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無紋の剣が拓く果て

第3話 第3話

第3話

第3話

カイは差し出された剣を見つめた。

鍔に刻まれた古代文字が青白い光を放ち、赤黒く染まった空の下で異質な色を落としている。光は脈動していた。心臓の鼓動のように——否、カイ自身の鼓動とは異なる、もっと深く、もっと遠いところから届く律動だった。空気が変わった。瘴気の鉄錆びた臭気の中に、かすかに清冽な風が混じる。剣の周囲だけ、瘴気が避けるように薄まっていた。刃についた古い傷が光を受けて白く浮かび、その一本一本が長い歳月の記憶を刻んでいるように見えた。

「爺さん、この剣は——」

「聞いておる暇はない」

ゲルドの声が鋭く遮った。老鍛冶師の目が丘の下を見据えている。カイもその視線を追い、息を呑んだ。

瘴気の海が、動いていた。

村を呑み込んだ赤黒い靄が、ゆるやかに、だが確実に丘の斜面を這い上がってきている。草が黒く枯れていく境界線が、じりじりと上がっている。靄の先端までの距離は、もう五十歩もなかった。

「丘を越えて西へ行け。尾根伝いに半日歩けば、灰の辺境を抜けられる。その先に港町がある」

ゲルドが淡々と言った。鍛冶場で鉄の焼き加減を告げるのと変わらない口調だった。

「港町だと——爺さん、一緒に」

「この足で全員と歩けると思うか」

ゲルドが自分の左足を顎で示した。片足を引きずって丘を登るだけで、老人の息は上がりきっている。額の汗が煤と混じり、皺の谷間を黒い筋になって流れていた。走ることはおろか、まともな速さで歩くことすら叶わない。それは昨日も一昨日も同じだったが、今この瞬間に突きつけられると、その事実の重さが喉に張りついた。

「カイ。お前が連れていけ。動ける者を全員連れて、丘を越えろ」

「——馬鹿言うな。爺さんを置いていけるわけが」

「わしが殿を務める」

ゲルドが古い剣をカイの胸に押し当てた。柄の革紐が掌に触れた瞬間、指先から腕を通って胸の奥まで、冷たい水が流れ込むような感覚が走った。痛みではない。空虚な胸の内側に、何かが注ぎ込まれるような——それが何であるかを理解する前に、ゲルドの手がカイの手首を掴み、剣を握らせた。老人の握力は衰えていたが、その指に込められた意志だけは鉄のように硬かった。

「爺さん」

「お前の父は、この剣を探して死んだ」

声が、初めて揺れた。ゲルドの目の縁に光が滲んでいる。だが老人はそれを拭わず、ただカイの目を真っ直ぐに見ていた。炉の火に照らされた鍛冶場で、何百回と鉄を打ってきた目だった。熱に耐え、焼け、それでも逸らさなかった目だ。

「アスク——お前の父は、辺境の外で古い文献を追っていた。この大陸の瘴気がいつか蘇ることを知っていた。そして、それに抗える唯一の手がかりがこの剣だと突き止めた。だが見つけ出す前に命が尽きた。わしが遺志を継ぎ、二十年かけて掘り出した」

丘の下から、瘴気が這い上がる音が聞こえた。音と呼べるものではない。草が朽ちる囁きの連なり、土が腐る湿った呻き、生あるものが蝕まれていく微かな悲鳴の集積。それが絶え間なく近づいている。

「この剣が導く場所へ行け」

ゲルドが背を向けた。松明を引き抜き、片足を引きずりながら斜面を下り始める。

「待て——爺さん!」

カイは叫んだ。足が動かなかった。手の中の剣が、重かった。剣そのものの重量ではない。託されたものの重さが、足を丘の土に縫い留めていた。

ゲルドは振り返らなかった。松明を掲げ、斜面の途中で立ち止まると、腰の鉈を抜いた。鍛冶師の道具だ。鉄を断つための刃であって、戦の武器ではない。だが老人はそれを正面に構え、這い上がってくる瘴気に向き直った。

「来い」

低く、静かに言った。瘴気に向かって——あるいは、かつての戦友に語りかけるように。

「アスク。お前の息子は大丈夫だ。わしが見届けた」

鉈が振り下ろされた。刃が瘴気の先端を斬りつけた瞬間、金属が赤熱したように光り、瘴気がわずかに退いた。ゲルドの足元に円を描くように、靄の進行が止まる。鍛冶師の腕が瘴気を叩くたびに火花が散り、赤黒い闇の中にゲルドの姿だけが明るく浮かんだ。

だがそれは、長くは保たなかった。

鉈の輝きが鈍くなっていく。ゲルドの腕の振りが遅くなる。瘴気は退いた分だけ押し返し、老人の足元に再び這い寄った。靄がゲルドの足首に触れた。膝に達した。老人は歯を食いしばり、なおも鉈を振ったが、身体が傾ぎ始めていた。

