第2話
第2話
その夜、カイは眠れなかった。
寝台に横たわり、天井の木目を見つめていたが、瞼の裏にあの赤黒い閃光がこびりついて離れない。何度目を閉じても同じだった。闇の中に焼きついた残像が脈を打つように明滅し、そのたびに心臓が不快に跳ねる。風も変わっていた。窓の隙間から忍び込む空気が、いつもの乾いた灰の匂いではなく、錆びた鉄を煮詰めたような重い臭気を含んでいる。舌の奥にまで金属の味が染みてくるようで、唾を飲み込んでも消えなかった。寝返りを打つたびに木剣の柄が壁に当たり、硬い音が暗がりに落ちた。
やがて、犬が吠え始めた。
一匹ではない。村の東端から始まった遠吠えが、西へ、南へと伝播していく。家畜小屋で馬が蹄を鳴らし、鶏が季節外れの声を上げた。カイは寝台を降り、窓に手をかけた。木枠が湿気を吸って膨らんでおり、力を込めてようやく開いた。
空が、燃えていた。
正確には燃えているのではない。天蓋を覆うように広がった赤黒い光が、雲の裏側から脈動している。星はすべて呑まれ、月すらもその光の奥に霞んでいた。地平線から地平線まで、灰の辺境の空という空が、どす黒い朱に染まっている。
「——なんだ、これは」
呟きは自分の耳にすら届かなかった。窓を開けた瞬間、生温い突風が顔を叩いた。風に混じっているのは匂いだけではない。肌を刺す微細な粒子のようなものが、腕の産毛を逆立てていく。息を吸い込むと、肺の底がひりついた。
詰所の鐘が鳴った。乱打だった。
打ち方に規則がない。警戒を示す三連打でも、火災を告げる早打ちでもない。ただ叩きつけるように鳴っている。それが意味するのは——打ち手自身がどの種類の警報を鳴らすべきか分からないということだった。
カイは木剣を掴み、裸足のまま外へ飛び出した。
通りにはすでに人が溢れていた。寝巻きのまま空を見上げる女たち、泣き叫ぶ子供を抱えた母親、呆然と立ち尽くす老人。誰もが赤黒い空を仰ぎ、同じ顔をしていた。生まれて一度も見たことのないものを前にした、理解の及ばぬ恐怖の顔だ。隣家の婆が膝をついて祈りの言葉を繰り返していたが、唇が震えすぎて声になっていない。赤い光が村人たちの肌を一様に血の色に塗り、まるで全員がすでに傷を負っているかのように見えた。
「守備隊、集合!」
隊長の怒号が通りの向こうから飛んできた。カイは走った。石畳が裸足の底を打ち、冷たさが脛まで駆け上がる。角を曲がるとき水溜まりを踏み、それが水ではなく赤黒い光を映した泥だと気づいて足が一瞬すくんだ。詰所の前に辿り着くと、同期のセドがすでに槍を手にして立っていた。右腕の火の紋章が、空の赤に呼応するように不規則に明滅している。
「カイ、空を見ろ。あれは——」
「分かってる。何が起きてるかは分からないが」
「紋が痛むんだ」
セドの声が震えていた。あの紋章発現式で歓喜に叫んだ男が、今は自分の右腕を左手で押さえ、顔を歪めている。額には脂汗が浮き、唇の色が失せて灰色になっていた。カイはセドの腕を見た。紋章の周囲の皮膚が、火傷のように赤く腫れ上がっている。熱を帯びているのが近くに立つだけで分かった。焼けた鉄のそばにいるような熱が、セドの右腕から放たれている。
「全隊員、東の街道沿いに防衛線を敷け!」
隊長が指示を飛ばす。だがその声にも、いつもの威厳は失われていた。カイを含む補助要員には住民の避難誘導が命じられた。正規兵たちが武器を手に東へ走っていく。セドもその中にいた。振り返りざまカイと目が合い、何か言おうとして——言葉を見つけられないまま走り去った。その背中が赤い光の中に小さくなるのを、カイは拳を握ったまま見送った。
異変は空だけでは終わらなかった。
東の街道から、霧のようなものが這い寄ってきた。地面を舐めるように低く広がる赤黒い靄。それは霧ではなかった。瘴気だ。古い戦記に記された、魔王の軍勢が通過した跡に残るという毒の大気。カイは書物でしか知らなかったが、目の前のそれは文字の上の知識とはまるで違った。靄が触れた草が瞬時に黒く縮れ、地面の虫が痙攣して動かなくなる。生あるものを蝕む呼吸そのものだった。靄の先端が街道沿いの柵に触れると、木材が音もなく朽ちて崩れた。数十年は保つはずの樫の柵が、砂のように崩壊していく。
