第3話
第3話
主治医ヨルグの診断は、予想通りの結末を迎えた。
「死因、心臓発作による急死。死亡推定時刻、昨夜子の刻から丑の刻の間」
羊皮紙に記された所見を、ドルフが淡々と読み上げた。書斎にはまだグスタフの体が安置されている。ヨルグは診断書に署名を終えると、鞄を閉じ、一度だけ私の方を見た。何か言いたげな目だった。だがドルフが「先生、お送りします」と促すと、老医師は黙って踵を返した。
あの一瞬の逡巡。ヨルグは何かに気づいていた。だが言わなかった。言えなかったのか、言う必要がないと判断したのか。前者なら圧力の存在を、後者ならこの世界の死因判定がいかに形式的かを意味する。どちらにせよ、正規の手続きで真相に辿り着く道は閉ざされた。
ヴェルナーが遺体を清めるために使用人を呼びに行き、書斎には私一人が残された。
壁の暗号を見上げる。前世の未解決事件の暗号と同一の体系。この事実の重さは、密室殺人の謎とは別の次元にある。だが今は、目の前の事件が先だ。父の死因を解明しなければ、暗号の意味を追う余裕すら生まれない。
窓際に膝をつき、昨日見つけた粉末の痕跡を再確認した。まだ残っている。清掃が入る前に採取しておくべきだ。机の上にあった小さな封筒を一つ拝借し、指先で慎重に粉末を集めた。量はごく僅か。だが分析の手段さえあれば、これは証拠になり得る。
問題は、この世界における分析手段を私が知らないことだ。
「レクト様」
振り返ると、ドルフが書斎の入口に立っていた。ヨルグを見送り、戻ってきたのだろう。眼鏡の奥の目が、床に膝をついた私の姿勢を観察している。
「何をなさっているのですか」
「窓の近くに粉末が落ちていた。気になったので見ていた」
嘘はつかなかった。だが全てを言う必要もない。ドルフは一歩書斎に入り、窓際を一瞥した。
「埃でしょう。この書斎は旦那様がお一人で使われていたため、清掃が行き届いておりません」
埃ではない。色も質感も匂いも違う。だがその反論を口にする前に、ドルフが続けた。
「レクト様。一つ、申し上げておくべきことがございます」
家令の声は丁寧だったが、その下に鋼のような硬さがあった。
「旦那様の死去に伴い、ヴァイス家の相続問題が生じます。ご長男エルヴィン様は王都の騎士団に所属、次男カイル様は学院に在籍中。お二方とも二年以上前に家を出られ、相続権の優先順位は下がっております。——現在この屋敷に住まわれている相続権者は、レクト様、あなたお一人です」
言葉の意味を、正確に理解した。
「つまり、父を殺す動機が最もあるのは私だと」
ドルフの眼鏡が燭台の光を反射した。表情は変わらない。だが沈黙が、肯定だった。
「旦那様の死因は心臓発作と診断されました。不幸な自然死です。——このまま、穏便に葬儀を執り行い、相続手続きに移ることが、ヴァイス家にとって最善と存じます。不要な詮索は、レクト様ご自身のお立場を危うくするだけです」
脅しではない。忠告だ。少なくともドルフは忠告のつもりで言っている。没落貴族の三男が父の死を不審だと騒ぎ立てれば、辺境伯府の役人が来る。調べれば調べるほど、動機を持つ唯一の在宅相続人に疑いが集中する。結果、殺してもいない罪で裁かれる可能性すらある。
黙って頷いた。ドルフは一礼して書斎を去った。
足音が遠ざかるのを待ち、私は窓枠に向き直った。擦過痕を改めて観察する。爪で木材を擦ったときにできるものとは異なる。もっと硬い、金属質の道具が滑った跡だ。窓の外側からこじ開けようとしたか、あるいは閉める際に道具が引っかかったか。
施錠を確認する。この窓の錠は内側から掛ける差し込み式で、現在はしっかりと閉まっている。だが差し込みの金具に、ごく僅かな歪みがあった。本来まっすぐであるべき金具の先端が、零点数ミリ外側に曲がっている。外から細い道具を差し込み、錠を操作した痕跡と矛盾しない。
