第2話
第2話
三日間の旅路は、進むほどに世界の色を奪っていった。
街道沿いの農村はやがてまばらになり、二日目には人家そのものが消えた。代わりに現れたのは、戦火の爪痕を残す廃墟と、手入れされなくなった街道を浸食する雑草の群れ。焼け落ちた納屋の残骸には黒い焦げ跡がこびりつき、雨に晒されてなお消えない炭の匂いが鼻腔を刺した。三日目の朝には、馬車を引く馬たちまでもが怯え始めた。空気が違うのだ。大気に溶けた魔力の残滓が、獣の本能を刺激するのだろう。肌の表面を撫でるような、ざらりとした圧迫感。目には見えないが、確かにそこにある異質な気配が、呼吸のたびに肺の奥へ沈み込んでくる。
そして──カルデアが見えた。
「……これが」
馬車の窓枠に指をかけ、身を乗り出した私の唇から、言葉が零れ落ちた。
防壁、と呼ぶべきものは、もはや存在していなかった。北面と東面は完全に崩落し、残った南面と西面も至るところに亀裂が走っている。かつては堅牢な石組みであったはずの壁が、今では瓦礫の山と化していた。崩れた石の隙間から雑草が伸び、蔦が這い、まるで大地そのものが人工物を飲み込もうとしているかのようだった。
防壁の内側に広がる集落は、さらに惨憺たる有様だった。屋根が落ちた家屋、焼け焦げた柱だけが残る跡地、板を打ちつけて辛うじて雨風を凌いでいるらしい小屋。かつての領主館は外壁の半分が崩れ、残った部分も蔦に覆われて緑の塊と化している。
馬車が集落の入り口で停まった。街道と呼ぶには荒れすぎた道の先に、人影が見えた。
十数人。いや、二十人ほどだろうか。痩せこけた体に薄汚れた衣服をまとった領民たちが、警戒と疲弊が入り混じった目でこちらを見ていた。子供の姿もある。頬がこけ、目だけが異様に大きく見える幼い顔。その目に、希望の色は一片もなかった。
馬車から降りた私の前に、一人の老人が進み出た。背は曲がっているが、所作に品がある。かつての正装であったらしい上着は擦り切れ、色褪せてはいたが、丁寧に繕われていた。袖口の刺繍はほつれかけてなお、指先で何度も糸を通し直した痕跡が見て取れる。この人は、ここで何年もの間、崩壊していく日常の中で矜持だけを握りしめて生きてきたのだ。
「──セラフィーナお嬢様で、いらっしゃいますか」
深い皺に縁取られた目が、私の顔を食い入るように見つめた。
「ランベール。母の……いえ、父から聞いています。カルデアの執事を務めてくださっていた」
老執事ランベールは、一瞬だけ目を閉じた。その瞼の震えに、何年分もの感情が圧縮されているのが分かった。
「よく、お越しくださいました。よく──」
声が詰まり、老人が深く頭を下げた。その背中を見つめながら、私は集落の全景を改めて視界に収めた。ディルクの報告は正確だった。いや、現実は報告よりもなお悪い。
「ランベール。領民の数は」
「……八十七名でございます。一年前は百を超えておりましたが、魔獣の被害と飢えで」
「食料の備蓄は」
「ひと月分あるかどうか。狩猟で日々を繋いでおりますが、魔獣が増えてからは森に入ることもままならず」
淡々と質問を重ねる私を、ランベールは痛ましげな目で見つめた。この娘は泣かないのか、と問いたげな眼差し。だが私は知っている──涙を流す余裕があるなら、その時間で一つでも数字を把握すべきだ。嘆いても現実は変わらない。宮廷で学んだ数少ない真実の一つだった。そしてためらいがちに、しかし確かな声で言った。
「お嬢様。率直に申し上げます。ここは──人の住む場所ではありません」
その言葉に、周囲の領民たちが目を伏せた。否定する者は一人もいなかった。
「奥様──セレスティーナ様が守ろうとなさった土地です。その御遺志は、我々が受け継いでまいりました。しかし、もう限界でございます。お嬢様には、どうか安全な地で──」
「ランベール」
私は老執事の言葉を遮った。厳しくではなく、静かに。
「母上の居館は、まだ無事だと聞いています。案内してもらえますか」
ランベールが目を見開いた。その表情が一瞬、遠い昔を見るように揺れる。母を知る者だけが浮かべる、あの複雑な色。
「──御意に」
老執事に先導されて歩く道中、この集落がどれほど追い詰められているかを、私の目は数字に置き換えて読み取っていた。痩せた農地の面積、崩れた防壁の延長、住居として機能している建物の数、井戸の位置と状態。宮廷の帳簿から数字を読むのと同じだ。ただし、ここでは数字の一つ一つが人の命に直結している。
