第1話
第1話
銀の燭台が百と並ぶ大広間で、私の名誉が処刑された。
「──よって余は、セラフィーナ・ヴァルディア公爵令嬢との婚約を、本日をもって破棄する」
第二王子ルシアンの声が、磨き上げられた大理石の床を滑り、天井画の女神たちに吸い込まれていく。玉座の間に集った三百余名の貴族たちが、一斉に息を呑む音が聞こえた。扇の陰でほくそ笑む令嬢たち、目を伏せる文官たち、そして──玉座の左右で、互いに視線を交わす王妃派と宰相派の重鎮たち。
銀の燭台が放つ光が、彼らの表情をくっきりと浮かび上がらせていた。琥珀色の灯火に照らされた顔、顔、顔。どれもが仮面のように整っていて、その裏で渦巻く思惑だけが生々しい。薔薇の香油と蜜蝋の匂いが混じり合う空気は、甘ったるいのに息苦しかった。
ああ、やはりそういうことか。
私は背筋を伸ばしたまま、広間の空気を読んだ。ルシアン殿下の隣に立つ男爵令嬢リーゼの存在など、この劇の本質ではない。王妃派が宰相派を牽制するために、ヴァルディア公爵家という駒を盤面から弾いたのだ。父が病床に伏して以来、我が家の政治的価値は急落していた。使い捨てるなら今、というわけだ。
胸の奥で、冷たい水が静かに広がるような感覚があった。怒りではない。悲しみでもない。長い時間をかけて覚悟していた現実が、ようやく形を取っただけのこと。むしろ、こんなにも明確に切り捨ててくれたことに、奇妙な清々しさすら覚えた。
私は三百の視線を浴びながら、指一本震わせなかった。泣き崩れることを期待している者、怒りに我を忘れることを望んでいる者、あるいは両方。そのどれにも、私は応じるつもりがなかった。
「殿下のご英断、謹んでお受けいたします」
静かに、しかし広間の隅まで届く声で言った。ルシアン殿下が一瞬、眉を動かす。この方は優しいのだ。優しいだけで、弱い。隣のリーゼが不安げに殿下の袖を掴んだのが見えた。あの小さな手が、この国の行く末を握っているのだと思うと、皮肉を通り越して哀しくなる。
私は続けた。
「ただし、一点だけ。亡き母セレスティーナが陛下より賜り、現在王領預かりとなっているカルデア領の返還を、お願い申し上げます」
広間にざわめきが走った。宰相ギュンター卿が眉根を寄せるのが視界の端に映る。カルデア──辺境の北東、魔獣が跋扈し、前の戦で荒廃しきった土地。王領に編入されてからは誰も手をつけず、実質的な放棄地。税収はほぼゼロ。地図の上では王国領だが、実態は魔獣の餌場だ。
「……カルデアを?」
ルシアン殿下が怪訝な顔をした。当然だろう。あの土地を望む人間など、この広間には一人もいない。
「母の思い出の地でございます。婚約破棄の慰謝として、過分なものとは存じません」
私は視線を殿下からわずかに外し、玉座の右手に座す国王陛下を見た。陛下はしばらく沈黙し、それから小さく頷いた。
「──よかろう。カルデアの領有を認める」
宰相が何か言いかけたが、陛下が手を上げて制した。価値のない土地を追放先に与えるだけのこと。反対する理由がない。むしろ、体のいい流刑地を自分から望んだのだから、王家としては都合がいい。
私は深く一礼し、踵を返した。三百の視線が背中に突き刺さる。哀れみ、嘲笑、安堵、そしてごくわずかな──畏怖。
大広間の扉が閉じた瞬間、世界が変わった。
華やかな喧騒が分厚い扉一枚で遮断され、回廊には自分の靴音だけが響いた。高い天井に反響するその音が、まるで別人の足音のように聞こえた。もう二度と、あの扉の向こうに戻ることはない。そう思った途端、肺の奥に溜まっていた空気がゆっくりと抜けていくのを感じた。
薄暗い回廊の壁に並ぶ歴代王族の肖像画が、燭台の乏しい灯りの中で無言でこちらを見下ろしていた。彼らもまた、宮廷の力学に翻弄された者たちだ。勝った者もいれば、消えた者もいる。その中に、私の名が書き加えられるのだろう。追放された令嬢、と。
控えの間で待っていた老執事ハンスが、蒼白な顔で立ち上がった。
