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図鑑喰らいのソロ探索者

第1話 第1話「角兎の手帳」

第1話

第1話「角兎の手帳」

手帳の端が、また血で汚れていた。

 カイは短剣の刃についた粘液を革の端切れで拭い、足元に転がる角兎の死骸を見下ろした。灰色の毛皮に走る黒い縞模様、左右非対称の角、後ろ脚の第三関節がわずかに外側に曲がっている個体。それらを手帳に書き留めてから、素材袋に使える部位だけを放り込む。角の先端と、後ろ脚の腱。それ以外に換金できるものはない。

 浅層第三区画。苔むした石壁が延々と続く、ギルド探索者なら誰もが最初に足を踏み入れる領域だ。松明の灯りが届く範囲には、天井から垂れる鍾乳石と、水滴が落ちるたびに広がる小さな波紋がある。湿った空気が肺の奥にまとわりつく。カイはもう三年もこの匂いの中にいた。苔と泥と、かすかな鉄錆の混じった、浅層特有の匂い。

 二十歳を少し過ぎた体躯は痩せている。食事を一日二回に減らしているせいだ。防具は革鎧の胸当てだけ。脛当ても籠手も、半年前に修理代が払えなくなって質に入れた。短剣は刃こぼれを何度も研ぎ直した跡がある。柄に巻いた布だけが新しい——それも、握りが滑って角兎に反撃されたあとの応急処置だった。

 素材袋を肩に掛け直し、来た道を戻る。足音に反応して壁の隙間から角兎がもう一匹顔を出したが、カイの気配を察すると引っ込んだ。追わない。素材袋の容量には限りがあるし、角兎一匹の報酬では追加で倒す手間に見合わない。

 第二区画との境界を示す石柱を通り過ぎたとき、前方から複数の足音が聞こえた。四人組。先頭の剣士が松明を高く掲げ、その後ろに槍使い、弓手、そして杖を持った術師が続いている。揃いの青い腕章——ギルド正規パーティの証だ。

 カイは壁際に寄って道を譲った。

「おい、そこの」先頭の剣士が足を止めた。「ソロか? 何層だ」

「三区画です」

「三区画って——」槍使いが笑い声を漏らした。「角兎しかいないとこだろ。まだそんなとこ回ってんのか」

 カイは答えなかった。目を伏せ、パーティが通り過ぎるのを待つ。松明の炎がカイの横を過ぎるとき、その明るさに四人の装備が一瞬だけ浮かび上がった。手入れの行き届いた鉄の胸甲、真新しい革の脛当て、弓手の矢筒に詰まった銀鍍金の矢尻。どれもカイの全財産より高い。弓手が何か言いかけたが、剣士が「行くぞ」と促して四人は奥へ消えた。足音が遠ざかる。残されたのは、湿った空気と、喉の奥に張りつく沈黙だけだった。

 壁際に寄せた背中が、ほんの少し強張っていたことに気づく。手帳を握る指の力を意識的に緩めた。

 ——別に、慣れている。

 三年前もそうだった。初めてパーティに入れてくれと頼み、あっさり断られた日から、ずっとこうだ。理由は聞かなくても分かっていた。装備が貧弱すぎること、実戦経験が浅層止まりであること。そして何より、パーティの連携に必要な信頼を、カイは誰からも勝ち取れていなかった。

 浅層の出口は午後の光で白く霞んでいた。目が痛む。地下の暗さに順応した瞳孔が悲鳴を上げるのを手で庇いながら、カイはギルド庁舎へ向かった。

 煉瓦造りの二階建て。正面の大扉を押し開けると、冒険者たちの喧騒が押し寄せてくる。革鎧に染みついた獣脂の匂い、酒場から流れる焼き肉の煙、声を張り上げて報酬を値切るパーティリーダー。カイはその活気の隅を縫うように受付窓口へ進んだ。

「角兎の角、二本。腱、二束」

 窓口の中年男が素材を確認し、天秤に載せる。目盛りを読み、台帳に何か書き込んでから、カウンターに銅貨を数枚並べた。

「四十レン」

 宿代が一泊三十レン。食事が一回十五レン。四十レンでは、明日の食事を一回抜かなければ宿にも泊まれない。カイは黙って銅貨を受け取り、腰の革袋に入れた。銅貨が触れ合う軽い音がした。袋の中にはそれしか入っていない。

「……カイ、だったか」受付の男が台帳をめくりながら言った。「お前、今月もう十七回浅層に入ってるが、申告素材は全部三区画以下の魔物だな。等級見直しの時期だが、このままじゃ降格もあり得るぞ」

