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灰燼の策士と七つの禁忌

第1話 第1話

第1話

第1話

帝国の旗が翻る旧都の空を、カイ・ヴァルトハイムは一度も見上げたことがない。

見上げれば、それを認めることになる。紺碧に金の双頭鷲——エルドラの白百合を引き摺り下ろして掲げられたあの旗を、十年という歳月が正当なものに変えつつあることを。だからカイは俯いて歩く。煉瓦の隙間に生えた雑草を数え、水路の濁りで昨夜の雨量を読み、すれ違う人間の靴底の泥から、どの街区を通ってきたかを推し量る。それが情報屋の目だった。

旧都フォルクハルトの中央市場は、かつてエルドラ王国の心臓だった。白亜の列柱が並ぶ回廊には香辛料と絹が溢れ、大陸北東の交易路が此処で結ばれていたという。今はその列柱の半分が砲撃で欠け、残った柱には帝国語の布告が釘で打ちつけられている。市場は生きている。だが、かつての賑わいを知る者の目には、これは屍に群がる蠅の羽音に過ぎない。

カイは十五歳。痩せた体躯に擦り切れた外套を纏い、市場の裏通りを行く姿は、占領下の旧都にいくらでもいる浮浪の少年と区別がつかない。それでいい。目立たぬことが、この街で生き延びる第一の技術だった。

路地の角を曲がると、待ち合わせの男がいた。帝国軍の兵站部に出入りする下級文官で、名はゲルツ。酒と賭けに溺れ、給金だけでは足りぬ分を、こうして占領軍の内部情報を売ることで補っている。カイにとっては三月前から育てた情報源の一つだった。

「遅い」

カイは壁に背を預けたまま言った。声変わりの途上にある声を、わざと低く抑える。情報屋に年齢を悟らせるのは不利だった。

「勘弁してくれ、検問が増えた」ゲルツは額の汗を拭いながら周囲を窺った。「今月の糧秣輸送の日程だ。三日後に東門から穀物二十車。護衛は歩兵一個小隊」

「護衛の指揮官は」

「中尉だ。名前は……リンツ、だったか」

「リンツ中尉。東方辺境の出で、去年の秋に赴任した。賄賂は受け取らないが、部下の規律には甘い」

ゲルツが目を瞠った。カイは表情を変えない。情報屋は売る側より知っていなければならない。それが父の教えだった——いや、父が遺した暗号日誌の、最初の頁に記された言葉だった。

「銅貨八枚」カイは報酬を差し出した。

「前は十枚だった」

「精度が落ちている。先月の弾薬輸送、実際は二日ずれていた」

ゲルツは舌打ちしたが、銅貨を受け取って去った。カイは男の背を見送りながら、得た情報を頭の中で既存の断片と組み合わせる。東門の警備強化、糧秣の増便、リンツ中尉の配置——帝国は旧都の東方に兵を集めている。つまり北の山岳地帯で抵抗勢力が動いたか、あるいはその噂を帝国側が掴んだか。

この情報の買い手は二人いる。闇市の仲介人オルグと、旧都の地下に潜む名もなき連中。前者は金を払い、後者は別の情報で返す。どちらに売るかで、この街の明日が少しだけ変わる。

カイは東門ではなく、西の職人街へ足を向けた。オルグの店は表向き革細工の工房で、裏では占領下の旧都で流通するあらゆる禁制品と情報を扱っている。

工房の扉を押すと、鞣し革の酸い匂いが鼻を突いた。革と脂と、微かに火薬の残り香。棚に並ぶ帯革や鞍は見事な出来だが、買い手の大半は帝国の将校だ。征服者に媚びて商う——オルグを蔑む者は多いが、カイは軽蔑しない。生き延びる手段に貴賤はない。少なくとも、今は。

「おう、鼠か」

オルグは大柄な中年で、片目を帝国との戦で失い、残った左目でカイを値踏みするように見た。「鼠」はカイの通り名だ。旧都の路地裏を這い回り、壁の隙間から情報を齧り取る——我ながら似合いの名だと思う。

「東門の件、欲しいか」

「昨日の時点で掴んでいる。護衛がリンツだろう」

カイは僅かに眉を動かした。オルグの情報網はカイより広い。だが精度ではカイが勝ると自負している。

「なら別の土産がある。兵站部の人事異動。来月、旧都の軍政官が替わる」

オルグの左目が光った。軍政官の交代は、占領政策の転換を意味し得る。闇市への締めつけが強まるか緩むか——商人にとっては死活問題だ。

「買おう。銀貨二枚でどうだ」

「三枚」

「二枚半。これ以上はない」

カイは頷いた。交渉を長引かせるのは性に合わない。銀貨二枚半——これで十日は食える。

オルグが棚の奥から銀貨を取り出す間、カイは何気なく工房の壁に掛かった暦を見た。帝国暦四一七年、白霜の月。エルドラの暦では収穫月にあたる。十年前の同じ月に、王都は陥ち、父は処刑された。

