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老錬金術師、辺境で茶を淹れる

第3話 第3話

第3話

第3話

夜明け前に目が覚めた。

窓の外はまだ薄暗い。東の空の端だけが、灰色から淡い紫へと滲み始めている。寝台の脇に置いた布包みに手を伸ばすと、触媒石の軽さが掌に収まった。昨日と変わらない、澄んだ手触り。指の腹で表面をなぞると、焼結のときに生まれた微細な凹凸が爪の先に引っかかる。この小さな窪みのひとつひとつが、鉄を捕まえる口になる。

階段を下りて庭に出ると、朝露が草の葉に粒になって光っていた。裸足の爪先に冷たい土の感触が伝わる。空気が湿っている。夜のあいだに丘陵のほうから霧が降りてきたらしく、麦畑の上に薄い靄がたなびいていた。

井戸の縁に立つ。釣瓶の綱を手繰り、まず一杯汲んでみた。鼻先に寄せると、昨日と同じ鉄の匂い。舌に乗せれば、あの渋い後味。最後の確認だった。

布包みを解いて、触媒石を掌に乗せた。灰白色の表面に朝の薄明かりが当たり、微かに青みがかって見える。内部の無数の穴が光を含んでいるのだろう。

静かに井戸の中へ下ろした。綱に結びつけた石が、水面に触れる小さな音がした。ぽちゃん、という幼い響き。それだけだった。大仰な術式も、詠唱も、光る魔法陣もない。ただの石がただの水に沈む。それだけのことだ。

綱を井戸の縁に括り付け、エルハルトは手を拭った。

あとは待てばいい。触媒石が鉄イオンを吸着するには時間がかかる。半日——いや、井戸全体の水量を考えれば一晩はかかるだろう。そう踏んでいたが、急ぐ理由もない。

家に戻り、薬草茶を淹れた。昨日と同じ配合。カモミールに似た甘い香りが部屋に広がる頃には、窓の外が白んできていた。鳥の声がひとつ、ふたつと増えていく。村が目を覚ます気配が、空気の揺れ方でわかった。

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翌朝のことだった。

日の出とともに庭に出て、井戸の釣瓶を下ろした。引き上げた桶を覗き込み、エルハルトは小さく息を吐いた。

水が透き通っていた。

桶の底の木目がはっきり見える。昨日まで微かに濁りを帯びていた水が、まるで山の湧き水のように澄んでいる。鼻を近づけても、あの鉄の匂いがしない。掌に掬って口に含むと、ただ冷たくて、清い。渋みも金属の後味もなく、水そのものの味だけが舌の上に広がった。

「上出来だ」

呟いて、もう一口飲んだ。うまい水だった。喉を通る冷たさが、胸の奥まで沁みていくようだった。四十年の研究の果てに辿り着いたのが井戸水の浄化とは、宮廷の同僚が聞いたら呆れるだろう。だが、この一口の水の味は、どんな献上品よりも確かな手応えだった。

その日の午前中に、最初の訪問者が来た。垣根の向こうから聞き慣れた太い声が響く。

「エルハルトさん、おるかね」

村長のグスタフだった。昨日と同じ恰幅のいい体躯だが、表情がどこか落ち着かない。いつもの穏やかな目が、わずかに見開かれている。

「共同井戸の水がな——」

グスタフは言葉を探すように顎鬚を撫でた。

「今朝汲んだら、鉄の味がせんのだ。七年だぞ。七年ずっとあの味だったのが、急に消えた。何が起きたのかと思って」

エルハルトは少し迷った。触媒石は自分の家の井戸に沈めたものだ。共同井戸には手をつけていない。だが井戸が同じ水脈を共有しているなら、触媒石の効果が地下で繋がった水全体に及んでいる可能性はある。珪砂の焼結をやや甘めにして吸着面を広くとったのが効いたのかもしれない。

「ちょっとした浄水の細工をしたんです。私の井戸にだけのつもりだったのですが」

「浄水の——」

グスタフが目を丸くした。

「あんた、そんなことができるのかね」

「薬の調合の延長のようなものです」

それ以上は説明しなかった。錬金術の理屈を話しても仕方がない。グスタフも深くは聞かず、ただ何度も頷いて、「ありがたい、ありがたい」と繰り返した。去り際に振り返って、「家内が喜ぶよ、あの人は水の味にうるさくてな」と照れたように笑った。

昼前には、村の女たちが井戸端に集まっているのが垣根越しに見えた。桶の水を掲げて日に透かし、互いに顔を見合わせては笑っている。子どもが走ってきて、桶に顔を突っ込むようにして水を飲んだ。母親が慌てて襟首を掴むのを、周りの女たちが笑って見ていた。

