Novelis
← 目次

老錬金術師、辺境で茶を淹れる

第2話 第2話

第2話

第2話

朝の光で目が覚めた。

天井の梁に差し込む陽射しが、木目の筋をくっきりと浮かび上がらせている。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。天蓋がない。石壁の冷気がない。代わりに、木の匂いと、窓の隙間から忍び込む草の香り。ああ、そうだ。ここはブレンハイムだ。

寝台から身を起こすと、古い木枠がぎしりと鳴った。階段を下りて暖炉の前に立つ。昨夜の灰がまだほんのりと温かい。新しい薪をくべる前に、まず水を汲もうと庭の井戸に向かった。

釣瓶を下ろし、引き上げる。桶に溜まった水を覗き込んで、エルハルトは眉をひそめた。

濁ってはいない。見た目にはただの井戸水だ。だが鼻先に届く微かな金属臭——鉄だ。それも地下水脈が鉄鉱の層を通っている類のものではなく、井戸の内壁そのものが錆びている匂いだった。

掌に掬って口に含む。舌の奥にざらつくような渋みが残る。飲めないほどではないが、毎日これを飲み続ければ腹の具合を崩す者もいるだろう。

「まあ、まずは掃除だな」

井戸のことは後回しにして、エルハルトは家の中に戻った。埃を払い、蜘蛛の巣を取り、窓を全開にする。床板を雑巾で拭くと、木目が濡れて艶を帯びた。もとは丁寧に手入れされていた家だとわかる。前の住人が出ていってから、どれほど経つのだろう。

庭の雑草にも手をつけた。根の張り具合からして、三年は放置されていたらしい。引き抜いた草を端に積みながら、エルハルトはふと手を止めた。雑草に混じって、セイヨウノコギリソウの若芽が伸びている。止血と消炎に使える薬草だ。誰かが意図して植えたのか、風に運ばれて根づいたのか。いずれにせよ、抜かずに残しておくことにした。

庭の半分ほどを片づけたところで、垣根の向こうから声がかかった。

「おうい、新しく来なさった方かね」

---

太い声の主は、恰幅のいい老人だった。日に焼けた顔に白い髭をたくわえ、目尻の皺が深い。手には籠を提げていて、中に卵がいくつか入っているのが見えた。

「村長のグスタフだ。昨日着いたと聞いてな、挨拶がてら」

「エルハルトです。王都のほうから越してきました」

「ほう、王都。はるばる遠くから。して、こちらでは何をなさるおつもりで」

「薬の調合を少々。あとは畑でもやれればと」

グスタフは「ほう」と頷いた。薬師か、という顔をしたが、それ以上は踏み込まなかった。辺境の村では、事情を深く聞かないのが礼儀なのかもしれない。代わりに籠の卵を差し出して、「まあ、これでも食ってくれ。越してきたばかりじゃ買い物もままならんだろう」と笑った。

「ありがたく」

卵を受け取りながら、エルハルトはさりげなく尋ねた。

「ひとつ伺いたいのですが、あの井戸の水は——」

「ああ」

グスタフの表情がわずかに曇った。

「鉄臭いだろう。すまんな、あの井戸はもう何年もああでな。村の中心にある共同井戸も似たようなもんだ。掘り直すにも石工を呼ぶ金がなくてな」

「何年も、ですか」

「七年か八年か。じわじわ悪くなってきてな。腹を壊す子もおるが、まあ沸かせば何とか、という具合で」

グスタフは籠を片手に持ち替え、空いた手で顎鬚を撫でた。

「煮沸すれば熱には殺せるが、鉄の味は消えんだろうな。慣れるしかない、と皆が言うとるよ」

エルハルトは黙って頷いた。慣れるしかない、という言葉の重さが、静かに胸に落ちた。七年も八年も、この水を飲み続けてきたのだ。子どもが腹を壊しても、仕方がないと受け入れて。

グスタフが帰ったあと、エルハルトは井戸の縁に腰かけて、しばらく水面を見つめていた。

鉄臭い水。原因は明白だった。井戸の内壁に使われている鉄の留め金が経年で腐食し、そこから錆が溶け出している。掘り直す必要はない。水脈そのものは清い。鉄を除去する触媒石をひとつ沈めてやればいい。

宮廷にいた頃なら、こんなものは仕事のうちにも入らなかった。錬金術師見習いが最初の一年で習う初歩の調合だ。珪�ite——珪砂を高温で焼結し、鉄イオンを吸着する多孔質の石を作る。素材は珪砂と木�ite——木炭の粉末、それに少量の石灰。すべて手元にあるか、その辺で拾えるものだ。

ただし、井戸ひとつぶんの水量を処理するには、触媒石の粒度と焼結温度を正確に制御しなければならない。粗すぎれば吸着面が足りず、密すぎれば水の通りが悪くなる。この匙加減が初歩の技術と実用の技術を分ける境目だった。

