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春が待っている

第1話 第1話

第1話

第1話

カーテンの隙間から漏れる光が、白から黄色に変わった。たぶん、春になったのだと思う。

 布団の中で目を開けたまま、しばらくそのことだけを考えていた。春。それが自分にとって何を意味するのか、もうよくわからない。季節が変わっても、この部屋の中は何も変わらない。六畳。机。パソコン。積み上がった本。それから、ドアの前に置かれる食事のトレイ。空気だけがわずかに変わる。冬の間は乾いて静電気を帯びていた空気が、少しだけ重く、湿り気を含むようになる。それで春だと知れる。窓を開けなくても、季節は部屋の中にまで染みてくる。

 かちゃ、という小さな音がした。

 反射的に時計を見る。七時十二分。いつもより二分遅い。母の足音がドアの前で止まり、トレイを置き、また廊下を戻っていく。スリッパが床を擦る音が遠ざかって、台所の方で水道の蛇口がひねられる。その一連の音を、俺は十年間聞いてきた。足音の間隔、トレイが床に触れるときの角度、蛇口をひねる力加減。十年も聞いていると、母の体調まで音でわかるようになる。今朝の足音は少しだけ重い。膝が痛いのかもしれない。母も歳をとったのだ。

 十年。口に出すと、ずいぶん長いように聞こえる。でも体感では、そうでもない。同じ日が繰り返されるとき、時間の長さは意味を失う。十八の春にこの部屋に入って、そのまま二十八になった。その間に何があったかと聞かれたら、答えられることは何もない。

 布団から出て、まずパソコンの電源を入れる。起動を待つ間に、ドアを薄く開けてトレイを引き入れる。母の姿は見えない。ここ数年、俺たちは顔を合わせていない。同じ屋根の下に暮らしているのに、声を交わすのは月に一度あるかないかだ。トレイの上のコンビニ弁当——今日は鮭弁当。昨日は幕の内だった。ラベルに貼られた値引きシールの位置で、母が夜のうちに買ってきたことがわかる。半額。いつも半額のものを選んでいる。

 パソコンの画面が点く。ブラウザを開き、ニュースサイトを巡回する。政治。経済。芸能。どれも自分とは関係のない世界の出来事だ。それでも毎日見ている。この画面の向こうだけが、俺と外の世界をつないでいる。

 弁当を食べる。鮭は冷たい。電子レンジは台所にあるけれど、そこまで行く気にはならない。冷たい飯を咀嚼しながら、掲示板のスレッドを流し読みする。誰かが転職の相談をしている。誰かが結婚の報告をしている。二十八歳という年齢は、そういう話題が増える歳らしい。俺は空になった弁当箱をトレイに戻し、ドアの前に置く。

 それだけのことに、十年かかった。いや、十年が経っただけだ。かかったのではなく、過ぎた。

 午前中はネットを見て過ごす。昼になると、また廊下で音がする。昼食のトレイ。カップ麺と、ペットボトルのお茶。母の選択にはある種の規則性があって、月曜は味噌、火曜は醤油、水曜は塩。今日は醤油だから火曜日だ。曜日の感覚も、母が買ってくるカップ麺の味で把握している。

 窓の外で、鳥が鳴いた。

 この部屋にいると、外の音はひどく遠い。車のエンジン音、子どもの声、風の音。すべてが膜一枚隔てた向こう側の出来事で、自分とは関係がない。最初の頃はそれが苦しかった。でもいつからか、苦しいとも感じなくなった。それが一番怖いことだと、頭ではわかっている。わかっているけれど、体は動かない。

 午後は寝るか、本を読むか、ゲームをするかだ。この部屋には千冊近い本がある。ネットで注文して、届いたものを母が部屋の前に置いてくれる。母と直接やり取りするのは、月末に生活費のメモをドアの下から滑り込ませるときだけだ。父が残した——いや。父のことは考えない。

 考えないことにしてから、もう何年が経ったのかも覚えていない。

 夜になった。カーテンの隙間が暗くなる。それだけのことで一日が終わる。歯を磨き、布団に入り、目を閉じる。明日もまた同じ日が来る。来てほしいわけではない。でも、来なければいいとも思わない。ただ、来る。そういうものだ。

