紙が微かに熱を帯び、胸の内ポケットからこぼれるように——光が漏れた。

 暗闇が割れた。

 手帳から溢れる白い光が、洞窟の壁を、天井を、そして足元に横たわる蜥蜴の死骸を照らし出した。目が痛むほどの輝きの中で、カイは初めてそれを見た。全長は自分の背丈を優に超え、全身を覆う灰褐色の鱗は泥岩そのものの質感をしていた。頭部は扁平で、顎の内側に並ぶ歯は石を噛み砕くために進化した形状をしている。傷口からはどす黒い体液がゆっくりと流れ出し、岩肌に暗い染みを広げていた。

 手帳が勝手にページを開いた。白紙だったはずの見開きに、文字が浮かび上がっていく。カイの筆跡ではない。もっと古い、角張った書体が、光の中で一行ずつ刻まれていった。

 ——泥岩蜥蜴。

 名前すら知らなかったものに、文字が名前を与えている。

 カイは血まみれの手で手帳を握りしめたまま、その光を見つめた。洞窟の壁に映る自分の影が、ゆらゆらと揺れていた。

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