第2話
第2話
夜明け前の旧都は、死者の街に似ている。
カイは排水路を抜けた先の廃墟——かつての織物工房の地下室に身を潜めていた。ここは非常時の退避先として三ヶ月前に目をつけておいた場所だ。天井は半ば崩落し、壁には十年前の砲撃の焦げ跡が黒い花のように残っている。だが雨風は凌げるし、何より帝国の巡回路から外れている。湿った石壁からは地下水の染みた鉄錆の匂いが漂い、遠くで排水路を流れる水音だけが、この場所にまだ時間が流れていることを教えてくれた。
指先が震えているのは寒さだけではなかった。グスタフの顔が脳裏に焼きついている。連行される直前、あの老人がカイに向けた目——逃げろとも、すまないとも取れる、あの一瞬の眼差し。カイは外套の内側から暗号日誌を取り出し、残り僅かな蝋燭の欠片に火を点けた。小さな炎が揺れ、日誌の革表紙に父の手の脂が残した微かな光沢が浮かび上がった。
逃走の最中も、頭の片隅では暗号の配列が回り続けていた。昨夜見つけた「封印区画」の記述——あの頁の前後にはまだ未解読の記号列がある。以前は独立した暗号群だと思っていた。だが昨夜の発見で前提が変わった。父の暗号体系には、離れた頁同士を鍵として参照し合う多重構造が仕込まれている。一つの解読が、別の頁の暗号を解く鍵になる。まるで蜘蛛の巣のように、一本の糸を引けば網全体が震える設計だ。どれほどの時間をかけてこの体系を編んだのか。父の執念の深さに、カイは畏れに似た感情を覚えた。
蝋燭の炎が揺れるたびに影が踊る地下室で、カイは日誌の三十七頁と四十二頁を見比べた。三十七頁の数列を転置表として四十二頁に適用すると——文字が浮かび上がった。
『白百合の地下回廊、第七水門より東へ四百歩。王の間の直下に封印区画あり。鍵は血統が開く』
白百合の地下回廊。旧王宮の地下に張り巡らされた水路網の古い呼称だ。カイはかつて父に連れられ、王宮の庭園を歩いたことがある。五歳の記憶は朧げだが、白い百合が咲き乱れる中庭と、父が「この下には古い道がある」と言った声だけは覚えていた。あの日、父の大きな手は温かく、百合の甘い香りが風に乗って鼻先をくすぐった。今、指先に残るのは蝋燭の煤の匂いと、冷えた石の感触だけだ。
第七水門は現在の旧都の地図で言えば、帝国軍政庁——旧王宮の東翼に近い。帝国が最も厳重に管理する区域の直下だ。
そして「鍵は血統が開く」。
カイは日誌を閉じ、額を掌で覆った。父が自分に日誌を託した理由が、また一つ明確になった。封印区画に入れるのは、ヴァルトハイム家の血を引く者だけなのかもしれない。父が知っていて、そして帝国が探している何かが、あの場所に眠っている。
問題は、帝国もまたこの事実に近づきつつあるということだ。書庫番の拘束は旧王宮の記録からこの地下回廊の存在を探るため。ヴァルトハイム家の縁者への接触は、血統の手がかりを求めてのこと。そしてグスタフの連行は——カイ自身への最短経路を開くためだ。
灰色外套は手順を踏んでいる。外堀を埋め、標的を絞り込む古典的な諜報手法。となれば、網を張っているのは末端の兵ではない。
指揮官がいる。
カイがその名を知るのは、もう少し後のことだ。だが帝国治安維持局の旧都駐在主任、エーリッヒ・ヴェーバーという男は、既にカイの顔と名を手中に収めていた。
旧王宮の東翼。帝国軍政庁の一角に設けられた治安維持局の執務室は、壁一面に張られた人物相関図で埋め尽くされていた。赤い糸が人名と人名を結び、青い糸が場所と人物を繋いでいる。窓から差し込む朝の光が糸の一本一本を照らし、それはさながら獲物を待つ蜘蛛の巣のようだった。
ヴェーバーは四十二歳。痩身に銀縁の眼鏡をかけた男で、軍人というよりは学者に見える。だがその穏やかな風貌の裏に、旧都の地下組織を三つ壊滅させた実績が隠れている。彼の手法は拷問でも密告でもなく、情報の網を編むことだった。断片を集め、関係を繋ぎ、標的が自ら姿を現す瞬間を待つ。
「グスタフの尋問記録です」
副官が書類を差し出した。ヴェーバーは眼鏡を直しながら受け取り、頁を繰った。紙の擦れる音だけが、静まり返った執務室に響く。
