第2話
第2話
侍女の顔は蒼白だった。
名前はリーネ。レクトの記憶を辿ると、屋敷に仕えて六年になる少女で、年齢は十四。孤児院の出身で、先代が直接引き取った経緯がある。今、彼女の瞳は大きく見開かれ、瞳孔が収縮と拡張を繰り返していた。過呼吸の一歩手前。だが泣いてはいない。泣くより先に、恐怖が感情を凍らせている。
「父上は亡くなった」
事実だけを伝えた。リーネの膝が折れかけ、壁に手をついて堪えた。その反応は予期していたものと一致する。だが——続く言葉が、予想を外れた。
「やっぱり」
やっぱり。予期していた、という意味の言葉だ。
問い質す間もなく、廊下の奥から重い足音が近づいてきた。家令のドルフだ。レクトの記憶によれば、ヴァイス家の財務と対外交渉を一手に担う実務家で、年齢は五十前後。銀縁の眼鏡の奥にある目は、常に帳簿の数字を追うように冷静だった。
「何事ですか、この騒ぎは」
書斎の中を一瞥し、ドルフの表情が変わった。だがその変化は、驚愕というより確認に近かった。眉間に皺を刻み、深く息を吐く。それから眼鏡の位置を直す。この男の癖だ。感情を整理するとき、決まって眼鏡に触れる。
「……旦那様」
ドルフは書斎に入り、グスタフの傍に歩み寄った。手首に触れ、首筋に指を当て、そして短く頷いた。
「お亡くなりです。——おそらく、御持病の発作でしょう」
持病。レクトの記憶を探る。父には心臓に持病があった、とされている。だが主治医の診察記録を見た記憶はない。「持病がある」という情報だけが、家族の間で共有されていた。
「葬儀の手配を急ぎましょう。辺境伯府への届け出も必要です。レクト様、ここは私にお任せを」
早い。あまりに手際が良い。主人の死を確認してから葬儀の手配に言及するまで、十秒と経っていない。悲嘆も動揺もなく、事務処理に移行している。有能な家令の合理性と言えばそれまでだが——違和感の形が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
「検死は行わないのか」
私の問いに、ドルフが眼鏡越しに視線を向けた。
「検死、ですか。レクト様、辺境領では領主家の死に際し、正式な検死を行う慣例はございません。主治医の所見と家令の確認をもって死因とするのが通例です。主治医のヨルグ先生には既に使いを出しました。心臓の持病による自然死と記録されることになるでしょう」
制度として、検死が存在しない。あるいは、この辺境領では形骸化している。前世の感覚では考えられないが、中世相当の社会制度であれば不思議ではない。法医学が発達していなければ、死因の特定は主治医の裁量に委ねられる。そして主治医の所見が「持病」と出れば、それ以上追及する仕組みがない。
反論する材料がなかった。窓枠の擦過痕も、薬草の残り香も、姿勢の不自然さも——この世界の常識において、それが異常であるという根拠を私は持っていない。前世の捜査知識は、この世界の文脈を欠いている。「密室で外傷のない死体は他殺の可能性がある」という主張は、科学捜査と法制度が整備された世界でこそ通用する論理だ。
ドルフが使用人たちに指示を出し始めた。遺体の清め、葬儀場の準備、近隣への通知。機械のように正確な段取りが進んでいく。書斎から人が引いていき、私とヴェルナー、そしてリーネだけが廊下に残された。
ヴェルナーは何も言わなかった。老執事の沈黙には、長年の奉公で培われた慎重さがあった。主人の死に際して軽率な発言を避けているのか、それとも——言えないことがあるのか。
「レクト様」
リーネが、私の袖を掴んだ。小さな手が震えている。廊下には誰もいない。使用人たちはドルフの指示で散っていった。
「旦那様は殺されたんです」
声は低く、しかし確信に満ちていた。少女の怯えた表情の奥に、明確な意志が見えた。
「根拠は」
「二日前の夜です。私、書斎の前を通りかかったとき——旦那様の声が聞こえたんです。誰かと言い争っていました。旦那様があんなに大きな声を出されるのを、初めて聞きました」