この密室は、外部から作られた。窓から侵入し、犯行後に窓から退出し、外側から施錠を戻した。扉の閂は——内側からしか掛けられない構造だ。だとすれば、閂は犯行前から掛かっていたか、あるいは別の手段がある。
思考を中断したのは、廊下の気配だった。足音を忍ばせて近づいてくる者がいる。体重の軽い、小さな歩幅。
「リーネか」
「……はい」
少女は書斎の入口から顔だけを覗かせた。ドルフがいないことを確認するように左右を見てから、中に入ってきた。
「聞いていたのか」
「全部ではありません。でも、ドルフ様が『詮索するな』と仰ったのは聞こえました」
リーネの目は赤くなっていた。泣いたのだろう。だが今は涙を拭い、まっすぐに私を見ている。
「レクト様は、どうされるおつもりですか」
選択肢は二つだ。一つは、ドルフの忠告に従い、自然死として処理する。穏便に相続を進め、没落貴族の当主として静かに生きる。もう一つは、自ら真犯人を見つけ出す。容疑者である自分が探偵を兼ねるという、前世でも経験のない状況で。
だが——選択肢は、実質的に一つしかなかった。
壁の暗号が目に入る。前世と同じ体系。この謎は父の死と繋がっている。父が殺された理由が暗号にあるなら、暗号を解くには父の死の真相が必要であり、父の死の真相を知るには暗号を読む必要がある。二つの謎は不可分だ。どちらか一方だけを追うことはできない。
「調べる」
短く答えた。リーネの表情に、恐怖と安堵が同時に浮かんだ。
「手伝います。私、旦那様のお世話を六年間してきました。この屋敷のことなら何でも知っています」
十四歳の少女の申し出を、断る理由はなかった。この世界の常識を知らない私には、案内人が要る。
「一つ確認したい。この屋敷に、定期的に出入りする外部の人間はいるか」
リーネは少し考えてから答えた。
「主治医のヨルグ先生。月に一度の往診です。あとは——薬商人のガルドという方が、やはり月に一度、旦那様に薬草を届けに来ていました」
薬商人。薬草。窓際の粉末と残り香が、急速に像を結び始めた。
「ガルドが最後に来たのはいつだ」
「三日前です。旦那様がお亡くなりになる、二日前の——」
リーネが自分の言葉に気づいて息を呑んだ。口論があった夜の前日。時系列が重なる。
「ガルドが届ける薬草は、どんな匂いがする」
「苦い匂いです。鼻の奥がつんとするような。私、廊下ですれ違うといつもその匂いがして——」
リーネの声が止まった。目が大きく見開かれる。
「書斎の、あの匂いと同じです」
窓際の粉末を収めた封筒に、指先で触れた。苦みのある薬草の残り香。薬商人ガルドが常用する触媒の匂い。書斎の窓枠についた金属道具の擦過痕。口論の日時と訪問記録。
点が線になりかけている。だがまだ「かけている」に過ぎない。証拠と呼ぶには薄く、推理と呼ぶには穴がある。この世界の薬草がどれほどの種類があり、同じ匂いの物質が他にないという保証はどこにもない。
「リーネ。ガルドの次の訪問はいつだ」
「分かりません。でも——ガルドさんは街の薬師通りに店を持っています」
店がある。ならば調べに行ける。だがその前に、この書斎でやるべきことが残っている。壁の暗号。父が晩年に刻んだという文字列の中に、事件の鍵が埋まっている可能性がある。
窓に背を向け、壁に向き合った。暗号の配列を一文字ずつ目で追う。前世の解析技法をそのまま適用することはできない。文字体系が異なる以上、頻度分析から始める必要がある。時間がかかる作業だ。だが——急ぐ理由があった。
ドルフは葬儀を急いでいる。葬儀が終われば遺体は焼かれ、書斎は清掃され、物理的証拠は全て消える。残された時間は、おそらく二日。
それまでに、証拠を固めなければならない。容疑者は探偵自身。持ち時間は二日。味方は十四歳の侍女と、まだ態度を明らかにしない老執事だけ。
足りない。圧倒的に足りない。だが——前世でも、いつだってそうだった。証拠は足りず、時間は足りず、味方は少ない。それでも、論理だけは裏切らない。
壁の暗号の前で、私は最初の一文字を書き写し始めた。