「行けと言っておろうが——!」

ゲルドが初めて振り返り、叫んだ。その顔を見て、カイは悟った。老人は最初からすべてを分かっていた。この丘を下りた瞬間から——いや、鍛冶場で剣を持ち出した瞬間から、自分がどうなるかを承知のうえで、ここに来たのだ。

カイは剣を握り直した。喉の奥から声にならない声が込み上げた。涙ではなかった。泣いている場合ではないと、身体のどこかが叫んでいた。

「——みんな、立て! 丘を越えるぞ!」

背後の村人たちに向かって叫んだ。声が裏返った。構わなかった。子供を抱えた母親の腕を取り、老人の背を押し、立ち上がれる者を次々と立たせた。動けない者は動ける者が支えた。十数人の群れが、よろめきながら丘の反対側へ歩き始めた。

最後にもう一度だけ、カイは振り返った。

斜面の中腹で、ゲルドが膝をついていた。鉈はもう振れていない。だが老人は倒れなかった。片膝を地面に突き、鉈を杖のように支えにして、壁のように立っていた。瘴気がその身体を呑み込んでいく。足から、腰から、胸へと赤黒い靄が這い上がる。最後にゲルドの顔が見えた。

笑っていた。

鍛冶場で良い鉄が焼き上がったときの、あの不器用な笑みだった。瘴気の闇が老人の姿を完全に呑み込んだのは、カイが目を逸らすより一瞬だけ早かった。

丘を越えた。

足が動く限り歩いた。尾根伝いの道は獣道にも満たない細さで、暗闇の中を木の根に躓き、岩に膝を打ちながら進んだ。カイは剣を背に負い、先頭を歩いた。枝が頬を引っ掻き、薄い血の味が唇に触れたが、痛みを感じる余裕すらなかった。振り返ると、東の空が赤黒く脈動しているのが樹々の隙間から見えた。あの赤がどこまで追ってくるのか、誰にも分からなかった。

手の中に、ゲルドの体温がまだ残っている気がした。剣の柄を握るたびに、押しつけられた掌の感触が蘇る。あれが最後に触れた人の手だった。父を亡くしたのは幼い頃で、記憶は曖昧な温もりとしてしか残っていない。だがゲルドの手は覚えている。分厚い掌。鉄を打ち続けて硬くなった指。あの手がもう二度と槌を握ることはない。

歩きながら、カイは唇を噛んだ。泣きたいのか、叫びたいのか、自分でも分からなかった。ただ足を動かし続けた。背後の村人たちも、誰一人声を発さなかった。子供の泣き声すら途絶えていた。疲弊と恐怖が言葉を奪い、ただ前へ進む足音だけが夜の尾根に連なっていた。時折、誰かが躓いて石を蹴る音が闇に響き、そのたびに全員の足が一瞬止まった。何かが追いついてきたのではないかという恐怖が、列の端から端まで波のように伝わった。

夜が明けかけた頃、尾根道が下りに転じた。樹々が低くなり、潮の匂いが風に混じり始めた。足元の土が砂に変わり、道の先に灰色の海が見えた。

港町が、眼下に広がっていた。

石造りの防波堤に囲まれた小さな港。斜面に張りつくように並ぶ家屋の屋根。まだ夜明け前だというのに、町のそこかしこに明かりが灯っている。火の灯りだけではない。松明を手にした人影が通りを行き交い、港には帆を降ろした船が何隻も密集して停泊していた。カイたちだけではない。この町に逃れてきた者は、他にもいるのだ。

「着いた……」

後ろで誰かが呟き、膝を折った。子供を抱えた母親が座り込み、老人が石に背を預けた。緊張の糸が切れ、嗚咽が漏れ始めた。カイは立ったまま、港町を見下ろしていた。

安堵はなかった。

目を上げた。港町の上に広がる空は、灰の辺境ほどではない。だがそこにも——夜明けの白に混じって、薄い赤が滲んでいた。朝焼けとは違う、濁った赤。見覚えのある色だった。あの村の空を呑み込んだ赤黒さの、希釈された残響がここにもある。

瘴気は、灰の辺境だけのものではなかった。

カイは背の剣の柄に手を伸ばした。古代文字に指先が触れる。微かな脈動が返ってきた。丘の上で初めて握ったときと同じ律動——遠く、深く、この大陸の地の底から届くような振動だった。剣は何かを示そうとしている。この剣が導く場所へ行け——ゲルドの最後の言葉が、潮風の中で甦った。

港町の空が、薄く赤い。その赤は東だけでなく、北にも、南にも、どこまでも淡く広がっていた。

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