「やはりか。ヴァルトハイム家の末裔が生きている」
声に昂揚はなかった。予測の確認に過ぎないという口調だった。
「グスタフの証言では、少年は排水路の一角を隠れ家にしていたと。既に急襲部隊を向かわせましたが——」
「逃げた後だろう。この少年は間抜けではない」ヴェーバーは相関図に新たな糸を引いた。カイの似顔絵を中心に、ゲルツ、オルグ、グスタフの名が結ばれる。「十五歳で情報屋を営み、三ヶ月以上我々の目を逃れていた。侮れば足元を掬われる」
「追跡の方針は」
「情報源を断つ。闇市の仲介人オルグ、兵站部のゲルツ——少年が頼れる人間を一人ずつ潰す。水を抜けば、鼠は自ら穴から出てくる」
ヴェーバーは窓の外に目をやった。旧都の屋根が朝靄に沈んでいる。
「それから、もう一つ。少年が持っているはずのヴァルトハイム家の遺物——暗号日誌。あれが本命だ。本国が血眼になっているのは少年ではない。日誌に記された情報だ」
副官が息を呑んだ。ヴェーバーは続けた。
「旧王宮の地下に先史文明の遺構が眠っているという報告が、三年前に帝都の考古局から上がっている。だが入口が見つからない。鍵となる情報がヴァルトハイム家に伝わっていたとすれば——日誌がその地図だ」
ヴェーバーは壁のカイの似顔絵を見つめた。少年の目は、情報提供者の証言を基に描かれたものだが、どこか父親に似ていた。十年前に処刑台に立った男の、あの静かな目に。
「全検問所に人相書を回せ。旧都の全出入口を封鎖する。逃がすな」
カイが帝国の網を実感したのは、その日の夕刻だった。
食糧の補充のために市場の外縁部に足を運んだカイは、通りの角に立つ帝国兵の手に自分の似顔絵が握られているのを見た。精度は高くない。だが特徴は押さえられている——痩身、暗色の外套、右頬の薄い傷痕。
心臓が跳ねたが、足は止めなかった。歩調を変えず、視線を逸らさず、雑踏に紛れて路地に折れた。背中に兵士の視線が刺さる感覚があった。振り返りたい衝動を歯を噛み締めてこらえる。十歩、二十歩。怒号は飛んでこない。そこで初めて走った。
オルグの工房は既に帝国兵に囲まれていた。遠目に確認しただけで引き返す。ゲルツとの連絡用の伝書箱も、おそらく監視下にある。一夜にして、カイの情報網は断ち切られた。
ヴェーバーの手際に、カイは認めざるを得なかった。感情を排した、正確な仕事だ。こちらの行動を読み、先回りしている。
追う者と追われる者の知恵比べ。カイはこれまで一方的に「見る側」だった。だが今、自分もまた見られている。
廃墟の地下室に戻ったカイは、蝋燭も点けずに暗闇の中で思考した。
逃げ場は狭まっている。旧都の出入口が封鎖されたなら、地上から出ることは困難だ。情報網は壊滅し、頼れる人間もいない。手元にあるのは暗号日誌と、三日分の食糧と、十年で磨いた頭だけ。
だが一つ、確かになったことがある。
帝国が追っているのはカイ自身ではない。日誌だ。ヴァルトハイム家の血統が握る、封印区画への鍵。帝国はあの地下に眠るものを手に入れたいのであり、カイはその手段に過ぎない。
ならば、とカイは考えた。
帝国より先に、封印区画に辿り着く。それが唯一の手だ。
地上が封鎖されているなら、地下を行く。旧都の排水路網はカイの庭だ。十年這い回った水路から、旧王宮の地下回廊に入る道があるはずだ。第七水門——日誌が示した入口は、帝国軍政庁の真下にある。最も危険な場所が、最も近い道になる。
カイは暗闇の中で立ち上がった。膝が軋み、空腹で視界の端が白く明滅した。だが頭は冴えている。恐怖は消えていない。消す必要もない。恐怖は生き延びるための道具だと、路地裏の十年が教えてくれた。
もう隠れて生きる選択肢はない。鼠は追い詰められたとき、初めて牙を剥く。ならば今がその時だ。
暗号日誌を外套の内側で握りしめ、カイは排水路の闇へと踏み出した。足首まで浸かる冷水が靴の中に染み込み、肌を刺す。水の流れる方向は北東——旧王宮へ向かう方角だ。目指すは旧王宮の地下。父が封じ、帝国が渇望し、そしてヴァルトハイムの血だけが開くことのできる場所。
封印区画が待っている。