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春が待っている

第2話 第2話

第2話

第2話

同じ切符だった。

 折り目がある。昨日、ゴミ箱に捨てるとき、無意識に二つに折っていた。その折り目がそのまま残っている。折り山の繊維がわずかに毛羽立って、指の腹にざらりと引っかかる。新しく用意された別の切符ではない。俺が捨てた、あの切符だ。

 トレイの上で弁当の横に行儀よく載っている。のり弁。水曜日ならカップ麺の塩のはずだが、今日は弁当だった。その些細なずれが、切符の異常さより先に気になった。十年かけて作り上げた規則が、少しずつ狂い始めている。規則が狂うことは、この部屋の中では天井が落ちてくるのと同じだ。壁と天井と床と、決まった時間に届く食事。それだけで成り立っている世界が、弁当ひとつで軋んでいる。

 切符を手に取った。裏面の万年筆の文字は変わっていない。「春が待っている」。濃紺のインクは乾いていて、指で擦っても滲まなかった。日付を確認する。あと三日。昨日は四日後だった。当然、一日減っている。当然のことなのに、数字が小さくなっていることに胸の奥が詰まった。時間が動いている。この部屋の中では止まっているはずの時間が、切符の上では確かに動いている。

 ゴミ箱を覗く。切符はない。昨日の夕方、確かにここに捨てた。くしゃりと音がしたのを覚えている。プラスチックのゴミ箱には、ティッシュの丸まったものと、昨日の弁当の割り箸の袋が入っているだけだ。

 母が拾ったのだ。そうとしか考えられない。

 俺がトレイを出すのは食事の後で、母がそれを下げに来るのは決まった時間だ。その間にゴミ箱から切符を取り出し、翌朝のトレイに戻した。鍵のかかっていないドアを開けて、眠っている間に。そう考えれば辻褄は合う。合うのだが、それは母がこの十年間一度も踏み越えなかった線を越えたということでもあった。

 母は俺の部屋に入らない。トレイを置くのはドアの前で、ドアノブに手をかけることはない。それは暗黙の約束だった。言葉にしたことはないけれど、互いにわかっていた。俺はこの部屋に閉じこもり、母はそれを許している。許すという言葉が正確かどうかはわからない。ただ、そういう均衡の上に十年が成り立っていた。

 切符を机の上に置いた。捨てる気にはなれなかった。昨日捨てて、今朝戻ってきた。もう一度捨てたところで、明日の朝また載っているかもしれない。その繰り返しを想像すると、くだらないのに、少しだけ怖かった。

 パソコンの前に座る。いつものようにブラウザを開く。ニュースサイト。掲示板。動画。どれも目が滑る。画面の中の文字が、文字として頭に入ってこない。気がつくと、検索窓にカーソルが点滅していた。何を検索しようとしたのか、自分でもわからない。指がキーボードの上で止まっている。新青森、と打とうとしていたのかもしれない。あるいは、万年筆、インク、濃紺。どれも打たなかった。打ってしまえば、切符のことを認めたことになる気がした。

 窓の外で、何かの鳥が長く鳴いた。聞き慣れない声だった。この部屋に十年いて、窓の外の鳥の声はだいたい覚えたつもりでいたが、今日の声は違った。高く、澄んでいて、最後に少しかすれる。遠くから来た鳥なのかもしれない。渡り鳥。春だから。

 春が待っている。

 誰の言葉なのかわからないまま、その五文字が頭の中で繰り返される。万年筆のかすれた筆致。ためらいのない線。書いた人間は俺を知っているのか、それとも知らないのか。知っているなら、なぜ名前を書かない。知らないなら、なぜ俺に届く。

 昼になっても食欲がなかった。トレイは手をつけないまま廊下に戻した。

 午後、布団に入った。眠いわけではなかった。ただ、起きていると切符のことを考えてしまうから、目を閉じて布団を頭まで被った。暗闇の中で、万年筆のインクの色が浮かぶ。濃紺。深い青。海の底のような色。その色を、どこで見たのだったか。

 記憶の底を探ろうとすると、いつも同じ場所で止まる。八歳の朝。父がいなくなった日。その日のことは断片的にしか覚えていない。玄関のドアが閉まる音。母が廊下に立っていたこと。それから、ダイニングテーブルの上にあった——。