「南の丘へ逃げろ! 丘の上は風が通る、瘴気が薄い!」
カイは声を張り上げた。喉が裂けそうだった。家々の戸を叩き、動けない老人の腕を取り、泣く子供を背に負った。足がもつれる村人の手を引き、何度も振り返りながら南へ走った。走りながら、東の方角を見た。
防衛線を敷いた正規兵たちの姿が、瘴気の壁に呑まれていくのが見えた。
最初に倒れたのは、風の下位紋を得たばかりの四人目の同期だった。名をヨルクという。瘴気が足元に達した瞬間、紋章が激しく明滅し、そのまま光を失った。ヨルクは膝から崩れ、槍を取り落とし、両手で喉を押さえて倒れた。二人目、三人目と同じことが起こった。紋章が瘴気に反応し、暴走し、持ち主の体力を奪って消える。紋章を持つ者ほど、瘴気の標的になっていた。
「セド——!」
カイは叫んだ。瘴気の中でセドの火の紋章が赤く燃え上がるのが見えた。セドは槍を構えたまま立っていた。紋章の光で周囲の瘴気を焼き払おうとしている。だが火は瘴気を退けられなかった。赤い光が瘴気に呑まれ、セドの叫び声が赤黒い靄の奥に沈んでいく。
カイは足を止めかけた。駆け戻ろうとした。だが背中には子供がいて、手には老人の腕があった。背中の子供が小さな拳でカイの肩を叩いた。怖い、怖いと繰り返す声が耳元で震えていた。
「走れ! 止まるな!」
自分に言い聞かせるように叫び、南の丘を目指した。振り返るたびに、村が瘴気に呑まれていくのが見えた。詰所の屋根が、祠の尖塔が、今朝まで自分の世界だったすべてが、赤黒い靄の底に沈んでいく。
丘の中腹まで登ったとき、カイはようやく足を止めた。背中の子供を下ろし、老人を草の上に座らせる。息が上がり、肺が焼けるように痛んだ。汗か涙か分からないものが顎を伝って落ちた。膝が笑い、立っているのがやっとだった。裸足の底は石畳と砂利で切れ、血が黒い土に滲んでいる。
丘の上には、十数人の村人が身を寄せ合っていた。カイの他に守備隊員の姿はない。正規兵は一人も上がってこなかった。
「セド……ヨルク……」
名を呼んでも、返事はなかった。丘の下では瘴気の海が静かにうねり、村の明かりをひとつ残らず消していた。赤黒い空の下に広がるのは、もはや灰の辺境ではなく、ただの闇だった。風すら止んでいた。音も消えていた。犬の遠吠えも、馬の嘶きも、鐘の音も——すべてが瘴気の底に呑まれ、丘の上にあるのは生き残った者たちの荒い呼吸だけだった。
カイは自分の手を見つめた。紋章のない手。瘴気の中を走り抜けてきたのに、肌には何の異変もない。セドの腕を焼いた瘴気が、カイには何も及ぼさなかった。
その意味を考える余裕はなかった。丘の西側から、松明の光がひとつ揺れながら近づいてきた。
「カイ」
ゲルドだった。片足を引きずり、肩で息をしながら、老鍛冶師は丘を登ってきた。鍛冶場の革前掛けのまま、顔は煤と汗にまみれている。その右手に——鍛冶場の壁にかかっていたあの古い剣が握られていた。
黒ずんだ革巻きの柄。読めない文字が刻まれた鍔。長い年月を経た鈍い銀色の刃。炉の明かりの下で一度だけ見たあの剣を、ゲルドは鍛冶場から持ち出してきたのだ。
「爺さん、村が——」
「分かっておる」
ゲルドの声は、鍛冶場で鉄を打つときと変わらなかった。揺るがず、静かで、ただ確かだった。老人は松明を地面に突き立て、カイの前に立った。赤黒い空が二人の影を長く引いている。
「昨日お前に言ったな。お前の剣はまだ何も斬っていない、と」
「ああ」
「時が来た」
ゲルドが、古い剣を両手で差し出した。鍔に刻まれた文字が、赤黒い空の光を受けて——否、空の光とは無関係に、文字そのものが内側から淡く、青白く光り始めていた。
「カイ。この剣を持て」