「お嬢様──」
「荷造りを。明朝、カルデアに発ちます」
「し、しかし──」
「ハンス」
私は老執事の目を見た。父の代から仕えてくれた忠臣。母が亡くなったとき、誰よりも泣いていた人。深く刻まれた皺の一本一本に、公爵家の盛衰が記されている。
「母上がカルデアに残した書斎が、まだ無事だと聞いています。確認したいことがあるの」
ハンスは何かを察したように口を閉じ、深く頭を下げた。
「……御意に」
その声はかすかに震えていた。けれど老執事の眼差しには、恐れよりも深い決意が宿っていた。この人は、私がただ感傷で動いているのではないと、分かっているのだ。
馬車の手配は驚くほど早かった。公爵家の紋章が入った大型馬車ではなく、商人が使うような地味な二頭立て。それでいい。目立つ必要はない。
護衛についたのは騎士が二人だけ。かつて公爵家の近衛を務めていたが、家の没落とともに行き場を失っていた者たちだ。年嵩のほう──ディルクが、馬車の窓越しに低い声で言った。
「セラフィーナ様。……お考え直しいただけませんか」
「何を?」
「カルデアは、人の住む土地ではありません。北東辺境軍が撤退してから三年、魔獣の生息域は街道まで広がっています。防壁は半壊、領民は残っていても百に届かないかと。率直に申し上げれば──」
「死地、でしょう?」
ディルクが口をつぐんだ。
私は馬車の窓から、遠ざかる王都の尖塔を見つめた。夕日が白亜の塔を朱に染めている。美しい都だ。権謀術数と虚飾に満ちた、美しい牢獄。
「知っているわ。だからこそ、行くの」
膝の上で、右手が震えていた。それを左手で押さえる。これは怒りではない。恐怖でもない。
母上が守ろうとして、守りきれなかった土地。宮廷の策謀に巻き込まれ、志半ばで命を落とした母が、最後まで手放さなかった領地。王領に編入された後も、母の居館だけは封印されたまま残っていると、ハンスから聞いていた。
あの書斎に、何かがある。母上が私に遺そうとしたもの。
「ディルク。カルデアの現状について、知っていることをすべて話して」
「は──。まず防壁ですが、北面と東面が完全に崩落。補修する石工も資材もなく、夜間は魔獣が集落近くまで侵入することもあると。農地は大半が放棄され、残った領民は細々と狩猟と採集で──」
馬車が石畳から土道に変わり、車体が大きく揺れた。王都の舗装はここまで。この先は辺境へと続く一本道だ。車輪が土を噛む音に変わり、窓の外を流れる景色も整然とした街並みから、まばらな農村へと移り変わっていく。
ディルクの報告を聞きながら、私は頭の中で計算を始めていた。防壁の再建に必要な資材と人手、食料の備蓄、魔獣への対処──次々と数字が浮かんでは組み合わさっていく。宮廷で十五年、社交と政争の渦中で磨かれた観察眼と分析力。帳簿の裏を読み、派閥の力関係を数字で把握し、三手先の政治を読む──「悪役令嬢」と嗤われた私の才覚は、あの華やかな鳥籠の中では害にしかならなかった。
だが、領地経営は違う。そこでは知略も計算も、すべてが正しく力になる。
「──死地で結構。死んだ土地は、生き返らせればいいだけのこと」
ディルクが目を見開いた。もう一人の若い騎士が、初めて顔を上げた。その若い目に、驚きとともに微かな火が灯ったのを、私は見逃さなかった。
窓の外、夕闇が迫る地平線の向こうに、北東の山脈がうっすらと見えた。あの山の麓がカルデア。魔獣の領域。母の遺した土地。
そして──私の、戦場。
馬車が闇の中を進む。王都の灯りはもう見えない。代わりに、遠い北の空に蒼白い光が瞬いた。魔力の残滓が大気に滲む、辺境特有の現象だとディルクが言った。
あの光の下に、カルデアがある。
右手はもう震えていなかった。代わりに、指先にかすかな熱を感じていた。脈打つような、微かな鼓動。気のせいだと思った。今はまだ。
だが三日後、母の書斎の扉に触れたとき、私はこの熱の正体を知ることになる。