集落の外れ、小高い丘の上に、その建物はあった。
異質だった。
周囲の荒廃と断絶するかのように、母の居館は静謐な佇まいを保っていた。白い石壁に蔦は一筋も這っておらず、窓硝子は一枚も割れていない。屋根の石板は整然と並び、玄関の石段には塵一つなかった。三年間、誰も手入れをしていないはずの建物が、昨日まで人が住んでいたかのような状態で建っている。
「……不思議なことに、この館だけは手を加えずとも朽ちないのでございます」
ランベールが声を潜めた。
「奥様がお亡くなりになった後、我々も不審に思い、何度か中に入ろうとしました。しかし──書斎の扉だけは、どうしても開かなかったのです。鍵はかかっておりません。押しても引いても、蝶番を外そうとしても。まるで、扉そのものが拒んでいるかのように」
館の中に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。外の荒涼とした風とは異なる、澄んだ、けれどどこか温もりを含んだ空気。壁に掛けられた小さな風景画、窓辺に置かれた枯れていない──枯れていない?──白い花。棚に並ぶ書物の背表紙は日焼けもしていなかった。
時間が止まっている。この空間だけ、母が生きていた時のまま、凍結されている。
胸の奥が軋んだ。母の記憶は断片的だ。温かい手のひら、低い歌声、魔法の練習を見守るまなざし。私が八つの頃に逝った母。政治の犠牲になったと、大人になってから知った。窓辺の白い花に目が止まる。この花を、母は好んでいた。幼い私がこの花の名を訊ねたとき、母は少しだけ寂しそうに微笑んで、故郷の野に咲く花だと教えてくれた。その故郷こそが、今私が立つこの場所なのだ。
二階の廊下を進み、突き当たりの扉の前に立った。
「ここでございます」
ランベールが一歩退いた。頑丈な樫の扉。把手は真鍮で、年月を経ているはずなのに鈍い金色の光を放っている。
そして──私には見えた。
扉の表面に、淡い燐光を帯びた紋様が浮かんでいた。幾何学的な直線と、有機的な曲線が絡み合う複雑な文様。まるで大地の断層図と植物の根系を重ね合わせたような意匠。それが呼吸するように明滅している。
「ランベール。この扉の──紋様が、見えますか」
「紋様、でございますか? いえ……何も」
やはり。私にしか見えていない。
指先に、あの熱が戻ってきた。馬車の中で感じた脈動。それが今は、扉の紋様と同期するように鼓動している。引き寄せられるように手を伸ばした。
指先が扉に触れた瞬間、紋様が一斉に輝いた。
扉が音もなく開く。ランベールが息を呑む気配がした。
書斎は思ったより狭かった。壁一面の書架、天文図が描かれた天井、窓際の執務机。そしてその机の上に、一冊の書物が開いたまま置かれていた。革装丁の表紙に、扉と同じ紋様が刻まれている。
部屋に足を踏み入れると、足元から微かな振動が伝わってきた。地鳴りとは違う。もっと繊細で、規則的な律動。まるで大地そのものの心音のように。
「お嬢様、お気をつけ──」
ランベールの制止が耳に届く前に、私の手は書物に触れていた。
世界が、裏返った。
視界が白に塗り潰され、次の瞬間、膨大な情報が頭蓋を満たした。足の裏から全身を駆け上がる奔流。大地の下を流れる水脈の位置が分かる。岩盤の亀裂の深さが分かる。土壌の中で眠る種子の数が分かる。この土地の全てが、一度に、同時に、私の中に注ぎ込まれてくる。
「──っ」
声にならない悲鳴が喉を突いた。情報の激流に脳が処理を追いつけない。視界がぐるりと回転し、足から力が抜けていく。膝が床に落ち、指が書物の頁を掴んだまま離れない。離したいのに、身体が言うことを聞かなかった。背骨を灼くような熱と、それに拮抗する大地からの冷たい脈動が、体内でぶつかり合って意識を削り取っていく。最後に見えたのは、書物の頁に記された母の筆跡。
『──セラフィーナへ。あなたの足元にある全てが、あなたの力です』
意識が途切れる直前、大地の心音が一際大きく脈打った。
闇の中で、私は聴いた。
北の森から響く、低く長い遠吠え。一匹ではない。幾重にも重なる咆哮が、夜の大気を震わせている。
魔獣の群れが、動き始めていた。