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転生探偵、異世界の密室に挑む

第1話 第1話

第1話

第1話

暗号が、見えた。

それが最後の記憶だった。薄暗い資料室、壁一面に貼り付けた未解決事件の暗号文書。十七年間追い続けた配列パターンの法則性が、ようやく一本の線で繋がろうとしていた。指先が震えていた。視界の端が暗く滲み、心臓が不規則に軋んでいるのを感じながら、それでもペンを走らせた。あと少し。あと一行。——そこで途切れている。

次に意識が浮上したとき、私は天井を見ていた。

見覚えのない天井だ。石造りの、古い。蜘蛛の巣が梁の隅に張っている。空気が冷たく、かすかに黴と蝋燭の匂いがする。体が重い。指を動かすと、自分のものではない感触が返ってきた。細い。若い。骨格そのものが違う。四十二年間使い続けた体の輪郭を、筋肉の一本一本まで覚えている。これは、違う体だ。

起き上がると、眩暈がした。視界に映ったのは、中世の城館としか言いようのない部屋だった。石壁に掛けられた紋章旗。木製の調度品。窓の外には針葉樹の森が広がり、遠くに雪を被った山脈が見える。冷たい風が窓の隙間から忍び込み、肌を粟立たせた。

状況を整理する。私は死んだ。おそらく、心臓だ。過労は自覚していた。そして今、別の人間の体にいる。記憶が二重に存在している。この体の持ち主——辺境カルスター領、ヴァイス家の三男、レクト。十六歳。上の兄二人は既に領を離れ、騎士団と学院に所属している。没落貴族の末子。地位なし、人脈なし、財産なし。

だが、頭は動く。前世の四十二年分の記憶と、レクトの十六年分の記憶が、矛盾なく共存している。論理的思考に支障はない。むしろ妙に明晰だった。若い脳というのは、こういうものか。思考が澱みなく流れる。疲労の堆積がない。長年の睡眠不足で鈍っていた回転速度が、嘘のように滑らかに戻っている。

寝台から降り、足元の感覚を確かめながら部屋を出た。まず現状を把握する必要がある。探偵の習性は、体が変わっても消えないらしい。

廊下は薄暗く、燭台の火が等間隔に揺れていた。炎の色がやけに赤い。蝋の質が粗いのだろう。壁に映る影が不規則に伸び縮みし、石の廊下に奇妙な生々しさを与えていた。レクトの記憶を辿る。この時間、父——先代当主グスタフは書斎にいるはずだ。昨晩から籠もっているという記憶がある。石の床を踏む足音が反響する。屋敷は静かすぎた。使用人の気配がない。

書斎の扉の前で、足が止まった。

扉は閉まっている。ノックをしても返事がない。取っ手に手をかけると——施錠されていた。内側からの閂だと、レクトの記憶が告げる。

「父上」

声を発してみる。若い声だ。違和感がある。喉の振動が軽い。四十二年間聞き慣れた自分の声とは、まるで別の楽器を鳴らしているようだった。返事はない。扉の向こうからは、物音一つ聞こえなかった。

廊下に面した小窓から、書斎内部がわずかに見えた。覗き込んだ瞬間、背筋に冷たいものが走った。

机の前の椅子に、男が座っていた。グスタフ・ヴァイス。レクトの記憶にある父親の姿。だが明らかに、生きていない。胸の上下動がない。人間の体が発する微細な揺らぎ——呼吸、脈拍、無意識の筋肉の収縮——その全てが欠落していた。

人を呼んだ。老執事のヴェルナーが合鍵を持ってきて、扉を開けた。

書斎に踏み込んだ瞬間、まず匂いを確認した。血の匂いはない。腐敗もない。死後それほど時間は経っていない。室内の空気は冷えているが、暖炉に残った灰にはまだ僅かに温もりがあった。昨夜遅くまで火が入っていた証拠だ。

グスタフは椅子に深く腰掛け、両手を膝の上に置いていた。目は閉じられ、口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。外傷は見当たらない。まるで眠っているかのような——いや、違う。「眠っているような穏やかな死に顔」というのは、往々にして演出されたものだ。自然死で、この姿勢を維持して死ぬことは難しい。死の瞬間には筋肉の弛緩が起きる。椅子から崩れ落ちるか、少なくとも姿勢が乱れるはずだ。

誰かがこの体勢を整えた。死後に。

「旦那様……」

ヴェルナーが声を詰まらせた。私は黙って観察を続けた。今の私はレクト・ヴァイスであり、十六歳の少年がこの場で冷静な検死を行えば不自然に映る。だが、見逃すわけにはいかない。