 目を開けた。

 テーブルの上に何かがあった。手紙か、メモか、何かが置いてあった気がする。その記憶を引っ張り出そうとすると、頭の中に霧がかかる。十年かけて薄くしてきた記憶は、必要なときにも戻ってこない。あの朝、テーブルの上にあったものは何だったのか。父は何か残していったのか。

 思い出せない。思い出せないことに、今更苛立つ自分がいる。昨日まではそんなこと、考えもしなかったのに。

 切符のせいだ。

 布団から出て、机の上の切符をもう一度手に取る。東京から新青森。指定席。窓側。窓側を選んだ人間は、車窓から何かを見せたかったのだろうか。それとも、ただの偶然か。偶然で片づけようとする自分と、偶然ではないと感じている自分がいる。二人の自分が、この六畳間の中で静かに言い争っている。

 夕方、母の足音が廊下に来た。トレイを下げる音。足音が止まる。いつもなら止まらない。トレイを持ち上げて、そのまま台所に戻る。それが十年間の手順だ。今日は止まった。

「陽介」

 返事をしなかった。声を出すのが怖いのではない。声を出してしまうと、この均衡が別の形に変わってしまう気がした。

「……ごはん、食べてなかったね」

 沈黙。母の声は静かだった。責めてもいない、心配もしていない。ただ確認しているだけの声。でもその声の底に、かすかな揺れがあった。気のせいかもしれない。十年間ドア越しに聞いてきた母の声の中に、今日初めて混じった色。

「夜、おにぎり作っとくから。トレイに置いとくね」

 足音が遠ざかる。台所で冷蔵庫が開く音がした。氷が鳴るかすかな音。それから包丁がまな板に当たる音が、断続的に聞こえてきた。コンビニの弁当ではなく、おにぎりを作ると言った。母がおにぎりを握るのは、いつ以来だろう。少なくとも、この十年で初めてのことだ。

 切符のせいだ。この切符がトレイに載っていたことで、何かが変わり始めている。俺の中ではなく、母の中で。あるいは、この部屋とあの台所を隔てている壁の中で。

 夜九時。トレイの音。ドアを薄く開けると、おにぎりが二つとほうじ茶のペットボトルが載っていた。おにぎりの海苔は少し湿っていて、握ってから時間が経っていることがわかった。すぐには持ってこなかったのだ。迷っていたのかもしれない。握ってから、トレイに載せるまでの間に、何を考えていたのだろう。

 一口齧る。塩鮭。冷たい。でも、昨日の弁当の鮭とは違うものだった。米の粒が舌に当たる感触に、覚えがあった。母の握り方だ。十年前まで毎日食べていた、あの少し固めの、三角のかたちが不揃いな握り方。左手で形を作って、右手で押さえる。きっと今もそうやって握ったのだ。その手の動きを想像して、喉の奥が熱くなった。

 気がつくと、おにぎりを二つとも食べていた。いつもなら半分で箸を——手を止めるのに、最後まで食べた。指先に米粒がひとつ残っていた。それも口に入れた。

 トレイを廊下に戻す。切符は机の上に置いたままだ。ゴミ箱には入れない。引き出しにもしまわない。ただそこに、見える場所に置いておく。

 歯を磨いて、布団に入る。今夜も天井の染みを見る。染みのかたちは変わっていない。変わっていないのに、いつもと違って見える。視界の端に、机の上の切符の白さがある。

 眠れない夜が、また来る。

 切符は三日後に使えなくなる。有効期限が来れば、ただの紙切れになる。そうなれば忘れられる。たぶん。

 ——たぶん。

 その「たぶん」が喉の奥にひっかかったまま、意識が溶けるように朝になった。

 かちゃ。

 目を開ける。七時十分。トレイの音。ドアの前。

 今度は、開ける前からわかっていた。手を伸ばしてドアノブを回す。トレイの上。コンビニ弁当。お茶。それから——。

 切符は、机の上にあるはずだった。昨夜、確かにそこに置いた。ゴミ箱にも、引き出しにも入れていない。

 振り返る。机の上には何もなかった。

 トレイの上に、三枚目の切符が載っていた。

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