 眠れない夜は天井を見る。築三十年のアパートの天井には、いつの間にかできた染みがある。その染みの形が少しずつ変わっているような気がして、最初の頃はよく観察していた。今はもう見飽きた。見飽きたけれど、他に見るものがない。

 いつの間にか眠って、いつの間にか朝が来た。

 かちゃ。

 七時十分。今日は時間通りだ。母の足音、トレイを置く音、スリッパが遠ざかる音。いつもと同じ。寸分の狂いもなく同じ。

 布団から出て、ドアを開ける。

 トレイの上に、コンビニ弁当がなかった。

 代わりに載っていたのは、一枚の切符だった。

 手に取る。新幹線の切符。東京から新青森。指定席。日付は四日後。真新しい切符の、裏面。そこに万年筆の文字が並んでいた。

「春が待っている」

 意味がわからなかった。母が買ったのか。しかし母は新幹線の切符など買う人間ではない。差出人の名前はどこにもない。トレイには切符だけ。弁当もお茶もなく、切符が一枚。

 切符を裏返し、表に戻し、また裏返した。磁気面の印字は正規のもので、偽造には見えない。指先に伝わる紙の硬さも本物だ。万年筆のインクは濃紺で、わずかにかすれた筆致には迷いがなかった。書いた人間は、この五文字を書くと決めてから書いている。

 廊下の先、台所の方をうかがう。水音がしている。いつもと同じ朝の音。ただし、トレイの上だけがいつもと違う。

 俺は切符をトレイに戻し、ドアを閉めた。

 パソコンの前に座る。画面を見る。何も頭に入ってこない。切符のことが頭の隅にある。青森。新青森。俺は青森に知り合いなどいない。行ったこともない。たぶん。

 たぶん、というのが引っかかった。八歳より前の記憶は曖昧で、家族旅行に行ったのか行かなかったのか、はっきりしない。父がいた頃の記憶は、意図的に薄くしてきた。思い出さないようにしていると、本当に思い出せなくなる。

 昼前に、ドアの向こうから母の声がした。

「陽介」

 久しぶりに名前を呼ばれた気がした。自分の名前がこんな音だったかと、一瞬わからなくなるほどに。

「……なに」

「トレイ、下げていい?」

「ああ」

 トレイを引く音。足音が遠ざかりかけて、止まる。

「あの切符……お母さんじゃないからね」

 それだけ言って、母は台所に戻った。スリッパの音が遠ざかり、蛇口が開く音がして、それきりだった。母の声は平坦だった。怒っているのでも、心配しているのでもない。ただ事実を伝えるだけの声。その淡白さが、むしろ嘘ではないことを示していた。

 俺はしばらくドアの前に立っていた。母ではない。では誰が。このアパートのポストに入れたのか。母がトレイに移したのか。疑問はあるのに、それ以上考えることを、体が拒んでいた。考えるということは、この部屋の外に意識を向けるということで、十年かけて閉じてきた回路をもう一度開くということだ。そんな力は、もう残っていない気がした。

 午後、切符をゴミ箱に捨てた。小さなプラスチックのゴミ箱に、くしゃりと落ちる音がした。それでいい。知らない誰かの悪戯か、何かの間違いだ。俺には関係ない。

 この部屋から出る理由など、どこにもない。

 夜、布団に入っても、ゴミ箱の中の切符のことを考えていた。万年筆の文字。春が待っている。誰が待っているのか。そもそも、俺を待つ人間がいるのか。いるはずがない。十年間、誰にも会わず、誰とも話さず、母にすら顔を見せなかった人間を、誰が待つというのか。

 暗い天井の染みを見つめながら、それでも頭の中から万年筆の濃紺が消えなかった。あのインクの色は、どこかで見たことがある気がした。いつ、どこでかは思い出せない。思い出せないのに、指先にだけ記憶が残っているような、奇妙な感覚があった。

 眠れないまま、朝になった。

 かちゃ。

 トレイの音。ドアを開ける。

 コンビニ弁当の横に、切符が載っていた。昨日と同じ切符。東京から新青森。日付も同じ。裏面の万年筆の文字も同じ。

 捨てたはずの切符が、そこにあった。

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