午後になると、訪問者が増えた。

最初はパン屋の女将だった。ふくよかな腕に籠を抱え、湯気の立つパンを三つ、エルハルトの前に差し出した。

「井戸のこと、村長さんから聞いたよ。あんたのおかげだって」

「大したことでは——」

「大したことだよ」

女将は笑いながら、けれどもその目は笑っていなかった。潤んでいた。

「うちの末の子がね、ずっとお腹の具合が悪くてね。水のせいだってわかっていても、どうにもならなくて。今朝、あの子が水を飲んで『おいしい』って言ったんだ。七つになって初めてだよ、井戸の水をおいしいって言ったのは」

エルハルトは何と応えればいいかわからず、ただパンを受け取った。焼きたての温もりが布越しに伝わる。小麦と酵母の素朴な香りがした。

「先生、って呼んでもいいかね」

「——薬師ですらないのですが」

「薬だろうが何だろうが、村を助けてくれた人は先生だよ」

女将はそう言い切って、からからと笑いながら帰っていった。その背中を見送りながら、エルハルトは苦笑した。先生。宮廷では誰もそうは呼ばなかった。錬金術師殿、主任殿、エルハルト卿。肩書きに紐づいた呼称はいくつもあったが、どれも自分の名前ではなく役職を指していた。

先生、という呼び方は違う。何の権威も裏づけもない、ただの敬意だ。焼きたてのパンと一緒に渡された、飾り気のない感謝。

パンをちぎって口に入れた。外は薄く焦げて香ばしく、中は柔らかい。井戸水で練った生地だろう。あの鉄臭い水で作ったパンにも、きっとかすかな渋みがあったはずだ。これからは、それがなくなる。

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夕方になると、訪問者の波も引いた。

エルハルトは庭の椅子に腰かけて、残りのパンと薬草茶で遅い食事をとっていた。西の空が橙に染まり始め、丘陵の稜線が黒い切り絵のように浮かぶ。風が凪いで、麦畑の穂先が静止している。虫の声がまだ始まらない、夕暮れの一番静かな時間帯だった。

宮廷で四十年かけて積み上げた技術が、井戸の石ひとつになった。滑稽だろうか。いや、これでいい。パンを持ってきてくれた女将の潤んだ目を思い出す。あの表情の前では、宮廷での栄誉も、国王への献上品も、学会での評価も、ひどく遠い出来事に思えた。

ここでは、水がきれいになった。それだけのことが、誰かの暮らしを変える。

パンの最後のひと欠片を口に入れたとき、垣根の向こうを誰かが通りかかった。猟師らしい男で、弓を肩にかけ、革のベストに鳥の羽根がついている。エルハルトと目が合うと、軽く帽子のつばに手をやって会釈した。

「先生、だな。グスタフの爺さんから聞いた。井戸の件、ありがたいこった」

「先生は大げさですよ」

「まあ、村じゃもうそう決まったんでな」

猟師はにやりと笑ったが、すぐに表情を引き締めた。

「それとな、ひとつ報せておこうと思って。今日の昼過ぎ、東の森の方角に煙が見えた」

「煙」

昨日の夕暮れにも、丘陵の向こうに煙らしきものを見た気がする。あのときは靄だろうと片づけたが。

「焚き火の煙だな。薄いが、はっきり見えた。あのあたりは獣道しかない森の奥でな、村の者は誰も入らん」

「旅人ですかね」

「旅人が通る道じゃあない」

猟師は腕を組み、少し考えるように首を傾けた。

「まあ、追い剥ぎや盗賊って柄でもないがな。煙が細い。一人か二人だろう。大きな火を焚く気配もない。ただ、気にはなるんで、明日あたり様子を見に行こうかと思っとる」

「そうですか。お気をつけて」

「ああ。何かわかったら知らせに来るよ、先生」

猟師は帽子に手をやって去っていった。その背中が夕陽の中に溶けていく。

エルハルトは空になった茶碗を膝に置いたまま、東の空に目を向けた。丘陵の向こう、森が黒く沈み始めている。煙は見えない。夕闇がすべてを覆い隠してしまう時間だった。

森の奥に誰かがいる。それが何を意味するのか、今の自分には関係のないことだ。

——関係のないことだ。

そう思いながらも、エルハルトの視線はしばらく森の方角から離れなかった。膝の上の茶碗が、夕風に冷やされてひんやりと重い。薬草茶の冷めた匂いが、夕風に攫われて消えていく。遠くで、一番星が丘陵の上に瞬き始めた。

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