机の上には羽根ペンとインク壺。開かれた書物。そして——壁だ。

書斎の壁一面に、文字が刻まれていた。

古い。インクではない。何らかの道具で石壁に直接彫り込まれている。レクトの記憶にはない。以前からあったのか、最近刻まれたのか。文字は既知のどの言語とも異なっていた。少なくとも、この世界の住人であるレクトの知識には該当するものがない。

だが——私の知識には、あった。

正確に言えば、「該当するもの」ではない。「酷似しているもの」だ。

心臓が跳ねた。若い体の心臓は、感情に素直に反応する。鼓動が耳の奥まで響き、指先に血が集まるのが分かった。

前世、十七年間追い続けた未解決事件。七つの現場に残されていた暗号文書。解読できなかった配列パターン。死ぬ直前に、ようやく法則性が見えかけていたあの暗号と——構造が同じだ。

文字そのものは違う。だが配列の論理構造、繰り返しの周期、記号の出現頻度分布。これは偶然の一致ではない。同一の体系から派生した暗号だ。あり得ない。前世の地球と、この異世界に、同じ暗号体系が存在する理由など。

「レクト様。お気を確かに」

ヴェルナーの声で我に返った。老執事は主人の死に動揺しながらも、私の様子を窺っていた。皺の深い顔に浮かんだ表情は、悲嘆だけではなかった。長年仕えてきた主人を失った衝撃の奥に、何かを計るような慎重さがある。

「ヴェルナー。この壁の文字は、以前からあったものか」

「……いいえ。旦那様が晩年に刻まれたものかと存じます。ここ数年、旦那様は書斎に籠もることが増えておいででした」

父が自ら刻んだ。つまり父はこの暗号体系を知っていた。没落貴族の当主が、なぜ。

靴底に微かな感触があった。床に何かが散っている。目を凝らすと、窓際の床に、極めて細かい粉末状の痕跡が残っていた。鼻を近づける。かすかに——薬草の匂いだ。苦みのある、鼻腔を刺す種類の。前世の知識には該当しない匂いだが、レクトの記憶の片隅に微かな引っかかりがあった。どこかで嗅いだことがある。だが、それがどこだったかまでは辿れない。いずれにせよ、書斎にあるべき匂いではない。

窓を確認した。施錠されている。だが窓枠の木材に、ごく僅かな擦過痕がある。最近つけられたものだ。木の繊維が新しく、周囲の風化した表面と明らかに色が異なっている。外から開閉された可能性がある。

施錠された扉。施錠された窓。外傷のない死体。笑みを浮かべた顔。整えられた姿勢。壁の暗号。薬草の残り香。窓枠の擦過痕。

情報が多い。そして、矛盾している。

自然死なら、薬草の匂いも窓枠の傷も説明がつかない。他殺なら、外傷がないことと、この穏やかな死に顔の説明が必要になる。密室の構成は、内側の閂と施錠された窓。だが窓枠の痕跡は、完全な密室という前提を揺るがしている。

前世で千を超える事件を見てきた経験が告げている。これは作られた現場だ。誰かが、グスタフを殺し、死体を整え、部屋を施錠して去った。そしてその人物は、窓から出入りした。

だが今の私はレクト・ヴァイスだ。十六歳の少年に、この推理を裏付ける手段があるのか。この世界の捜査技術も法制度も、まだ分からない。そもそも、没落貴族の三男に事件を調べる権限があるのかすら不明だ。

足音が廊下から近づいてきた。複数人。使用人たちが異変に気づき始めたのだろう。

私は壁の暗号をもう一度見上げた。前世で解けなかった謎が、異世界の石壁に刻まれている。父の死体の傍で。

——逃げられない。この謎からは、世界を変えても逃げられないらしい。

書斎の扉の外で、若い女の声が響いた。

「レクト様、旦那様は——旦那様はご無事ですか」

侍女だ。レクトの記憶にある、屋敷で最も長く仕えている少女。声が震えている。彼女は何かを知っている——あるいは、何かを聞いている。その確信が、探偵としての直感ではなく、声の震え方の分析から生まれた。悲嘆とは異なる振動。恐怖だ。死を知らされた悲しみではなく、死が来ることを予期していた者の恐怖。

まだ何も始まっていない。だが、全てのピースが揃い始めている予感がある。

私は書斎を出て、侍女の方へ向き直った。

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