「ところで鼠」オルグの声が低くなった。「グスタフの爺さんを知っているな」

カイの手が止まった。グスタフ。闇市で薬草を売る老人で、カイに何度か食事を分けてくれた数少ない人間だ。

「今朝、帝国の秘密警察に引っ張られた」

空気が変わった。秘密警察——正式名称は帝国治安維持局、通称「灰色外套」。通常の帝国兵とは別系統の組織で、占領地の思想犯と反乱分子を狩ることを任としている。闇市の薬草売りを引き立てるような連中ではない。

「容疑は」

「知らん。だが灰色外套が動いたのは、ここ半年で三度目だ。最初は旧王宮の書庫番、次に元貴族の未亡人。そして今度はグスタフ」

カイは三つの名を頭の中で並べた。書庫番は旧王家の記録に触れる立場にあった。元貴族の未亡人は、かつてヴァルトハイム家と姻戚関係にあった家の者だ。そしてグスタフは——十年前、父の使用人だった。

偶然ではない。線で繋がっている。

「顔色が悪いぞ、鼠」

「いつものことだ」

カイは銀貨を受け取り、工房を出た。西日が路地を赤く染め、帝国兵の長い影が石畳に伸びている。カイはその影を避けるように歩きながら、思考を加速させた。

灰色外套が追っているのは、反乱分子ではない。もっと具体的な何かだ。旧王家の記録、ヴァルトハイム家の縁者、父の元使用人——その交点にあるものは一つしかない。

父の暗号日誌。

カイは外套の内側に縫い込んだ革袋を指先で確かめた。薄い冊子の感触。ヴァルトハイム家最後の当主が、処刑の前夜に幼い息子に託した唯一の遺品。表紙も奥付もない、数十頁の手帳に過ぎない。だが記された文字は独自の暗号で、カイが十年かけて解読した部分はまだ全体の三分の二に満たなかった。

隠れ家に戻ったのは日没後だった。旧都の排水路の一角、崩れた煉瓦の奥にある、大人二人がようやく横になれる程度の空間。蝋燭の灯りで暗号日誌を開くのが、カイの日課だった。

頁を繰る指先が、今夜は震えている。グスタフが連行されたという事実が、腹の底に冷たい石のように沈んでいた。

暗号の解読は遅々として進む。父の暗号体系は複数の古代文字と数列の組み合わせで、一頁を解くのに数日を要することもある。だが今夜、カイは或る頁に目を留めた。以前は意味の通らなかった記号列が、先日解読した別の頁と照合することで、地名として読めることに気づいたのだ。

旧都の地下——封印区画。

父はこの街の地下に何かを隠した。あるいは、何かの在処を知っていた。帝国がそれを探しているのだとすれば、グスタフの連行も、書庫番の拘束も、すべて説明がつく。

蝋燭の炎が揺れた。排水路を風が抜けたのか。カイは日誌を閉じ、耳を澄ませた。

遠く、靴音が聞こえる。一人ではない。複数の、統制された足取り。軍靴だ。

カイは蝋燭を吹き消し、闇の中で呼吸を殺した。靴音はまだ遠い。だが近づいている。この排水路は複雑に枝分かれしており、隠れ家の位置を知る者はいないはずだった。

いないはずだった——グスタフを除いて。

暗闇の中で、カイは悟った。グスタフは喋ったのだ。あるいは、喋らされた。灰色外套の尋問に耐えられる人間は多くない。老いた薬草売りならなおさらだ。

恨む気にはなれなかった。ただ、事実として受け止めるしかない。十年かけて築いた「旧都の鼠」としての生活は、今夜で終わる。

カイは暗号日誌を革袋に戻し、外套の内側に固定した。非常用の小刀と、三日分の乾燥食糧。それだけが全財産だった。排水路の抜け道は七つある。靴音の方角から逆算して、北西の枝路を選んだ。

這うようにして狭い水路を進みながら、カイの頭はすでに次の手を考えていた。灰色外套が隠れ家を見つけたなら、ゲルツもオルグも、カイに繋がるすべての線が危険に晒される。情報屋の網は一夜にして灰になる。

だが日誌は手元にある。そして今夜、新たな手がかりを得た。

封印区画。父が遺した秘密の在処。

帝国が血眼になって探すものが、この旧都の地下に眠っている。

排水路の出口から夜空を仰いだとき、カイは十年ぶりに旧都の空を見上げていることに気づいた。帝国の旗は闇に沈んで見えない。代わりに、白い月だけが変わらずそこにあった。

十年前と同じ月だ。父が最後に見たであろう月と、同じ。

カイは走り出した。目指す先はまだ定まらない。だが、もう鼠のように隠れて生きる時間は終わった。

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