---

午後から調合に取りかかった。

庭の隅に錬金釜を据え、まず火を起こす。素材箱の中から珪砂の袋を出し、掌に広げて粒を確かめた。王都の市場で仕入れた上等な珪砂だ。粒が揃っていて不純物が少ない。本来ならもっと高度な調合に使うべきものだが、手元にあるのだから仕方がない。

木炭は昨夜の薪の燃え残りを砕いた。乳鉢で細かく擂り潰し、篩にかける。石灰は素材箱の隅に少量あった。三つの粉末を配合比を測りながら混ぜる。

ここからが本番だった。

錬金釜の温度を、手をかざすだけで読む。赤みがかった橙——まだ低い。もう少し薪をくべて待つ。橙が黄に変わり始めた瞬間に混合粉末を投入する。

投入してすぐは何も起きない。釜の中で粉末がゆっくりと溶け合い、やがて表面に薄い膜が張る。この膜の色が灰白色になったら第一段階の完了だ。宮廷の工房なら温度計と砂時計で管理するところだが、エルハルトにはそのどちらも要らなかった。四十年の手が覚えている。火色と、釜肌に触れたときの熱の伝わり方と、立ちのぼる湯気の匂い。それだけで十分だった。

膜が灰白色に変わった。火力を落とし、釜の中に冷たい井戸水を少量注ぐ。急冷によって内部に無数の微細な穴が生まれる——多孔質化だ。ここで注ぐ水の量と速度が、触媒石の性能を決める。多すぎれば石が割れ、少なすぎれば穴が開かない。

エルハルトは右手で柄杓を持ち、左手を釜の縁にかざしたまま、ゆっくりと水を注いだ。じゅう、と蒸気が上がる。その音を聞きながら、手のひらに伝わる蒸気の勢いで内部の温度変化を追う。

やがて蒸気が収まった。釜の中に、拳ほどの灰白色の塊が残っていた。

取り出して掌に乗せる。見た目はただの石だが、持ち上げると不思議なほど軽い。内部の無数の穴が空気を含んでいるからだ。表面を爪で軽く弾くと、澄んだ高い音がした。

「——うまくいったな」

焼結の具合、穴の密度、硬度。どれも申し分ない。宮廷の品質検査に出しても文句のつけようがない出来だった。いや、おそらく宮廷の若い術師にはこの精度は出せまい。彼らは温度計と砂時計に頼るから、数値に表れない微細な調整ができない。

もっとも、そんなことを誇る気はなかった。

エルハルトは触媒石を布で包み、明日の朝に井戸へ沈めることにした。今日はもう日が傾いている。急ぐ必要はない。効果が出るまでに半日はかかるから、朝一番に沈めて翌朝に結果を見ればいい。

---

夕暮れの庭に出ると、空が茜色に染まっていた。

丘陵の稜線がくっきりとした影になり、その手前の麦畑が風に揺れている。昨日と同じ景色のはずだが、一日を過ごしたあとでは少しだけ見え方が違った。あの丘の向こうにはどんな薬草が生えているのだろう。庭のセイヨウノコギリソウは来月には花をつけるだろうか。

井戸の脇に腰を下ろし、冷めかけた薬草茶を啜った。

布に包んだ触媒石が、足元にある。明日、これを井戸に沈めれば、村の水は変わる。大仰なことではない。錬金術師なら誰でもできる——はずの、ただの浄水だ。

けれど、七年もの間、誰もやらなかった。

この村に錬金術師がいなかったから、というだけのことだ。王都には術師が溢れている。宮廷だけで三十人、街の工房を合わせれば百を超える。それでも辺境の村の井戸水ひとつ、きれいにする者はいない。知識も技術も、届くべき場所に届かない。四十年かけて積み上げたものが、こんな小さな石ひとつに集約されるのは滑稽とも言えたが、不思議と悪い気はしなかった。

遠くで、村の子どもたちが笑う声が聞こえた。

明日の朝、あの子どもたちが飲む水は、鉄の味がしなくなっているだろうか。

エルハルトは茶を飲み干し、立ち上がった。触媒石を拾い上げて、その軽さを掌で確かめる。明日は早く起きよう。日の出とともに井戸に沈めて、あとは待てばいい。

玄関の戸に手をかけたとき、ふと背後の丘陵に目が向いた。夕陽の残照が稜線を赤く縁取っている。その丘の向こう——森との境目あたりに、何か薄く煙が昇っているように見えた。

目を凝らす。だが夕暮れの靄なのか煙なのか、この距離では判然としない。猟師が獣を燻しているのかもしれない。

「……気のせいか」

小さく呟いて、エルハルトは家の中に入った。明日は、水のことだけ考えればいい。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