「分かっています」

「分かってるなら、パーティを組んだらどうだ。掲示板にいくつか募集が出てる。前衛が足りないって嘆いてるとこもある」

 カイの視線が、一瞬だけ窓口の奥——掲示板の方を向いた。色とりどりの紙が画鋲で留められ、パーティ募集、討伐依頼、素材買取の告知がひしめいている。その中に「前衛一名急募」と赤字で書かれた紙が見えた。

 視線を戻す。

「一人で大丈夫です」

 受付の男は肩をすくめた。カイが窓口を離れると、背後で「頑固な奴」という呟きが聞こえた気がしたが、振り返らなかった。

 酒場の隅の席に座り、一番安い麦粥を注文する。木の匙で粥をすくいながら、手帳を開いた。今日の角兎の記録を書き足す。角の長さ、縞模様の間隔、倒したときの体勢。最後に、小さく一行を付け加えた——「左角の根元を叩くと一瞬ひるむ。次回検証」。

 手帳は三冊目になっていた。表紙の革は擦り切れ、背の糸が何度も縫い直されている。一冊目と二冊目は宿の木箱に入れてある。浅層に棲む魔物の大半はもう記録し終えた。角兎、洞窟蝙蝠、苔蜘蛛、石喰蚯蚓、灯蛾——名前のない変異個体も含めて、三十七種。弱点、行動の癖、時間帯による出現頻度。誰に頼まれたわけでもない。見せる相手もいない。

 ただ、これだけが確かなのだ。自分がダンジョンに入り、生きて帰ってきた証拠。倒した魔物が確かにそこにいて、自分の手で仕留めたという事実。パーティの誰かの手柄にされることもない、自分だけの記録。

 麦粥を食べ終え、手帳を閉じる。指先に残るインクの匂いを嗅いでから、カイは宿へ戻った。

 翌朝。

 浅層第四区画の入り口で、カイは足を止めた。

 空気が違う。いつもなら第四区画に入った瞬間に感じる、苔蜘蛛の巣が張り巡らされた独特のべたつく気配がない。代わりに、乾いた風が奥から流れてきていた。ダンジョンの浅層に風が吹くことは、本来ありえない。

 松明を掲げて奥を覗く。通路の壁に、これまでなかった亀裂が走っていた。指の幅ほどの裂け目が天井から床まで一直線に伸び、その奥から微かに生温い空気が漏れている。カイは手帳を取り出し、亀裂の位置と長さを書き留めた。癖のようなものだ。気になったものは、なんでも記録する。

 一歩踏み出す。二歩目で、足裏に伝わる振動が変わった。

 石畳が微かに震えている。

 カイは反射的に後ろを振り返った。来た道の天井から、細かい砂がぱらぱらと落ちてきている。壁の亀裂が——広がっていた。先ほどまで指の幅だったものが、今は拳が入るほどに開いている。その奥で何かが軋む音がした。大きな、重い、石と石が擦れ合う音。

 足元の石畳にも亀裂が走った。

 まずい——そう思った瞬間、地面が抜けた。

 落下する体を松明の炎が照らす。壁が目の前を流れていく。掴もうとした岩の突起が手のひらを切り裂き、血が飛沫になって暗闇に散った。何秒落ちたのか分からない。背中から何かに叩きつけられ、肺の中の空気が全部吐き出された。

 松明は消えていた。

 完全な暗闘。水の滴る音だけが、どこか遠くで響いている。背中の痛みに歯を食いしばりながら、カイは手探りで地面を確認した。土ではない。ぬめりのある岩肌。指先に触れた感触で分かる——浅層の石畳とはまるで違う、磨かれたような滑らかさ。

 空気が重い。肺に入るたびに、粘りのある圧力を感じる。知らない匂いだった。苔でも泥でもない。もっと深い、地の底から湧き上がるような、鉄と硫黄と、何か名前のつけられないものが混じった匂い。

 身体を起こそうとして、右の肩甲骨のあたりに鋭い痛みが走った。折れてはいない——たぶん。だが深く息を吸うたびに胸の奥が軋む。左の掌からは血が滴っていた。岩の突起を掴んだときの傷だ。暗闇の中で傷口の深さは確かめられない。ただ、指を動かせることだけを確認した。

 手帳だけは、胸元の内ポケットに残っていた。短剣も——腰の鞘に収まっている。素材袋は落下の途中で千切れたらしい。

 暗闇の中で、何かが動く音がした。

 鱗が岩を擦る、重く湿った音。角兎とは比べものにならない質量を感じさせる、ゆっくりとした足運び。そしてカイの鼻腔を、泥と岩を焦がしたような熱い息が撫でた。

 ——ここは、浅層ではない。

 カイは短剣の柄を握った。刃こぼれだらけの、角兎を仕留めるのがやっとの短剣。掌の傷が柄を握る力に悲鳴を上げたが、指を離すわけにはいかなかった。暗闇の向こうで、見たこともない何かが、こちらを見ている。

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