「相手の声は聞いたか」
「男の人でした。低い声で、でも旦那様より若い。聞いたことのない声です。屋敷の者ではありません」
二日前の夜。口論。外部の人間。
「内容は聞き取れたか」
リーネは首を横に振りかけて、止まった。何かを思い出そうとしている。
「全部は聞き取れませんでした。でも、旦那様が『渡さない』と仰ったのは聞こえました。『あれは渡さない。お前たちには使いこなせない』と」
『あれ』が何を指すのかは分からない。だが先代が何かを所持しており、それを求める人間がいた。そしてその要求を拒絶した直後に、先代は死んだ。
「その夜、口論の後はどうなった」
「分かりません。怖くて、自分の部屋に戻ってしまいました。翌朝——昨日の朝、旦那様は普段通りでした。でもお顔の色が悪くて、朝食もほとんど召し上がらなかった」
「ドルフには報告したか」
リーネの表情が強張った。唇を噛み、視線を落とす。
「……しました。でもドルフ様は、『旦那様は客人と事業の話をされていただけだ。使用人が主人の会話を詮索するものではない』と」
却下された。しかも口論を「事業の話」と矮小化している。ドルフは口論の存在を知っていた。知った上で、問題にしなかった——あるいは、問題にしたくなかった。
リーネの証言は、私が書斎で観察した物理的痕跡と矛盾しない。外部の人間が窓から出入りした可能性を示す擦過痕。薬草の残り香。整えられた死体の姿勢。そして口論から二日後の死。点と点が線になりかけている。
だが、まだ足りない。この世界の常識を知らない私には、何が「異常」で何が「通常」なのかの判断基準がない。前世の捜査官なら即座に現場保全と聞き込みに移るところだが、没落貴族の三男にその権限があるのか。家令が自然死と断定し、主治医がそれを追認すれば、事件は存在しないことになる。
「リーネ。口論の相手について、他に覚えていることは」
「一つだけ。その人が帰ったあと、廊下に匂いが残っていました。薬草みたいな、苦い匂い。次の日に窓を開けても、なかなか消えなかった」
同じ匂いだ。書斎の窓際に残っていたものと。
足音が戻ってきた。ドルフだ。角を曲がる前に、リーネが素早く袖から手を離し、一歩退いた。少女は怯えている。ドルフを、ではない。この屋敷の中で「殺された」と口にすることの重さを、十四歳の少女は正確に理解している。
「レクト様、主治医のヨルグ先生がお見えです。死因の確認をしていただきます。お立ち合いになりますか」
形式的な問いだった。ドルフの口調は丁寧だが、立ち会わなくていいという意思が透けている。
「立ち会う」
私の即答に、ドルフの眼鏡の奥がわずかに動いた。想定外の返答。だが家令は表情を崩さず、「かしこまりました」とだけ答えた。
書斎へ戻る廊下を歩きながら、思考を整理した。この世界の制度では、主治医が「自然死」と記録すれば事件は消滅する。物理的証拠を正式に提出する手段もない。唯一の目撃——いや、目撃ですらない、リーネの耳証言は、家令によって既に一度黙殺されている。
ならば方法は一つだ。主治医の検死に立ち会い、この世界における死因判定の基準を把握する。その上で、前世の知識との差分から突破口を探る。未知の環境で捜査を行うなら、まず環境そのものを調査対象にするしかない。
書斎の扉が開いていた。初老の医師が鞄を開け、グスタフの体に手を当てている。主治医ヨルグ。レクトの記憶では、温厚で腕は確かだが、権力に逆らう気骨はない人物だった。
私は書斎に入った。壁一面の暗号が視界の端で揺れている。前世の亡霊のように。
ヨルグが振り返り、私を見た。そしてグスタフの顔に視線を戻し——一瞬だけ、眉をひそめた。医師としての何かが引っかかったのだ。だがその表情は、ドルフの視線を受けて、すぐに消えた。
「心臓の持病による急性の発作と思われます。苦しまれなかったようですな」
予想通りの所見だった。だが今の一瞬の逡巡を、私は見逃さなかった。
ヨルグにも、何かが見えている。見えた上で、言わないことを選んでいる。